第七話 スクールダンジョン
「はあ……」
「溜息をつくと幸せが逃げる」というが、そんなことは気にしていられない。
出るものは出るのだ。
我慢する方が身体に悪い。
校舎から体育館へと繋がる通路を、忍のように息を潜ませながら進み、もう一度深い溜息をついた。
その時、制服のポケットに入れていたスマホが鳴った。
メールや電話の着信を告げていることが分かったが……無視した。
進んだ先、体育館の中には入らず、裏手にある小さな中庭に向かう。
中庭と言っても、小さな和風の坪庭のようなところだ。
砂利道には飛び石が置かれ、脇には蹲がある。
ここは最近、僕のお気に入りの隠れ休憩所となっている。
誰も来こないし、静かで疲れた心を癒すにはちょうどいい。
もう何度目か分からない溜息を吐きながら、ちょうどいい高さの岩に座った。
背中を丸め佇む姿は、リストラされたことを家族には言えず、公園のベンチで時間を潰している元企業戦士にも負けない哀愁を漂わせているに違いない。
そこで再び、制服の中のスマホが鳴った。
「うるせえ……ちょっと放っておいてくれよ……」
うんざりしながらも、スマホを取り出すことにした。
誰からどういう用事かは察しているが、一応確認してみよう。
FROM楓
≫今どこ?
FROM柊
≫会えないか?
FROM雛
≫『着信あり』
なんというかまってちゃん達……!
僕は保護者じゃないぞ!
お前らで集まっていればいいじゃないか!
楓は四六時中引っ付いてくるし、何故か雛はそれに対抗する。
柊は柊でメールが頻繁に送られて来るし、迷惑メールにも程がある!
あんまり構われると息が詰まるってーの!
僕の長閑な覗き見ライフを返して欲しい。
今この瞬間にも兄達はにゃんにゃんしているかもしれないのに!
見たいにゃー……潤いをください。
僕という砂漠に、BLという名のオアシスを与え給え!
「なんだろう……この疲労感と閉塞感」
何がいけなかったのだろう。
どうも失恋BLを気にし始めてから、厄が廻ってきている気がする。
運気の急降下だ。
先祖の墓参りにでも行って、守護霊の加護を強化した方がいいのかもしれない。
もうBL充は、兄達だけにしておいた方がいいかも……。
欲張ったからいけないのか。
二兎追うもの一兎をも獲ず、だな。
面倒を起こして兄達がはげまなくなったら大変だ。
よし、これ以上失恋BLを追いかけるのは自重しよう。
そう心に決め、天を仰いだ。
その時――。
動くものに目が引き寄せられた。
場所は三階の角にある生徒会室。
それは人で……燃えるような真っ赤な髪に、遠目でも分かる整った顔をしていた。
「!!!! ……うっわ」
タイミングを計ったようなタイムリーな人物だった。
失恋BLの最後の一人、青桐夏希。
生徒会長で、ゲームでは特に人気の高かった人だ。
ゲームのパッケージでは、かなり広範囲を占領していたエースのような存在である。
眉目秀麗、成績優秀な俺様キャラで、歯向かう者は実力でねじ伏せてきたような人だ。
女子には圧倒的に人気があるが、男子からは畏怖されている節がある。
こいつにはどう足掻いても勝てない、という敗北感から距離を置いてしまうのかもしれない。
もちろん、それ以上に羨望の眼差しを向けられていることも確かではある。
彼が兄に好意を抱いたのは、確か……。
同じ高スペック人間なのに、周りから距離を空けられている自分とは違い、万人に慕われている兄の人柄に惹かれたからだ。
彼に物言える存在が、兄だけだったというのも決め手だった。
ゲームの記憶を思い返していると、不審者としか思えない息遣いになってしまいそうだが、ここは深呼吸で呼吸を整えて冷静になろう。
これ以上関わらないと決めた瞬間に見かけるなんて、嫌な予感しかない。
急いでこの場から離れようと思ったが、急に動いては目に付いてしまう。
慎重に――自然に――ゆっくりと歩みを始めた僕だったが、妙に後方が気になり、再び生徒会室の方を見てしまった。すると……。
「ひいっ」
見ていた。
会長がこちらを……明らかに僕を見ていた!
距離はあるが完全に目が合っている。
――ニヤリ
「う、うわあああああっ!!」
妖艶な笑みを見た瞬間、僕は全力で逃げだした。
本能が「逃げろ!」と叫んでいる。
もう学校にいてはいけない。
早く家に帰ろう!
教室に置いてある鞄を取りに行こうと廊下を進む。
すると、校内放送が始まるようで、スピーカーのノイズが聞こえてきた。
『天地央、生徒会室まで来い。今すぐに!』
「はあ!?」
思わず転びそうになった。
今の声は、間違いなく生徒会長だ。
放送が切れる時のブチッという破裂音を残し、放送は終わった。
放送というより強制召集だ。
「…………。無視しよう、そうしよう」
僕は今、放送が聞こえないところにいた、そういうことにしよう。
気を取り直し、再び教室を目指して歩き始める。
「あ、天地君。生徒会長が呼んでたよ」
「え」
廊下ですれ違ったクラスメイトの女子に呼び止められ、告げられた。
「あ、そ、そう。ありがとう……」
わざわざどうも……。
引き攣った笑みでお礼を言い、教室を目指す。
無視だ、無視無視!
なるべく声を掛けられないように、誰とも目を合わせないように廊下を進むが……。
「あ、天地君、放送で呼んでたよ」
「会長が呼んでたよ、早く行きなよ」
「さっき放送で呼んでたよ」
「……うん、ありがとう」
すれ違う女子という女子が、まるで会長の手先のように口を出してくる。
知らない人、話したことの無い人まで言ってくる。
ここは完全に敵のテリトリーだ。
早く抜け出さなければ……!
僕のHPが尽きるまでに!
その時、再びスピーカーのノイズが耳に入った。
「まさか……」
予想していた通りに校内放送が始まり、そして……。
『天地央、さっさと生徒会室に来い!』
さっきよりも明らかに苛立ちを孕んだ声で、命令が下った。
ブチッという破裂音がトラウマになりそうだ。
「ん?」
視線を感じ、自然と俯いてしまっていた顔を上げると、周りにいた女子が皆こちらを見ていた。
「ひいっ」
怖い、完全なホラーだ!
「天地君、呼んでるよ?」
「早く行かなきゃ!」
「会長を待たせるなんて絶対駄目だよ!」
「うん……そ、そうだね!」
気がつけば走り出していた。
怖い、女子エンカウント怖い!
いつから学校はアウェイになったのだろう。
この学校では、会長が絶対正義だとでもいうのだろうか。
それでも逃亡するべく心を強く持ち、女子という刺客に立ち向かいながらなんとか教室に辿り着いた。
廊下がこんなにも恐ろしく、長いものだったとは……。
エンカウント率も半端ない。
疲れた割には経験値がカスという最悪なダンジョンだよ、全く。
教室には誰もいない……と思いや、白兎さんが残っていた。
白兎さんは僕とは離れた席なのだが、何故か僕の席の横に立っている。
机の上に鞄があるから気になったのだろうか。
訝しんでいると目が合った。
「「…………」」
お互いに沈黙してしまった。……何でしょうか?
「ええっと、鞄取りに来たんだけど、白兎さんは帰らないの?」
「ふんっ」
爆風鼻息をたてながら、太い親指を立てた。
指し示す先にはスピーカー。
……刺客はここにもいたのか。
教室も安全地帯ではなかった。
「あ、うん。……サンキュ」
さっさと行け、と言われているようだ。
そこで僕の心がポッキリと折れた。
分かったよ! 行けばいいんだろ! 行けば!
生徒会室がある三階まで、足取り重く階段を上る。
来たことも、入ったこともないところだが、場所は知っているのですぐに辿り着いた。
「はあ」
すっかり幸せは空っぽ、マイナスだ。
来月分から差っ引かないといけないくらいだ。
前倒しを続けて、幸せの前借自転車操業で倒産してしまいそうな気配すらする。
「はああ」
見上げた先にある室名札には『生徒会室』と書かれてある。
いつまでも突っ立っているわけにはいかないので、腹を括って扉を開けた。
「遅いぞ! 天地央!」
さっきは開いていた窓もカーテンも、今は閉められていた。
淀んだ空気の生徒会室は、あまり気持ちの良い空間ではない。
生徒会室は普通の教室と同じつくりだが、個人用の机はなく、会議用の長机とパイプ椅子が『コ』の字型に置かれてあった。
その中心となる席に、苛々した様子の俺様イケメンが偉そうにふんぞり返って座っていた。
華四季園学園、生徒会長様である。
手にはボールペンを持っているが、それはジャックナイフに見えてくるから恐ろしい。
制服のブレザーは別の椅子に無造作に掛けられ、シャツの袖は捲り上げられている。
ゲームで見たままのワイルドなスタイルだ。
燃えるような深紅の髪も、ワイルドな見た目に合っていて格好良い。
瞳はまるで宝石の紫水晶。
シャープで端正な顔は、女子のハートを鷲掴みにすること間違いなしだ。
「随分待たしてくれたじゃないか。ああ?」
「すみません。でも、あの……会長と僕は初対面、ですよね?」
待たされて苛々するのも分かるし、僕は下級生ではあるが、態度が悪すぎませんか?
カツアゲでもされそうな雰囲気なのですが!
「…………」
僕の咎める空気を察知したのか、会長の表情が険しくなった。
指でくるくる回していたボールペンを止め、トントンとペン先で机を叩くと、ジロリと僕を睨んだ。
「『天地真の弟』。お前についてはそれだけで十分だ」
「はあ……」
返答になっているかいないのか分からない。
僕のことは『天地真の弟』という点にしか興味がないということか?
OK、OK……殴りたいのは気のせいかな。
興味がない奴を校内放送で呼びつけるなよ、この馬鹿ちんがっ!!
「で、何の用っすか……」
敬う気も、言葉を畏まる気もなくなった。
早く帰りたい。
会長はそんな僕を一瞥し、腕を組んで口を開いた。
「お前は、自分の兄が『男が好きだ』と言ったらどうする?」
「…………は?」
こいつ、何言ってるの?
あ、つい『こいつ』と言ってしまったが……。
「さあ、どうでしょう?」
どういう意図で言っているのかも分からない。
とりあえず惚けて、様子をみてみよう。
「ふん」
会長は、はっきりとした返事をしない僕を見て、鼻で笑った。
もう、なんなのこいつ。
一々苛々するなあ……。
「じゃあ、お前は櫻井春樹をどう思う?」
「はあ!?」
馬鹿なの? ねえ、馬鹿なの?
まさか……二人が恋人同士であることを、身内である僕に勝手に話すつもりなのだろうか。
いやいやいや。そんなデリカシーのないことするわけがないか。
「どうって、兄ちゃんの親友で……僕にとっても良い兄貴で大好きですよ」
「大好き!? 兄弟揃って、お前までも毒牙にかかっているのか!?」
「お前馬鹿だな!」
思わず声でちゃった! 本気でデリカシーがなかった!!
「馬鹿はお前だ! 正気か! あんな奴のどこがいいんだ!」
「どこって、あんたより……はっ!」
危ない危ない、馬鹿に釣られるところだった。
僕が兄達の関係を知っていてはおかしいのだ。
知らないふりをしなければいけない。
「あの、なんのことですか? なんで兄の親友の春兄のことを『あんな奴』呼ばわりするんですか?」
「なんでって……それは……」
今の発言で、僕は『兄達の関係は親友同士』と認識している、とわざわざ強調した。
頭の良い会長なら察してくれるはずだ。
何も知らない弟に、勝手に秘密を暴露するなんてことは、普通はしないはずだ。
さっきも遠まわしにバラしたのと同じだが、BL方面を意識したことがなければ分からないし、鈍感であれば気がつかない。
僕は鈍感系弟なのだ。
「お前は……真が男と付き合っていたらどうする?」
「はああああっ!?」
だから、ネタバレするなって!
一回チャンスをやったのに!
見逃してやったのに!
「いや、だから……分かりませんて……」
頼むから、察してくれ!
「実は、お前の兄は櫻井とデキている」
あーあ、言っちゃった……。
一番やってはいけないことをやってるよ、あんた。
どうリアクションしたらいいか分からない。
「…………」
「……言葉もないか」
ええ、貴方の馬鹿っぷりに。
勝手に弟にカミングアウトするデリカシーのなさに。
「俺は真の目を覚ましてやりたい」
覚ましてどうするんだよ。
要は、自分のものにしたいだけなんだろ。
『覚まして、ヤリたい』
……そういうことか。なるほどなるほど。
「はあ……覚ましてヤリたいのは何故ですか」
「ん? イントネーションに違和感があったような……。いや、まあいいか。真は大事な友人だからな」
それだけでわざわざ弟を校内放送で呼び出して、何かしようとするか?
下心がスケスケシースルーだってーの!
「会長は兄ちゃんのことが好きなんですか?」
直球には直球だ。
「ばっ! 俺は違う!」
それにしては、顔の血色が良くなった気がしますが?
照れている時点でアウトです。
「へー」
「断じて違う!」
「へー」
「…………」
「…………」
『不毛だ』
お互いにそう感じた。
「で、僕になんの用なんですか」
「お、おお……。お前には、真の目を覚ますため、協力して欲しいんだ」
「嫌です」
「何?」
「嫌です」
つまり、春兄と別れさせるのを手伝えってことだろ?
そんなの困る!
二人のにゃんにゃんが僕の唯一の癒しなのに!
なくなったらBL栄養失調で死んじゃうにゃん!
断固反対だ!
「会長が言っていることが、本当かは知りませんが……。例えそれが真実だとしても、僕は兄の意思を尊重します」
「なんだと?」
「春兄と付き合っていてもかまいません。応援します」
「……正気か?」
だからお前に言いたいよ、その台詞。
「兄ちゃんのことはスパッと諦めて、新しい恋でもしたらいいんじゃないですか。馬に蹴られて死んじゃいますよ」
二人を妨害するなら、馬にナニを蹴られて潰されてしまえばいいのに!
もうお前の役目は終わったのだ!
天使の営みに横槍を入れるなど、地獄に落ちるぞ!
哀愁BLならご馳走になるが、兄達の邪魔をするのは駄目、絶対!
「オレもそう思うな」
急に背後から声が聞こえた。
驚いて振り返ると、そこには恐ろしく顔の整った男子生徒が立っていた。
シャツに付けてある襟章の薔薇の花びらが二枚、ということは二年生だ。
背丈は会長より僅かに低いくらいに見えるが……誰かに似ている。
あれ、この人どこかで見たような……?
「何をしにきた、夏緋」
「え?」
再度振り返って会長を見る。
「あ!」
会長だ、会長とそっくりなのだ。
でも顔の造形が似ているだけで、印象は全然似ていない。
長めの前髪を片側に流していているため、片目が少し隠れている。
反対側の髪は耳に掛けていてインテリっぽい印象を受けるが、服装はシャツに黒のパーカーを着ていてカジュアルにも見える。
髪の色は会長と正反対ともいえる海を思い出させるようなコバルトブルーだが、瞳は同じ紫水晶だ。
「俺の弟だ」
「弟!!!?」
「留学していたんだがな。最近戻ってきて、ここに編入してきたんだ」
会長に弟がいたとは知らなかった。
ゲームには出てこなかった!
ちょっと……いや、かなりワクワクする!
邪眼を発動させながら観察していると目が合ったので、とりあえず会釈程度に頭を下げた。
「…………。兄貴。何度も言っているが、男の尻追っかけるなんてどうかしているぞ」
……おい。
僕を華麗にスルーして通り過ぎて行った。
チラリとも見ない、まるで僕など存在していないかの様な振る舞いだ。
なんだ、兄貴が兄貴なら、弟も弟か?
兄弟揃ってイイ性格してるじゃないか。
「お前まで! だから違うって言っているだろ。お前は余計な口を挟むな」
「黙っていられるかよ。兄貴が男好きだなんて広められたら、身内の恥だし、オレも困る」
弟はノーマルなのか。
でも、他の攻略者も男が好きと言うわけではなく、『天地真』が好き、結論BL。
そういう感じだ。
だからそういう相手が見つかれば、この弟も兄の後に続くかもしれない。
優秀なDNAは持っていそうだ。
その件についてはさておき――。
今も言い争いを続ける二人を見て苛々する。
二人で話すならそれでいいじゃないか。
付き合っていられるか。
放っておいて、僕は帰らせて貰おう。
二人に背を向けて足を進めると、後ろから冷たい声が聞こえた。
「そこのお前。今の話、もちろん誰にも言わないよな?」
声の方に顔を向けると、会長の弟が暗黒微笑を浮かべて見ていた。
声のトーンは穏やかだが、完全に脅迫だ。
逆らったら何をされるか分からない。
さっきまで人のこと無視していたくせに、脅しはしっかりやるんだな。
とは言え、この学校は会長のホームグラウンドであり、会長がDMだと思い知らされたばかりで、逆らう気なんてこれっぽっちもない。
兄達のことに影響が出ても嫌だし、誰かに話すメリットが僕にはない。
「誰にも言いません」
「良し。じゃあ帰れ」
「ちょっと待て、話はまだ終わってないぞ!」
会長を無視してさっさと退室しよう。
会長弟はいけ好かない奴だけど、おかげで早く脱出することが出来た。
そこだけは感謝しよう。