第四話 解き放たれた怪物
一日の授業を終え、放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
部活に行く者、バイトに行く者、遊びに行く者。
それぞれが己の目的のために行動を開始し、校内は音で溢れている。
僕は校舎を出て、校門へ続く通路の脇にある低い花壇に腰掛け、周囲の雑音をBGMにして自分の目的に集中していた。
「アキラ、早く帰ろうよ」
僕の隣では一際大きな雑音が続いている。
発信源はメリー楓だ。
最近では登校だけでは飽き足らず、下校まで取り憑かれるようになった。
何故だ……お祓いに行くべきか。
そんなことより今は集中だ。
五感を研ぎ澄ませ、目標に集中する。
「そんな真剣な顔してどうしたんだよ。何を見てるの?」
無視だ、無視。
僕は低い花壇のブロックに腰掛けているが、『向こう』は普通に立っている。
つまり僕は下から覗ける位置にいるということだ。
これは絶好のチャンス!
よし、来いっ!
もっと前に……!
「うぐぐ……」
見えそうで見えない……なんという絶対領域。
侵すことの出来ない聖域。
だが、敢えて僕はその地に足を踏み入れる。
さあ、怖くないよぉ……見せてごらん、ふふ。
「まさか、女子のスカートの中覗こうとしていたりしないよね?」
「そんなものには興味はない」
「えっ」
女子のおパンツなんて前世で腐る程見たし、毎日はいてたっつーの。
ん?
今の僕って楓が言うように、女子のおパンツ見ようとしている童貞小僧にでも見えるのだろうか。
ちらちら視線を感じる。
「央君がいるよ! あ、楓君も!」
「あの美少女がいないからチャンスじゃない?」
何かコソコソ言われているが、今は恥を捨てる。
何かを得るためには何かを失わなければならない。
それが世の理だ。
あ、白兎さんもこちらを見ている。
いつもの様に凄く睨まれている。
大丈夫、絶対見ないから。
彼女はおパンツより、レスリングのユニフォームとか着てそうだ。
おっと、邪念が入った。集中。
「……アキラってあんまり女の子に興味ないの?」
「はあ?」
楓よ、うるさいし邪魔。
何をそわそわしているのか知らないけど、僕の周りをうろちょろしないでくれ。
あっ、見えそうだ!
よし、よし……あと、ちょっと!!
「もう、アキラってば!」
「あああ!? おまっ、邪魔!」
前に出てきて視界を塞いだ楓を必死に押し退けたが……遅かった。
すでに目標は姿を消していた。
ああ、また見えなかった。
惜しかったのに、泣いていいですか。
「お前、本当に無いわ……」
「なんなんだよ! もう、さっきから何を見ているんだよ」
目標、僕がどうしても見てみたいモノ。
それはある人の『素顔』だ。
その素顔は、今は巧みに封印されている。
封印自体は強固なものではない。
なんてことない、前髪とタオルというありふれたもの、どこにでもあるものだ。
だからだ。
だからこそ人はそれを封印だとは認識しない。
封印されていると認識しないものを解こうとは思わない。
そこが巧みなのだ。
すぐそばに秘宝はあるというのに、誰も気がつかない。
でも、僕は知っている。
前世という宝の地図を持っているから辿り着ける。
『隠れイケメン』というBLの秘宝に!
秘宝の素顔の持ち主の名は『柊冬眞』。
長身の成人男性、確か年齢は二十五歳。
先生では無い、『用務員』さんだ。
失恋BLの一人である。
彼はグレーのツナギ作業服に白のタオルを頭に巻いていて、一見すると地味でダサい。
髪は明るいオレンジで地味なんて印象を抱くはずがないのだが、実際に目にすると地味ダサの印象を受ける。
でも、僕は知っている。
あの頭に巻かれたダサい白タオルと長い前髪の下には、切れ長の鋭い金の瞳が隠されているのだ!
素顔が露わにし、オープンイケメンとなった時の姿は美形度でいえば攻略キャラの中でもピカイチ。
そんな美味しい存在、天然記念物級の国で保護すべき素顔をこの邪眼で直接網膜に焼き付けたかったのだが、楓のせいでまた見ることが出来なかった。
おのれ楓め、罪は重いぞ!
ああ見たいなあ。
見ることが出来るなら財布の中の全財産を払ってもいい。
働いて返せる程度なら借金してもいい。
用務員さんに想いを馳せていると、隣の楓がぎゃんぎゃん喚きだした。
関係ないと言ったことを怒っているようだが本当に関係ないのだから仕方がない。
あ、でも、兄を取り合っていたかつてのライバルだから関係深いかな?
かつてのライバル、かーらーのー、ラヴ!
……あり、だな。
お互いに傷を舐め合い、そして物理的にも舐めあ……ふっ。
神聖なる校舎でこれ以上はよそう。
続きの思考は、家に帰ってからにとっておこうか。
「楓よ、年上、オレンジが『吉』だ」
「はあ? 何の話」
「多くは語るまい。だが、心に刻んでおけよ」
「アキラって時々会話が成り立たなくなるよね」
楓に神の啓示を与えることが出来たので、今日はこれで納得しよう。
さあ、明日も頑張ろう!
※※※
元は白だった面影はあるが月日が流れ、くすんでしまった二枚扉。
扉の上の室名札には『用務員室』と書いてある。
今日、僕は目的の本拠地に出撃していた。
ここは当然、用務員さんが使用している部屋なのだが、生徒が訪れることもある。
例えば色々な相談。
進路やプライベートな悩みについて、教師には相談しづらい話をしたい時に訪れ、話を聞いてもらうことが出来るのだ。
それを利用し、適当に話をしながら隠れイケメンっぷりを確認するというミッションを遂行しようと来たのだが、扉の前まで来て少し戸惑った。
まず、何を話したらいいか分からない。
進路はまだ考える猶予があるし、悩みも「払いに行くべきかどうか」ということくらいしかない。
それに、直接接触するのは危険かもしれない。
前世知識をうっかり話してしまって、まずいことにでもなったら……。
あと、この学校の用務員さんは隠れイケメンともう一人、肝っ玉母ちゃんのような女性がいるのだが、主に相談担当は彼女だ。
隠れイケメンは学校の管理や体験活動の指導員などの活動が主で外に出ていることが多い。
中にいるのが肝っ玉母ちゃんだったら来た意味がない。
「……やっぱりやめよう」
こっそり覗き見るのが一番だ。
そう思って踵を返すと、用務員室の扉が開く音がした。
「? ……あ」
振り返ってみると、そこには隠れイケメンの彼がいた。
「何か用ですか?」
紐暖簾のような長い前髪で目は見えないし今日も相変わらずの地味メンだが、声はイケメンだった。
アニメでは主人公の声をやっていそうなイイ声。
くぅ、堪りませんなあ、早く目が見たい!
「あ、いや、何でもないんですけど」
「まあ、どうぞ。お茶でも飲んでいってください」
どうぞ、と促される。
少し迷ったが、お言葉に甘えてお茶だけでも頂いていくことにした。
中には小さなテーブルを挟んで、茶色の安そうな二人掛けソファが向かい合って置かれていた。
ちょっとした応接室という感じだ。
奥に繋がるドアが二枚あり、一つは備品や資材などがある倉庫で、もう一方は用務員二人が事務処理をするデスクがある。
ゲームでも見たことがある光景だが、やはり二次元と三次元では印象が違う。
絵だと何てことない風景だったが、現実にこの場に立ってみると、暗くて中が見えない奥の部屋や音のない静かな空間が寂しく見えた。
「どうぞ」
そわそわしながらソファに腰掛け待っていると、目の前にお茶が置かれた。
暖かいほうじ茶だ。
良い匂いと湯気で緊張が多少解れた気がした。
「ありがとうございます」
飲むように勧められたので、手にとってふうふう冷ましていると、柊が目の前のソファに腰掛けた。
視線は僕に向けられている。
前髪であまり見えないが、鋭い視線を感じる。
「俺に何か聞きたいことでもあるの? 天地央君」
「!」
名乗っていないのに名前を呼ばれ、びくっと肩が跳ねた。
素顔を狙っていることがバレたのかと焦ったが……落ち着け、僕。
天地真の弟ということで顔は広いほうだから、知られていることは珍しいことではない。
「いえ? 何もないです」
「本当に? 最近俺のこと見てない?」
「え、ええ?」
どうしよう、嫌な汗が流れてきた。
柊の顔を見ることも出来ない。
なんとか誤魔化さなければ!
「なんのことでしょう僕分からない、てへっ!」、という思いを込めてにっこりと微笑んでみた。
楓をニコポ攻略した会心の微笑みだぞ、ドヤァ。
「…………」
変化無し! リアクション無し。
こちらを射抜く目を収めるつもりはないようだ。
それどころか「見ているのは分かってんだぞ、ゴラァ」というような圧が加わった気がする。
作戦失敗!
「み、見てないです」
誤魔化そうとしたら声が上擦った。
笑ってしまいそうな程嘘をついているのがバレバレだ。
なんとか話を変えてこのピンチを乗り越えなければ……!
「君、お兄さんから何か聞いた?」
「うええ!?」
どう逃げるか考えていたのに、兄のことを出されてつい変な声が出てしまった。
兄と柊に一悶着があったのはゲームでは知っているが、実際はどうなったか知らないし、兄から柊の話を聞いたこともない。
だが兄と柊の関係が、ただの一生徒と用務員の関係ではなく、『何かあった』ことはゲーム知識で分かるわけで……。
そして今僕は、それをそのままリアクションで示してしまったのだ。
阿呆だ、自分が阿呆過ぎて恥ずかしい。
「さ、さあ? 何も聞いてないですけど」
苦しいがやはり『知らない』で突き通す以外に道はない。
兄から聞いていないというのは嘘ではない。
……ゲーム知識のせいで声が裏返っちゃったけど。
ああ、僕はなんて素直な子に育ってしまったのだろう!
「何を聞いたのかなあ。……困ったね」
ソファの肘掛に肘をつき、頬に手を当てている姿から殺気のようなものを感じる。
柊は僕が何か知っている察したようだ。
ひええええ、怖いんですけど!
というか、聞かれて困るようなことをしたのか?
それが凄く気になる!
そういえば……ゲームでの彼は普段は温厚で静かだが、恋愛関係には割りと強引なところがあって兄を用務員室に閉じ込めて押し倒し…………って、それかああああっ!!
ゲームであったそんな場面が、実際にも起こったのだろう。
確かソファに兄は押し倒されて……あ!
まさにその現場が、今僕が座っているこのソファじゃないか!
記念品として持って帰りたいなあ。
安いソファを思わず一撫でしてしまった。
……じゃ、なくて!
今はそれどころじゃない。
柊は押し倒したが最後までいたすことは出来ず、兄は逃げたのだが……これって現実には、用務員が生徒を襲ったのだからまずい問題である。
学校にチクられでもしたら大問題だ。
「本当に何も聞いてないの?」
パニックを起こしていると同じ質問をされた。
声も出せず、こくこくと頷いて返事をする。
「……そう、じゃあいいよ。帰って」
「え?」
「帰りたい、って顔に書いてあるよ。もういいから、帰りなさい」
回避策をオーバーヒートしそうなくらい考えていたのに、あっさり開放してくれるらしい。
それならそれで良かった。
ならば長居は無用だ!
「お茶、ご馳走様でした! お邪魔しましたー!」
脱兎のごとく逃げ出し、出入り口の扉を開けようと手をかけたその時――。
――ドンッ
僕の真後ろ、体温を感じそうな程すぐ近くに気配がする。
そして目の前のドアは、僕の顔の横を通り過ぎて伸びてきた手に塞がれていた。
「なんてね、まだ逃がしてあげられないなあ」
耳元で柊の声がした。
鼓膜に響く重低音に攻撃的な印象を受け、恐怖を感じた。
……が。
恐怖は感じるが、だ!
それよりも今、大変なことが……大事件が起きたじゃないか!
これは……あの、伝説の……!
「壁ドン!」
巷の女子が憧れるあの壁ドンではないか!?
正確には壁ではなくドアだが、何より今『ドンッ』って言ったしね!
そうだよ、絶対これがそうだよ!
距離が近いし、追い詰められたという圧迫感と恐怖感、そしてそこから沸き起こる高揚!
素晴らしい!
マーベラス!
いやあ、貴重な体験が出来たな!
これはイイ……女子達の気持ちが分かる、今だってドキドキして……!
「君は……」
柊の声を聞いて我に返った。
あれ……そういえば僕、ピンチでした?
振り返って柊の顔を見ると無表情だった。
「あ、すいません。続きをどうぞ」
確か「やっぱり逃がさない」とか、そういう件だったはずだ。
「……いや、もういいよ」
柊は疲れたようにそう零すとドンをしていた手を下ろしてソファに戻り、両手で頭を抱えこんでしまった。
……これは、僕のせいでしょうか?
確かに空気を読まなかったというか、流れをぶち壊した自覚くらいはある。
放っておくのも悪い気がして、仕方なく向かいの伝説ソファに戻った。
「えっと、何か……すいませんでした」
「もういい、放っておいてくれ。俺のことなんか……」
『そうですか。じゃあ、さようなら』と去りたいところだが、この悩める人スタイルに陥ったきっかけが自分にあるので放置するのも気が引ける。
それになんだか自暴自棄になっているような感じも気になった。
少し話をしてみようか。
「何かあったんですか? 悩み、とか……。僕でよければ聞きますが」
声を掛けるとゆっくりと顔をあげてこちらを見た。
相変わらず目は見えない。
「お悩み相談を受けるのは、俺の仕事なんだけどね」
「それは知っていますけど。今はどう考えても逆の絵面だと思うので」
真っ直ぐ姿勢良く座る僕に、頭を抱える柊。
どちらが悩める人かと聞かれたら、誰もが間違いなく柊だと答えるだろう。
「……そうだな。じゃあ、聞いて貰おうか」
「え? あ、はい」
あ、話してくれるんだ。
聞いておいてなんだが、話してくれるとは思っていなかった。
ちょっとワクワクする。
改めて姿勢を正し、柊に向き合う。
兄とのあれこれだろうか!
すでに邪眼は解き放たれていますよ!
「君は本気で人を殺したいと思ったことはあるかい?」
「はい? え、な、無い、ですけど」
……え?
どういう話ですか?
ソッチ系ですか?
冗談を言っている様子は無い。
「もちろん僕も基本的には『無い』。でもね、状況とか環境とかタイミングとか、色んな要素が揃って『あ、今なら殺せる』って思った瞬間に手を止める自信が無いんだ」
悪魔が囁く瞬間という奴か?
今の話だと囁くどころか取り憑かれていそうだ。
「それは殺してしまったら悲しませてしまう人を頭に浮かべるか何かして、自制するしかないんじゃないですか。というか、あの、それは何の話ですか」
想定外過ぎて対応出来ない。
意味不明だ。
ピンクな話題を待っていたのに黒い話題で正直しょんぼりです。
僕の邪眼が猛抗議し始めるぞ!
「ああ、すまないね。邪魔な奴がいるんだよ。あいつがいなかったら手に入るのになあって。この前、高いところから物を落としてしまった時にふと思ったんだよ。ちょうどこの下をあれが通っていれば、ってね」
「それって……」
これは……黒と思いきや元はピンクじゃないか?
血が酸化したら黒くなるように、ピンクも黒くなってしまったのだろうか!
十中八九、兄と春兄のこと言っていますよね!?
大変だ! 春兄が命の危機だ!!
デンジャー! デンジャー! 警報発令!!
失恋BLがヤンデレ化していますよ!
いや、デレは無さそうだから単純に病んでいる!!
そこまで兄のことを……ああ、BL愛は深海よりも深し! と感動する反面、警告サイレンが鳴り響いている。
どうしよう、僕に出来ることはなんだろう。
兄カップルには幸せにせっせと励んでほしい。
兄達の愛欲生活を守るのは僕だ、僕は愛欲守護者なのだ!!
「じゃあ、高い所に行かなければいいんですよ!」
「そういうわけにはいかないだろう。それにそれは一つの例えであって、たとえば電車のホームであいつが目の前に立っていて……」
「電車乗るのやめましょう! 交通手段は車で!」
「運転している時にあいつが前を歩いていたら……」
「徒歩! もう何処行くのにも徒歩にしましょう!」
「歩いていて交差点で目の前に……」
「もう家にいろ!」
面倒だこの人!
イケメンっぷりが今のところ全然見えない!
地味な上に病んでいるし、声以外にはイケメン要素皆無だよ!
「どうすればいいんだ……。本当はこんな自分は嫌なんだ。こんなんだから、俺じゃ駄目だったんだろうな」
再び頭を抱えて沈む柊。
良い体格をしているはずなのに、凄く小さく見える。
今の呟きを聞いて、この人は本当に兄が好きだったんだなと切なくなった。
失恋の辛さと嫉妬の妬みで淀んだ自分に嫌気がさしているようだ。
兄達も救いたいが、柊もなんとかしてあげられないだろうか。
この人にも『手を差し伸べる』というのは大層な言い方かもしれないけど、何か力になってあげたい。
「じゃあさ、その黒い感情が沸いてきたらとりあえず僕に連絡してみません?」
「君に? 何故だ?」
「一人で考えて、殻に閉じ込めてモヤモヤするから溜まっていくんだよ。誰かに伝えて拡散させたら淀みも少なくなるんじゃない? まあ、とりあえずやってみない? あ、やってみませんか」
思いついたことを提案してみた。
悩みって人に話すと考えが纏まったりすっきりしたりするものだ。
柊は口を開けてきょとんとしていた。
その状態で固まっていたが、少し経つと力無い様子ではあるが微笑みを浮かべた。
無事に悩める人スタイルから姿勢も良いものに戻った。
「はは、無理に敬語は使わなくていい。そうだな、頼めるか?」
やっと明るい声を聞けた。
「一応敬語は使いますよ。たまに忘れると思いますけど。じゃあ、ラインかメールで連絡してください」
「ラインはやっていない。メールで頼む」
「分かりました!」
とりあえず柊と連絡をとって、病んでる度を測りながら様子をみよう。
それで兄達の身の危険も察知出来るだろう。
我ながら名案じゃなかろうか!
別れの挨拶をし、今度はドンされることもなく用務員室を後にした。
※※※
それから学校がある平日は、毎日柊メールが届くようになった。
基本的には『あいつ』、明確には言わないが春兄を見かけたから殺意が沸いたという内容だ。
読んでいて非常に欝だ。
だが柊メルマガに登録してしまったのは自分だからしょうがない。
これが兄カップル、そして柊の為になるなら我慢しよう。
そんな事を考えていたら、メールの着信音が鳴った。
着歌は髪の長い女性が井戸から出てくる映画のアノ歌だ。
これ以上にハマる選曲はないだろう。
『すまん。花壇の手入れをする為シャベルを持っている時にあいつが通った。殺っていいか?』
今日も今日とて、病み具合は絶好調のようだ。
『>Re:いいわけないだろ。花の匂いを嗅いで落ち着け』
「返信……完了、ふう」
ちなみに春兄には玄関に盛塩をするように進めた。
「何言い出すんだ」と笑っていたが、お前の命がかかっているんだぞ!
全く、この年中発情期は兄のことで頭がいっぱいなのか。
命があるからこそ励めるのだぞ!
そしてまた後日。
『五メートルホースを巻き取っているときにあいつが通った。絞めて吊るしていいか?』
『>Re:いいわけないだろ。ちょうどいいじゃないか、水かぶって冷静になってからホース片付けよう』
風邪を引いて寝こんだ方が、憑き物が取れるかもしれない。
もしくは滝行でもすればいいのだ。
そしてまた後日、症状は徐々に悪化している気がする……。
『お茶を入れるために湯を沸かしているのだが、ぐつぐつ煮立っている湯を見ていると、ここにあいつを刻んで入れたくなった。殺っていいか?』
「NOOOOO!!」
怖い、怖いよ!
サイコホラーか! スプラッタか!
これは早急に何とかしなければ事件が起きてしまう!
震える指を必至に動かし、メールを打った。
『>Re:お願いします、やめてください。火を止めて、お湯はそのまま置いておいて、温かいお茶はあきらめて冷たいお茶にして。コップ一杯飲んだら、一度深呼吸。そして仮眠をとれ。これは命令だ!』
駄目だ、確実に悪化している!!
メールだけでは不安だ。
柊の様子を確認しに行こう。
授業が終わると、引っ付いてくる楓を引き剥がして用務員室に急行した。
「正気かー!!」
バンッと乱暴に扉を開けると、そこにはデジャヴな光景があった。
ソファに頭を抱えて座っている柊がいた。
前に見た光景ではあるが、前より重症なのが分かる。
空気が重たい、黒い、寒い。
ここだけ別世界のようだ。
「まったく、世話のかかる大人だなあ」
「返す言葉がないよ。ほんとに駄目な大人だよ。高校生相手にこんな……ははっ」
柊の隣に座って様子を伺う。
こりゃ駄目だ。
亡者だと言われても納得できそうな雰囲気を醸し出している。
「……まあ、大人だから我慢しなきゃいけないことも沢山あるし、息苦しいのかもよ。いいんじゃない、無理して大人らしくしなくても」
声を掛けると、幽霊のような儚げな動きでこちらを向いた。
わあ、もう本当に重症ですね。
逆にこんなに人を好きになれるなんて凄いと思うし、羨ましい。
そう思いながら柊を見ていると急に腕を掴まれた。
力が強くて痛い。
抗議の視線を向けようとすると今度はトンッと体を押されて倒された。
気づけばソファの上に仰向けに寝転んでいて目の前には柊の顔、という状況なのだが……どういうこと?
頭の中はハテナで一杯である。
「何がしたいのだ?」と問いかけようと上を見て、息を呑んだ。
柊の頭に巻いていたタオルが取れていた。
そして長い前髪も下に垂れ、彼の瞳が見えた。
わ、見えたっ、見えたっ!
こんな謎な状況だけど見えたよ! ヤッタネ!
ゲーム知識であった通り、切れ長の鋭い金の瞳だ。
わあ……格好良いよ、凄いよ、凄いのきたよこれっ!!
「こんな状況で、どうして君はにやにやしているんだ?」
眺めていた綺麗な顔が挑発的に歪められた。
それを見てハッとした。
よく分からないが、はしゃいでいる場合ではなさそうだ。
「え、に、にやにやなんかしてないよ」
「しているけど? もしかして……こういう状況を喜んでいるの?」
「は? してないけど? っていうかこの状況何?」
「何って、分かるだろ?」
頬に手を当てられ、撫でられた。
ゆっくりとした動きは妖しく、嫌な予感のするものだった。
「……本当に似ているね。君でいいや」
そう言うと、恐ろしく整った綺麗な顔が降りてきた。
あ、やばい。
やっと状況が分かった。
というか、なんで今まで分からなかったんだ!
馬鹿、阿呆、間抜け!
自分が『こういう対象』になることを考えたことが無かったから、全然考えが及ばなかった。
そんな事を考えている間にも、柊の顔は目前に迫っている。
もう息がかかるくらいだ。
わ、駄目だ、駄目だっ、こんなイケメンならいいかとちょっと思わないでもないが、自分は神聖なるBLロードを歩くつもりはないのだ!
パニックだし、押さえつけられていて身体は動かない。
ああ、もうどこか動けえええ!!!
「無理いいいいい!!!」
「ぐあああ!?」
なんとか動いたのは頭だった。
頭を動かした結果、頭突きが柊の高い鼻にクリーンヒット。
柊が仰け反った隙をついて身体を起こした。
危なかった……何すんだこいつ!
続けて鼻を押さえている柊の腹を思い切り殴った。
「ぐぼうっ」
「何すんだよ! 馬鹿じゃないの! 『大人らしくしなくていい』って言ったのはこういう意味じゃねえよ! 僕でいいかってなんだよ! 僕を兄ちゃんの代わりにする気か!? そんなの無理に決まってるだろ! あんな完全無欠な兄の代わりなんて出来るわけないだろうが! 三割も埋められないってーの! 大体、僕にも選ぶ権利というのがあるんだ! さっさと新しい恋を見つけろよ馬鹿! まずそのダッサいタオル取って、髪切って、小奇麗にすりゃ凄いイケメンなんだからいくらでも相手みつかるだろバアアアカ!」
柊の身体を押しのけて完全に体が離れた後、おまけにもう一発食らわしてやった。
「ま、待って……!」
制止するような声が聞こえたが無視をして、荒々しくドアを開けて用務員室を出た。
閉める時も怒りに任せて閉めたせいで、ドアが壊れそうな音が廊下に響いたがどうでもいい。
構うものか。
まったく、心配して来てやったのに馬鹿が!
兄を好きな奴は発情期真っ最中ばかりかよ、最高か!
でも僕は巻き込まないでくれ!
荒々しい足音を響かせて廊下を進んでいたが、再び怒りが湧き出した。
スッキリしない、まだ言い足りない!
「もう一言、言ってやる!」
踵を返して引き返し、再び荒々しく用務員室のドアを開けた。
するとそこには僕が飛び出した時のままの体制の柊がいた。
「央君! 戻って来てくれたのか! 聞いてくれ。違うんだ、俺は……本当は君と……」
「バアアアアアカ!!」
心の底から叫んでやった。
「ふんっ!」
何か言おうとしていたが知らない。
罵るだけ罵って用務員室を後にした。
ちょっとスッキリした。
もう二度とここには来ないだろう。
さらばだ、柊よ。
※※※
「何でそんなに機嫌悪いんだよ。怒っているのはボクの方なんだからね!」
柊と決別した翌日。
本日もメリー楓に連行されながらの登校だ。
朝から『昨日は何処に行っていたの』と問い詰められ、叱られ……なんなのこれ、もう。
「分かったって。もうお前ウルサイ、黙ってろよ。黙ってりゃ可愛いんだからさ」
「なっ! か、可愛いとか……やめてよ」
よしよし、そうやって静かに照れているのが一番いい。
眼福です、ありがとう。
少し楓に癒やされたが、昨日の疲労はまだ抜けきらない。
項垂れながら歩き、校門に差し掛かったところで何やら騒がしいことに気がついた。
「あれ、誰? すごーくかっこいいんですけど!」
「えー知らない。新しい先生とか?」
主に女子がキャーキャーと騒いで誰かに群がっていた。
兄がいるのかと思ったがまだ来ていないだろうし、どうやら違う。
知らない人のようだし興味も無く、立ち去ろうとしたその時――。
「央!」
「ほえ?」
誰かに呼ばれた?
声の主を探したが見当たらない。
気のせいかと思い直し、進もうとしていると騒ぎの中心から人が現れた。
ジャケットは着ていないが、スーツ姿のイケメンだった。
見覚えがある顔だ。
「……」
「誰?」
黙り込んだ僕に、楓が小声で聞いてきた。
そうだよね、僕も一瞬誰だろうって思った。
でも、分かる。
昨日間近で見たし、この美貌は忘れられない。
「……用務員の柊さん」
「え? ええええええええっ!?」
僕の答えを聞いて、楓も周りの女子も騒然となった。
知らなかったのかよ。
しかし……凄いのが世に解き放たれてしまった。
前髪も切って整えられ、スタイリッシュなスーツ姿はイケメン度MAXという感じだ。
「央がこうした方が良いって言うから。どうだ、変じゃないか?」
「え、言ったっけ?」
「言った。小奇麗にした方が格好良いって言った」
言ったような、言ってないような?
正直、怒りで何を言ったかあまり覚えていない。
「そうだっけ? まあ、こっちの方がいいけど、スーツで土仕事とかもするの?」
「その時は着替える。良かった、変じゃなくて。央、昨日はごめん。話したいことがあるんだ」
「いや、もういい。話も、いい」
「じゃあ、今聞いてくれる?」
「はあ?」
今、だと?
良いわけが無いだろう!
周りの女子は興味津々だと目が輝いているし、隣の楓は「昨日って、何」と殺気を放ちながら呟き続けている。
何を言いたいのか知らないが、きっと禄でもないことに違いない!
急に名前を呼び捨てにしているし!
「また今度聞きに行くから! じゃあ!」
逃げるように人だかりから離脱した。
楓は同じ呟きを延々繰り返しながら、それでもぴたりとついてきている。
もう、お前完全にホラーだな。
ああ、もう失敗だ!
また失敗だ!
僕はただBLを傍観したいだけなのに!
直接関わりたいんじゃない、近くで覗きたいだけなんだ!
※
渦中の人となりつつある弟の後ろで兄は呆然と立ち尽くし、現場を見ていた。
そしてその隣には最近まで、知らず知らずのうちに命の危機に晒されていた人物。
「おい、真。あれはどういうことだ」
「……」
「おい!」
「ああ、ごめん。……央、あの子は本当にもう」
「楓に続き、あいつもか?」
「そういうことなんだろうね。オレはあの子が怖いよ」
隣にいる人物は思った。
お前が言うか、と。
呆れながらも兄の意見には同意した。
「俺からすればお前の魅力が一番恐ろしいが、確かにあいつのはやばいな」
「春樹?」
「妬くなよ。お前抜きでって話。あいつはなんか飛びつきたくなるというか、手中に収めたくなる衝動に駆られるというか」
「ふうん? そんなこと考えてたんだ。へえ」
「だから妬くなって」
本人達の知らない間に着々とストーリーは進んでいく。
役者も揃いつつある。
前主人公の心配は、より一層積もっていくことになるのだった。