柊END③
風邪はなんとか乗り切って治した。
兄の異変についても解決した。
原因は春兄が僕を構うのが目に付いたという嫉妬。
目の前に広がる兄と春兄の仲直りシーンという楽園に、僕の脳と心臓は爆発した。
軽く死ねた。
あ、駄目だ、思い出したらまた死ぬ。
一生に一度ありつけるかどうか分からない御馳走を頂き、本当にありがとうございました!!
しかし……兄が僕に対して嫉妬しているなんて思いもしなかった。
天使達のいざこざに僕が参加するなんておこがましい。
勝手に覗いて、勝手に一喜一憂しているのが僕なのでどうぞお構いなく。
兄の仏のような有難い微笑みが戻り、僕もすっかり元気になった。
肉体的にも精神的にも全快。
これで対柊に備えた肉体作りが出来るというものだ。
どういったトレーニングをすれば強くなれるのだろう。
そういえば身近に、そういう質問をするには最適な人物がいたことを思い出した。
該当の人物に目を向けると、話が出来そうな状況だったのですぐさま足を向けた。
「白兎さん」
今は授業の合間の短い休憩時間だ。
白兎さんは微動だにせず、じっと席についていた。
瞑想し、精神統一しているのかもしれない。
流石だ。
空いていた前の席の椅子を借りて座り、話しかけた。
「強くなりたいんだけどさ、てっとり早く強くなるにはどうしたらいい? プロテインとか飲んだらいいのかな?」
白兎さんは閉じていた目をゆっくりと開き、僕を見た。
僅かに表情が険しい。
鋭い眼光がデフォルトの白兎さんだが、普段より二割増しで鋭い。
……嫌な予感がする。
「『てっとり早く』などと考えているようでは無理です。日々の鍛錬の積み重ねが力となるのです。物に頼るのも愚の極み。あれはただ飲めばいいというものではありません。飲んだからといって筋肉が湧くわけではないのです。まずは己の精神を鍛えることをお勧めします」
重く力強い言葉を放ち終わると、武人は再び静かに目を閉じた。
「うん……ありがとう……ごめん……すいませんでした……」
白兎さんの地雷を踏んでしまったようだ。
甘い考えには厳しいようだ……申し訳ありませんでした。
でも、そこまで言う!?
確かに楽をして早く強くなりたいという気持ちは根底にあったから耳が痛いが。
有難い戒めの言葉として胸に刻んでおこう。
※※※
「央、風邪は治ってすっかり元気になっちゃったんだね」
移動教室があり、楓と廊下を歩いていると警戒対象の柊が現れた。
バリケードが欲しい。
あ、駄目だ。
物に頼るのは愚の極みだと白兎さんに罵られたばかりだ。
ここはファイティングポーズだ。
「何? 拳を突き出されたら、捕まえて引き寄せて抱きしめたらいいの?」
「お前の頭、どうなってんの?」
この思考を『ポジティブ』と表現するのは間違っている気がする。
こいつをポジティブと分類するのは、本当にポジティブな人に申し訳ない。
「アンタは外で土でもいじってろよ!」
「いわれなくても後でするさ。肥料が欲しかったんだが、ちょうど良さそうな活きのいい肥料がたった今見つかったよ」
「やめなさい」
柊の目が笑っていない。
事件の臭いをさせるんじゃありません。
「央の次は俺が風邪気味でね。俺にうつしたから央の風邪が治ったのかもね?」
「なっ!」
風邪がうつるようなことはしていないとすぐに反論しようとしたのだが、階段下のスペースに押し込まれたことを思い出した。
あれだけ狭い密室の中、近距離で話したからうつることもあるかもしれないと反論を言い留めてしまった。
あの時の消したい記憶が蘇ってくる。
脅迫されて仕方なくだが、『柊さんが好きです』なんて告白の台詞を言ってしまったことが恥ずかしい、死にたい。
「……どういうこと?」
楓の低い声が聞こえたが、今は目を合わせられる状態じゃない。
恥ずかしさが再熱していて耐えられない。
「チャイムが鳴るから早く行こう!」
二人から顔を反らしながらズンズンと進み始めた。
ああもう、柊に会いたくない!
『またね』と柊の明るい声が聞こえたが、出来ればもう会いたくないです!
「アキラ、待ってよ!」
恥ずかしさを振り切るように進んでいると、歩きが早かったようで楓が小走りで追いついて来た。
隣に並ぶと腕を掴まれ、止められた。
「さっきの、どういうこと? 『風邪がうつる』って、アキラがそんなに顔が赤くなるくらい照れるようなことって……」
「照れてないし!」
どうやら顔が赤くなっていたらしい。
指摘されて更に恥ずかしくなった。
そんなに気にしてないし、あんなことくらいなんでもないし!
掴まれた手を解き、再びつぎの授業がある視聴覚室に急いだ。
楓はまだ何か言いたそうだったがタイミング良くチャイムが鳴り、大人しくついて来た。
はあ……柊除けのお守りとかないかな。
あ、物に頼っちゃいけないんだった。
※※※
「いやあ、園芸はいいですなあ。ゆったり出来て」
楓は用事があったため一人で下校しようとしていると、花壇で見覚えのある光景に出くわした。
以前柊に嫌みを言っていた高圧的な教師が、また柊に絡んでいるようだ。
今日もあの不快な笑みを浮かべている。
「私など忙しくて時間がないものですから。羨ましいですなあ。でも、未来ある若者達のためですから。必要なことですからねえ。植物のように、ただ大きくすればいいってことじゃないですからねえ」
柊は適当に流している様子で聞いていた。
『大変ですね』と社交辞令な返しをしている。
今日の嫌みは前回より悪意が増していないか?
こんなあからさまな嫌味を言われて、腹は立たないのだろうか。
僕には『お前は暇そうでいいな。やっていることも楽そうだ』と言っているように聞こえた。
元々この先生が嫌いだったからかもしれないが、外野の僕が段々むかついてきたじゃないか!
「柊さん」
声を掛けて二人に近寄った。
柊は少し驚いた様子で僕を見た。
前回はスルーしたが、今回は邪魔してやろう。
「すいません、これから柊さんに話を聞いて貰うことになっているのですが……。お話にまだ時間はかかりますか? 出直して来た方がいいでしょうか」
笑顔で先生に話し掛けた。
副音声では『教師よ、無駄話してないで仕事しろ』と言っていますよ、僕は。
「あ、いや。構わんが……話とは? 何なら私が聞くが」
今まで歪んだ笑顔を浮かべていたのに、急にキリッと教師らしい雰囲気を醸し出し始めた。
急に教師ぶり始めたな、柊に良い仕事していますアピールか?
「いえ、柊さんに聞いて貰いたいので。先生、暇ならそこのゴミを片づけてあげたらどうでしょう」
柊の足元には、雑草など花壇の手入れをして出たらしきゴミが転がっている。
それでも持って帰りたまえ。
少しは役に立つといい。
「……生憎暇じゃないのでね」
「そうなんですか? こんなところで油売っているので暇なのだと思いました。すみません」
嫌味な先生には嫌味返しだ。
嫌みは正しく伝わったようで、笑顔を崩さない僕の顔を厳しい顔つきで見ている。
何か言われるかと思ったが、顔を顰めつつも何も言わず背中を向けて去って行った。
「華四季園は校内が整っていて過ごしやすいなあ! 綺麗な植物は眠い授業で疲れた心を癒してくれるし、有難いなあ!」
大きな声で独り言だ。
先生にも聞こえているだろう。
去り際にもう一嫌味を浴びせてやった。
柊は変態だが、お前の退屈な授業よりよっぽどいい仕事をしている。
一瞬足は止まったが、振り返ることなく去った。
「なんなんだ、あいつ!」
これに懲りて時間の無駄にしかならない嫌味トークタームを自重してくらたらいいのだが。
「央……」
腹の立つ後ろ姿を見送っていると、柊が真後ろにぴったりとくっつくように立っていた。
なんだ!?
僕のバックをとるな!
慌てて離れ、向き合うように立った。
そしてファイティングポーズだ。
「俺も央が好きだよ。大好きだよ」
「は?」
「この前の返事をしていなかったと思って」
「言わされただけで返事なんて求めてないから!」
どうして急にあの時の話になるのだ。
何故か見たことの無い柔らかい笑みを浮かべているし。
妖しさや毒の無い、本当に嬉しそうな笑みで……不気味なんですけど!
嫌味を言われていたのに……喜んでいたのか?
まさかお前、M属性まであるのか?
「さっきの、なんで言い返さないんだよ」
「相手をしたら余計喜ぶんだよ、あの人は。流してやり過ごすのが得策なんだ。それに……央が庇ってくれたしね。最高だよ」
「別に庇ってないし。あいつが嫌いなだけ!」
庇ったつもりはなかったのだが……。
嬉しそうなのは僕が出しゃばったからなのか?
だったら今回もスルーすればよかった!
「でもね、俺のために怒ってくれるのは嬉しいけど……あんな奴に可愛い笑顔を見せるのはいただけないな」
「違うって言ってるだろ! って可愛いって言うな!」
「俺には誰にも見せてはいない表情を見せて欲しいなあ?」
「へ?」
急にパトランプが点灯する危険な香りがしてきた。
妖しい表情を浮かべ、距離を詰めてくる。
通常運転に戻るのが早くないか?
『誰にも見せてはいない表情』ってどんな表情を想定して言っているのだ。
威嚇をするためパンチを繰り出そうとしたが、捕まえて引き寄せて抱きしめるとか頭の中がお花畑なことを言っていたのを思い出してやめた。
腕をクロスして防御スタイルだ。近寄るな、触るな!
「……ところで、真と仲直り出来たようだね?」
目の前で詰め寄るのを止めた柊が見降ろしてきた。
また突然話題が変わったな。
気になっていたのだろうか。
「え? 解決したって話したっけ?」
「君達の様子を見ていれば分かるよ」
「ふーん」
さすが兄のことならなんでもお見通しか。
よく見ているな。
仄かに漂うストーカー臭が気になるが、兄のことはまだ諦めていないのだろうか。
「真はあいつに関することだと余裕がなくなるから。その上、君には劣等感を抱いているから余計冷静になれなかったんだろうね」
「え!? 劣等感って何?」
前半は心躍る内容だったが、後半は信じられない。
人との距離感について僕のことが羨ましいと言っていたけれど……その話か?
「……俺と真は似ているんだよ」
「えー……?」
完璧な兄を変態と一緒にされては困る。
弟としては納得いかないぞ。
外見が素晴らしい以外共通点が分からない。
「あ、アキラ! ……またオマエか!」
「また君か。よっぽど肥料になりたいんだな」
「やめなさい」
用事が早く終わったのか、楓が追いついて来た。
この二人が揃うといつも面倒だ。
柊もまだ仕事が残っているようだし、別れを告げて帰路に着いた。
※※※
午前中最後の授業だった『体育』を終わらせ、一人で『体育準備室』を目指している。
体育で使う道具があったり、体育担当の先生達が事務所代りに使ったりしている場所である。
以前会長に連行されサボった授業は体育だったのだが、その時に測るはずだった八百メートル走のタイムを報告するために向かっている。
会長のせいで今日は一人で走るハメになった。辛い。
走っている間に会長と出掛けた時の封印したい記憶も思い出し、二重苦だった。
「あ。あの車……」
花壇脇の通路に、七人乗りの大きなワンボックスカーが止まっていた。
あれは学校の車で、柊が体験活動に出る際に生徒を乗せていたり、校内の用具を運んでいたりする。
用務員だけではなく先生が外出する際にも使われているが、今は花壇脇に停車していることから柊が花壇に使う道具等を運んでいる可能性が高い。
……今はあまり柊に遭遇したくない。
理由は、自分がリアルに『BLの対象』になることを認識したからだ。
僕の家に遊びに来ていた楓が兄と話している内容を聞いてしまったことが発端で、楓から告白された。
気持は嬉しいが応えることは出来ないし、楓からそういう風に見られていたことも考えたことがなかった。
そんなことがあり、柊のスキンシップはふざけていたにしては過剰だったのではないかと今更ながら思い始めたのだ。
『好きだ』と言わされたことも気になる。
僕を『兄の代わり』にしようとしている可能性もまだ残っているし。
なるべく近くを通りたくないが、僕が目指している体育準備室は車の横を通らないと辿り着けない。
嫌な予感がしたが、辺りや車の様子を見る限り誰もいない。
車を止めてどこかに行っているのだろう。
「よし、今のうちだ!」
車の後方から近づき、一気に横を通り過ぎようとしたその時――。
車体中央のスライドドアが急に開き、中から伸びてきた長い手に掴まれ、引っ張られた。
「ちょ、なに!?」
抵抗したが強い力に負け、車内の座席に引き摺り込まれた。
腕は痛いし、視界は激しく動き過ぎてまともに見られない。
急に何が起こったのか分からない。
怖い……車の中に引きずり込まれるなんて事件だ。
気づけば中央部のシートに仰向けに倒れていて、目の前には封印が解けた財宝、金の瞳の怪物が僕を見下ろしていた。
……やっぱり、お前か。
「やあ」
「やあ、じゃねえよ」
『出先で偶然会って、気軽に挨拶』な感じだが、今の状況からするとこちらは『どうもどうも』なんて返事を返せるわけが無い。
「何をしているんですか。怖かったじゃないですか! 人攫いかと思いましたよ」
「いいね、攫いたいよ。このまま俺の家に来る?」
「絶対嫌」
柊の家になんて連れて行かれたら、鎖に繋がれて監禁されそうだ。
調教なんて受けたくない。
二次元だとご馳走だが、三次元だとただの事件だから!
「そろそろ我慢するのをやめてもいいかなあ?」
「何の話だ」
「君が卒業するまでは手を出さないつもりだったけど、まだ二年以上待たなきゃいけないなんて無理だよね。うかうかしていると他の奴に持っていかれそうだしさ」
「……だからなんの話だ」
なんとなく察することが出来ている、出来ているから怖い。
やっぱりこいつは僕を兄の代わりにしようとしているに違いない!
「僕は兄ちゃんじゃないからな!」
「そんなこと、言われなくても分かっているよ。見れば分かる」
「そういうことじゃない!」
単なる人違いということではなく『代わりを出来ない』と言いたいのだが、こんな状況じゃ落ち着いて話も出来ないし頭も回らない。
兎に角、この危機から脱出したい。
腕で押し返すがビクともしない。
やっぱり力では勝てないか。
大人で体格のいい柊には勝てるはずがない。
いや、女子の白兎さんにも勝てなかったけど……会長にも勝てないけど……。
クソッ、小さい頃から鍛えておけばよかった!
「もしかして、俺が君を『真の代わり』にしているって言いたいのか?」
「そう! それ!」
思考が反れそうだったが、伝えたかったことを柊が勝手に理解してくれたので良かった。
僕は嬉しくなったのだが、対照的に柊の顔が険しくなっていた。
「まだそんなことを言っているの? 心外だなあ」
怖っ、凄い怖い!
険しかった顔が今度は眩しい笑顔になった。
何を考えているか分からない。
逃げたいが動けないし、近くに何か使えそうなものもない。
くそっ、何か武器をください!
焦るばかりで時間だけが過ぎていると、突然耳に痛みが走った。
痛みといっても強い痛みではない。
甘噛みされたような……。
目の前には口角を上げ、にやりと笑う柊の顔。
その瞬間、何が起こったか理解した。
こいつ、噛みやがった……耳、噛まれた!
耳カプしやがった!
「ぎゃああああああ!! PTA!!」
保護者会の皆様、是非次の総会の議題にコイツの処分をお願いします!
あ……でもそれだと、このことを広く知られてしまうことになる。
それは駄目だ。
「不吉なアルファベットの羅列を口にされると、もっと言えなくしてやろうかなって思っちゃうよね」
「ご、ごごっごめんなさい!」
二度とPTAなどとは口にしません。
今後この三つのアルファベットは使わない人生を歩きます、だから許して!
「そうそう、俺が見たいのはそういう顔だよ。もっと他の顔も……怯えているより、イイ時の顔が見たいなあ?」
どんな顔だよとツッコミを入れると、『こういう時にする顔だよ……』と何かが始まってしまいそうで言えない。
迂闊なことは言えないと黙っていると、僕を見降ろしている顔が降りて来た。
またこの展開ですか!
今度も死守してやると、目いっぱい顔を横に反らして逃げた。
「汗の匂いがする」
「!?」
顔を背けることで無防備になった僕の首もとに顔を埋めて、匂いを嗅いでいる。
顔にかかる髪がくすぐったいし意外に良い匂いがするが、そんなことよりもまず危機感が勝つ。
狼が獲物の臭いを嗅いでいる、そんな感じだ。
逃げなければ!
「……塩辛いね」
「ひぃっ」
舐めた……こいつ、首を舐めやがった!
一気に全身に鳥肌が立った。
駄目だ、これは駄目だ……僕の中では完全にアウトなやつだ。
頭も身体も全て完全フリーズしてしまった。
「可愛い」
僕の髪を撫でながら柊が呟いた。
固まっている僕はどこか他人事のようにその呟きを聞いてしまったが、僕のことを言っているんだよな?
やばい、とてもやばい臭いがプンプンしています!
今まで『こいつは危険だ!』と騒いでいても、『まさか、実際そこまでは』と侮っていた。
ここは学校だし、そもそも僕相手にそんなことは思うまいと思っていたが……。
普通に生活しすぎて忘れていたが、ここはBLゲームの世界なのだ。
そういう展開が『必然』な世界と言ってもいいかもしれない。
BL展開は『兄』だけに限られることではなく、弟の僕に起きたっておかしくない。
実際、楓から好意を受けているし。
それに柊だって攻略キャラだ。
僕の周りには『BL』を肯定するもので溢れている。
……あれあれ、やっぱり拙い!
NOTBLを目指すなら、僕はもっとしっかりしなければいけない気がしてきた。
今更かもしれないけど……まだ間に合って!
ノーマルの神様、信仰するから助けてください!
「アキラー!? どこー!」
少し離れたところから、楓の声が聞こえた。
僕を探しているようだ。
ここだ、楓よ。
お前はBLの刺客だが今は救世主だ!
起き上がり叫ぼうとしたが手で口を塞がれ、抑え込まれてしまった。
「んーー!」
「駄目」
柊が顔を近づけ、『シーッ』と日さと刺し指を口元で立てた。
「騒いだら、お仕置きするよ?」
「!?」
柊が言いそうな台詞として予想していたワードの『お仕置き』が出てきた。
予想が的中して少し嬉しくなったが、お仕置き相手は楓が望ましいのだ。
僕じゃない!
そんなやり取りをしているうちに、楓の声はどんどん遠ざかり……聞こえなくなってしまった。
柊も楓が離れたと判断したのか、僕の口から手を離した。
しっかりと塞がれていたから息が出来なかったじゃないか、死ぬ!
「苦しっ……お前、こんなことしてないで仕事しろよ!」
「……やっぱり邪魔だな」
間近にある顔に影が落ち、空気が鋭くなった。
目は僕を見ず、楓の声がした方を見ている。
この近距離で緊張感の漂う雰囲気を出されると怖い。
色んな意味でドキドキしてきた。
柊を刺激しないように固まっていると、目が合った。
「……ごめん、怖がらせちゃった?」
「車に引き込まれた時から恐怖は感じています」
確かに今のは一際怖かったけど、今更なことを聞くな。
柊の空気が丸くなったので睨んで抗議をすると僕を押し倒していた体は離れ、起こしてくれるようでスッと手を差し出してくれた。
掴んでも危険はないかと警戒したが、何となく柊の妖しいスイッチはオフになっているようだったので有難く起こして貰った。
急に毒気が抜けたがどうしたのだろう。
「これでも学習しているんだ。追いつめ過ぎたら逃げられるって」
「?」
何のことを言っているのか分からないが、逃がしてくれるのなら有難い。
でも、逃げようとしたところに壁ドンがきたこともあったし、何かするつもりじゃないのかと疑ってしまう。
「ほら、行って。ただのお友達が探してたでしょ」
目を見て真意を探ってみたが、特に何か企んでいる様子はない……気がする。
「あ、ちょっと待って」
「ん? ……!?」
『何だ?』と振り向いた瞬間に前髪を上げられ、額にひんやりとした感触がした。
「……」
「じゃあね」
笑顔で手を振っているが、今何をした?
耳カプ、首舐めの上に……でこチュー!?
呆然とする僕を柊はニコニコと見つめるばかりだ。
おのれ度重なるセクハラ……許すまじ!
ぶん殴ってやろうかと思ったが、何故か顔が熱くなってきた。
これを柊に悟られたくない、見られたくない。
照れてなんかないからな!
拳を鎮め、急いで顔を反らしてドアに手を伸ばした。
早く出よう!
「気をつけてね。ただのお友達が、ただのお友達じゃなくなったら……どうしようかなあ」
人がいないことを確認し、一歩踏み出した僕の背中にこんな言葉が飛んできた。
楓が友達じゃなくなったら、特別な関係になったら何か仕出かしてやるという脅しに聞こえたが……気の所為か?
ちらりと顔を見ると、相変わらずにこにこと綺麗な笑顔を浮かべているだけだった。
不気味だ……ただただ怖い。
※※※
二階の実習室が並ぶ一角にあるトイレ。
ここは実習がある時以外は人がいないため、いつもひと気がない。
誰にも会わず、静かに頭を使うにはちょうどいい。
便座に座りって溜息をついた。
「なんで僕なんかを好きになってくれたんだろう」
二階から降りて行くと、聞き慣れた二人の声が聞こえて来た。
声自体は聞き慣れているが声の状態は聞いたことが無い荒々しいもので、喧嘩をしているなら止めなければいけないと焦ったが、聞こえてきた内容に思わず足が止まり、隠れた。
二人は僕への想いを叫び、ぶつかっていた。
「……僕は駄目な奴だ」
今だってこうやって逃げている。
教室に戻れば楓がいるし、雛は上の階のどこかに行ってしまった。
今はどんな顔をして話せばいいか分からないので会うのが怖い。
二人は僕が見ていたことに気がついていないだろうけど、僕は普通に対応出来そうにない。
かといっていつまでもトイレに篭っているわけにはいかない。
一時間目の授業は始まってしまったのでこのままサボるとして、次からどうしよう。
帰りたい。
今日は一日誰にも会わず、ゆっくり考えたい。
一日サボっても単位には問題ない。
よし決めた、帰ろう。
一時間目が終わるのを待ち構え、授業が終わって騒ついている中に紛れた。
楓に見つかることなく鞄を回収。
忍者のようにこそこそと隠れながら、何も授業を受けず学校を出た。
昇降口で人目を気にしながら靴を履き、外に出た。
楓や雛はもちろんだが、知り合いにも会いたくない。
この付近、花壇の近くだと柊がいそうだ。
見まわしたが……いない。
良かった、今のうちだ。
「だーれだ」
「!!」
誰かが背後から僕の目を手で隠した。
このぞわっとする感じ……いないと思ったのに。
手を掴んで目から剥がすと、後ろからひょこっと柊が覗きこんできた。
「授業は始まっているはずだけど、どうしたのかな?」
「……」
説明をするのも面倒だし、会話をする気にもなれない。
「サボリ? 別にいいけどね、俺は教員じゃないから」
「駄目だろ」
口を開くつもりはなかったのに、つい言ってしまったじゃないか。
教員じゃなくても大人はちゃんと叱りなさい。
サボっている僕が言うのもおかしいけど。
「何かあった?」
「!?」
前に回り込んできた柊に両手で顔を包まれた。
小さな子供を叱る時に、ちゃんと顔を見なさいとお母さんがするようなあれだ。
「離せ」
余裕がない時に柊を相手するのは疲れる。
再び大きな手を引きはがし、大きな溜息をついた。
「ただのお友達に何か言われた?」
「えっ」
楓といい、柊といい、鋭い人が多いのは何故だ。
それとも僕が分かりやすいだけなのか?
いや、そんなことはない……はず!
「……預けておくのも限界かな。それ以外にも魔の手は伸びているようだしね」
「はい?」
ダッシュで逃げる気力がないのでどうしたものかと考えていると、また柊の妙なスイッチが入ったようで妖しい雰囲気が漂い始めた。
「央は俺のものになるんだよ」
「は?」
「央がいないと、俺は道を踏み外してしまうよ? いいの?」
「知りませんよ」
何の脅迫だ。
基本、脅しに掛かってくるスタイルなのはいかがなものか。
柊が道を踏み外そうとも警察の御厄介になろうと、僕に害がないのなら構いませんが……。
「考える猶予をあげる」
「考えるまでもないですよ。知りません、じゃあ……!?」
話は終わりだと、言い逃げをしようとしていたところを後ろから抱きしめられた。
「央が好きだ。真の代わりなんかじゃない」
手は後ろからお腹に回され、がっしりと捕まっている。
顔は耳元に擦り寄せられていて、今の言葉は鼓膜に直接届いたようだった。
言葉の内容と耳に届いた感覚で身震いがした。
「俺は本気だよ?」
同じ波が再びやって来た。
恐ろしいのかくすぐったいのか、それとは違うのか分からないが妙に落ち着かない。
心臓の音も早くなって体も暑いし、兎に角逃げなければ……ここでこんなことをしている場合じゃない。
お腹に固定された手を外し、肘で背中にぴったりとくっついている体を押しのけると、案外容易く離れることが出来た。
「ちゃんと考えないと、どうなるか分からないよ?」
気を奮い立たせ、急いで逃げようと踏み出した僕の腕を掴むと、柊は謎の言葉を投げて来た。
これも脅迫の一種であることは分かる。
「それはどういう……」
「……待っているよ」
そう言って微笑むと、柊は仕事に戻るのか校舎の中に消えていった。
「なんなんだ……」
疲れた。
弱っていたところに追い打ちを掛けられてダウン寸前だ。
「……帰ろう」
もうこのまま地面に寝転がりたいくらいだが、そうはいかない。
重い体をのろのろと動かし、なんとか帰宅したのだった。




