最終話 夏緋END
『第十九話 最終分岐点』からの続きになります。
扉を閉めた後、玄関にそのまま倒れた。
天井を見ながら大きな溜め息をついた。
「嘘だあああ」
夏緋先輩の言葉が離れない。
まだ顔に熱が残っているのが分かる。
「夏緋先輩……」
初めて会ったのは生徒会室だった。
その時は無視をされ、感じの悪い奴だと思った。
いや、その前に楓に壁ドンをしている時に会っていたんだった。
こんなイケメンがいたのかと驚いたのを覚えている。
BL嫌いの夏緋先輩からしたら、気持ち悪い奴がいると思っただろうなあ。
なのに今は『好きだ』と言ってくれた。
何が起こったというのだ。
やっぱり別人説の方が納得できそうだ。
でも、別人だったら嫌だな。
折角好きだと言ってくれたのに………。
「……え?」
今、何を考えたのだろう。
僕を好きだと言ってくれた夏緋先輩は偽物だった方が、悩みは少なくていいはずなのに……。
今開けてはいけない扉の前に立っている気がする。
違う、危ない。
よく分からないが回れ右、だ。
悩みは沢山あるのだ。
そうだ、まずは雛と楓のことだ。
「うーん」
楓の気持ちは知っていたが雛は意外だった。
いやに楓に対抗していたのはそういうことだったのか。
子供の頃から一緒で昔からよく僕の世話をやきに来ていたから、それが当たり前で特別な意味があるなんて考えもしなかった。
雛が『彼女』になった未来を想像してみる。
色んなところに二人で出掛けたり、色んなイベントを二人で過ごしたり……。
違和感はないが……心に湧き起こるものがない。
恋人との未来というものは、想い描くともっと心躍るものなんじゃないだろうか。
雛のことは好きだが、親愛の方の『好き』なんだろうと思う。
楓についても同じように想像してみる。
BLになってしまうが楓といるのは楽しいだろうし、良いんじゃないかと思うが……やっぱり『友達』という方がしっくりくる。
以前読んだ『あの記事』のことを再び思い出した。
迷うくらいなら断れ。
『断る時は希望を抱かせず、きっぱりと』だ。
やっぱり、二人には素直な気持ちを話そう。
雛には直接言われたわけではないが、聞いてしまったことを話して伝えよう。
言われるのを待ってから言うより、早く伝えた方が良いと思うし。
手紙をくれた子達にもちゃんと断ろう。
そう決めた。
「夏緋先輩には……なんて言おう」
やっぱりこの扉に戻って来てしまった。
『迷うくらいなら、断れ』
今、迷っている……よな?
だったら、断る。
それでいいはずなのに……。
『本当にそれでいいのか?』と心の声がする。
「やっぱり、断るべきだよなあ」
言葉に出して決意を固めようとしたが、余計に苦しくなった。
この苦しさは何処から来ているのだろう。
※※※
あまり眠れないまま次の日を迎えた。
空は晴れて良い天気だというのに、何故か空気は重たく感じる。
爽やかな陽射しさえも鬱陶しい。
昨日から『夏緋先輩の告白は断るべきだ』と同じことを考えている。
まるで自分に暗示をかけているようだ。
脳が疲れる。
廊下を歩いていると、視界に入って来た澄んだ青に目が吸い寄せられた。
夏緋先輩だ。
顔を見ただけで落ち着かなくなる。
ジッと見ているのも気が引けて、チラチラ見ていると目が合った。
「!」
夏緋先輩がこちらへ歩き出してくる。
それを見た瞬間……逃げた。
明らかに僕に話しかけて来ていたし、目も合ったが気づかない振りをした。
夏緋先輩と話すのが怖い、緊張する。
今も心臓がすごい早さで波打っているし、多分まともに話せない。
あからさまに目を逸らしてしまって変に思われたかもしれないが、逃げずにはいられなかった。
「はあ……落ち着こう」
深呼吸をして心を落ち着かせながら教室に向かった。
授業中も夏緋先輩のことが頭から離れなかった。
さっきは僕に何を話すつもりだったのだろう。
バッタリ会ったついでに告白の返事を求められる、なんてことはないと思うが『言った通りに少ない脳を使って考えたか?』くらいは言われたかもしれない。
そんなことを考えていると、告白された場面を思い出して顔が熱くなってきた。
赤くなった顔を隠すため肩肘をつき、手に顎を乗せて遠くを見たり……俯いてみたり……。
落ち着かない時間を過ごした。
出来るなら部屋のベッドの上で叫びながらゴロゴロ転がりたかった。
少し頭を冷やそう。
授業の合間の短い休憩時間、屋上に行くことにした。
「天地」
少し急ぎながら階段を上っていると後ろから呼び止められた。
「……」
この声は……すぐに分かる。
もう先生と間違えたりしない、するわけがない。
一気に心臓の音が大きくなった。
足が止まってしまったし、『気づかなかった』という言い訳をするには無理があるが振り向くことも出来ない。
逃げてしまおうと足を進めたが……体が前には行かなかった。
夏緋先輩に腕を掴まれ、進めなくなっていた。
驚きで思わず振り向いてしまうと目が合った。
『無視をするな』と怒られるかと思ったが、夏緋先輩の顔に怒りは見えなかった。
怒りどころか何も見えない。
何を考えているか分からない無表情だった。
『いつもの夏緋先輩』とも言えるが、見ていると不安になる表情だった。
「この前言ったことだが」
「!」
もちろん、あの告白のことだろう。
何を言われるのかと緊張して思わず息が止まった。
体も硬直しながら、次の言葉を待つ。
「あれは……忘れろ」
「え?」
そう言うと掴んでいた手を離し、何もなかったような涼しい顔で踵を返して戻って行った。
「……」
僕はその背中を、黙って見送ることしか出来なかった。
『告白のことは忘れろ』と言ったのだと思うが……どういうことだ?
無かったことにしろと、そういうことか?
「……ふざけんな」
気づけば怒りで拳を握っていた。
力が入り過ぎて小刻みに震えているし、それに合わせてじわじわと怒りも増していく。
散々僕のこと振り回して……なんなのだ!?
『忘れろ』ってなんだよ!
記憶なんて忘れろと言われても『はい分かりました、ピッ』ってデリートボタンを押せば消えるもんじゃないからな!
そんなの無理に決まっているじゃないか、あの人馬鹿だろ!
鼻息荒く階段を上がり、バンッと大きな音を立てながら扉を開け屋上に出た。
「苛々する……何なんだアイツ……禿げてしまえっ」
全力で叫びたかったが、屋上には何人かいたので呟く程度に抑えた。
でもそれだけじゃ、この怒りを発散出来ない。
屋上の柵を握りしめ、夏緋先輩への恨み言を心の中で垂れ流していると、急に膝が後ろからの衝撃で曲がり、視界が下がった。
この苛々してる時に誰か『膝カックン』をしやがったな!?
キッと鋭い視線を背後に向けると、そこには飄々とした表情の楓が立っていた。
「……楓か」
楓とはまだ気まずい。
瞬時に怒りは消え、戸惑いが生まれた。
何も言わず楓を見ていると、楓は柵に手を置いて僕の横に並んだ。
「どうしたの? 珍しく本気で苛々してない?」
「別に……」
楓に説明出来るような内容ではないし、楓じゃなくても言えない。
「ボクのことじゃなさそうだね」
僕の顔を覗き込み、ポツリと零した。
「アキラのことは大体分かるんだ。でも、最近は少し離れて……分かり辛くなっちゃった。それが凄く寂しい。だからさ……前みたいに戻ろ?」
楓はどうやら仲直りをしにきたようだ。
まだ一緒の登校は避けているし、学校でも一緒にいるけれど前のような距離感ではなくなった。
僕も以前のように騒いだり笑ったりしたいが……。
「なあ、楓」
その為にははっきりさせておかなければならないことがある。
僕なりのケジメだ。
「僕はやっぱり、お前のことは友達だと思う。男だとか女だとか、そんなことは関係なくてさ。友達としてはお前とは仲良くやりたいと思うけど、お前が少しでも僕の心変わりを期待しているうちは一緒にいることは出来ないよ」
「それは……アキラの心変わりは絶対無いってこと?」
「ああ」
その可能性も無いことは無いのかもしれないが僕はありえないと思うし、言い切った方がいいと思う。
『希望を抱かせず』という例の教えもある。
「なんで言い切れるの? ボクが男だから?」
「だから、そういうのは関係無いって」
「じゃあ……好きな人が出来た?」
「え?」
予想外のことを聞かれてポカンとしてしまった。
楓との未来を想像して好きになることは無いと言い切ったのだが、楓は別に相手がいるから言い切ったと思い至ったようだ。
『その少ない脳みそを使ってしっかり考えろ。そんでオレのところに来い』
「!」
質問された瞬間、夏緋先輩の顔が浮かんだ。
違う……!
断るつもりなのだと、浮かんだ顔を掻き消した。
「……そうなんだ」
黙っていると、楓は納得したように静かに呟いた。
違う、勝手に勘違いをされては困る!
「そんなの……いない」
「言ったでしょ? ボクはアキラのことは大体分かるんだから。それでもボクは勝手に好きでいたいと思う。ずっと片想いでもいいから、そばにいたいよ」
「……。それじゃ駄目なんだ。それじゃお前のためにならない」
片想いでいいなんて前に進まないのと同じだ。
「ボクのため? ボクは片想いでいいって言ってるのに」
「楓には幸せになって欲しいんだ」
「アキラのそばにいるのがボクの幸せだよ」
そんな幸せは寂しいと思う。
勝手かもしれないが、僕は楓には誰かと想い想われて幸せになって欲しいと思っている。
「ボクは『好きじゃ無い』って嘘を言わなきゃ、そばにも置いてもらえないんだ?」
そう言われると残酷なことを言っているようで苦しいが、妥協はするべきじゃない。
黙っていると楓は俯き、その場にしゃがんだ。
「……先に行ってて」
泣いているのかもしれない。
楓は結構泣き虫だ。
仲良くなったきっかけも、楓が泣いたのを宥めたことからだった。
「分かった」
泣かせて置いて行くのは辛いが、言われたとおりに先に戻った。
恋愛って難しい。
今は辛い選択でも楓のためになると僕は思うけれど、楓はそうじゃない。
本人が良いと言っている方を叶えてあげた方がいいのだろうか。
僕に片思いを続けるなんて言っているけれどそのうち出会いがあって、自然と離れていくこともあるかもしれない。
ここで無理に拒絶することもないか、という考えも浮かぶが……。
でも、僕は僕が良いと思うことをするべきだと思う。
そう決めないと迷いそうだ。
何も気にせず前みたい話をしてベタベタしても軽く流し、知らない振りをして過ごせたらどんなに楽だろう。
駄目だ、僕がしっかりしなきゃ。
あと、問題は……。
楓に『好きな人が出来たか』と聞かれた時、どうして夏緋先輩の顔が浮かんだのだろう。
思いつく答えは『僕は夏緋先輩が好きだから』としか出てこない。
……そうなのだろうか。
そうだとしても始まる前に終わった感じがする。
あんなに簡単に無かったことにされるなんて。
どういうことなのだろう。
僕のことはなんとも思っていなかった、ってことなのかな。
だったら何故あんなことを言ったのだ?
そんな気がしたから言ったけどよく考えたら違うから取り消した、ということか?
「モヤモヤする」
晴れない霧に纏わりつかれているようで気持ち悪い。
苛々もじわじわと復活してきた。
※※※
翌日も夏緋先輩と目が合った。
「……どうしよう」
学校で鉢合わせても、どうすればいいかなんて考えたことはなかった。
今までがどうだったか思い出せない。
大体は僕が寄って行って、他愛の無い話をしてから離れた気がするが……出来ないな。
また無視をしようと思ったが……。
「そういうのはよくないよな」
以前と全く同じとはいかないけど出来るだけ普通にしよう。
わざわざ近寄ることはしないが、話せる距離にある時は挨拶くらいしよう。
「おはようございます」
「……ああ」
夏緋先輩は足を止めたが、僕は特に話すこともない。
そのまま足を進めて教室に向かった。
夏緋先輩は何か言いたそうな感じだったが、呼び止められることはなかった。
大したことじゃなかったのだろう。
何か用事があればスマホに連絡してくるだろうし。
こんな状態になる以前は一日一回は用事がなくてもスマホでやり取りをしていたけれど、そういうのもこれからは難しそうだ。
少なくとも僕は用事が無いのに連絡する気にはならない。
そう思っていた、やっぱり夏緋先輩からも連絡はなかった。
学校で会っても挨拶だけ。
気まずくて会う可能性がある場所にもなるべく近づかない。
そんな一週間を過ごした。
※※※
放課後、職員室で用事を済ませた帰り、急に肩が重くなった。
悪霊の団体に取り憑かれたんじゃないかと焦ったが、それよりも質の悪いものだった。
僕の肩には腕がまわされている。
「よう」
声の発信源は燃えるような真っ赤な髪を揺らしてニヤリと笑うこの学校の支配者だ。
「うわあ、会長だあ」
面倒臭いのに捕まってしまった。
体重をかけられていて重い。
チンピラに絡まれている地味メンの図、再びだ。
……しかし、同じ兄弟でも会長だとなんの緊張感もない。
これだけくっついていてもなんとも思わない。
いや、カツアゲされそうという身の危険を感じる緊張感はあるか。
「お前、今俺のこと馬鹿にしただろ?」
「何の被害妄想ですか? っていうか今僕は一銭も持ってないのでジャンプさせられてもチャリンチャリン鳴らないですから」
「あ? 何の話だ?」
「え? カツアゲしに来たんでしょ?」
そう言うと馬鹿力で頬を抓られた。
「いひゃい!!」
「まあ、俺にそんなナメた口きけるのはお前くらいで面白いがな。……なんだお前、随分しけたツラしているじゃないか。それに先週一度も生徒会室に来なかったな?」
「会長ほど暇じゃないんで」
解放された頬を摩りながら答える。
痛いなあ、これだから力の加減を知らないゴリラは。
頬が破れるんじゃないかと思った。
今日は会長に虐められたと兄にチクってやろう。
「ああ? お前、調子に乗るなよ」
腕を回されたまま凄まれて、ドキリとした。
慣れすぎて忘れているが、こいつは力でねじ伏せる会長なのだ。
「申し訳ありませんでした。以後気をつけます。これからは一切逆らいません」
逆らったら面倒だし、怒られるのも嫌だし。
慣れた態度を改めて、これからは他の気弱男子生徒のように怯えながら暮らそう、そう思ったのだが……。
「はあ? つまんねえこと言っているとぶっ飛ばすぞ。お前は反発してくるのが面白いんだろうが」
「どっちなんだよ……」
調子に乗るなと怒られ、大人しくなると言っても怒られ……。
やっぱり会長は面倒くさい。
「ん? やっぱりいつもより大人しいじゃねえか。よし、俺が構ってやろう。これから出掛けるぞ!」
なんでそんな発想になるのだ。
城での悪夢が脳裏に蘇ってきた。
「遠慮します……って言っても無駄なんですよね。鞄取ってきます」
条件反射で断ったが、この人は会長だということを思い出した。
抵抗するのは時間と労力の無駄だと諦め、大人しく従うことにしよう。
今度は財布があるからお金で気を使うことは無い。
学校を出てバスに乗る。
今度はどんな辺境の地に連れて行かれるのかと怯えていたが、今回は三十分も経たないうちにバスが到着。
景色も街中で大きな建物前だった。
「ここは……」
「水族館だな」
視界に広がる四角い箱物の巨大な建物。
魚や海の動物の写真やイラストが至る所で目に入る。
目の前には四足歩行しているホッキョクグマの像に跨がって記念写真を撮っているカップル。
またデートスポットかよ。
前回はアヒルを見ると穴に入りたくなるというトラウマを植えつけられて散々だった。
今回はどんな心の傷が出来るのだろうと恐怖しか湧かない。
とりあえず一緒にホッキョクグマに跨がって写真を撮ろうと言われなかったので胸を撫で下ろした。
会長なら、本物のホッキョクグマをねじ伏せて跨がっている方が似合いそうだ。
「デートプランを僕で試すのはやめてくれませんか? また兄ちゃんが好きそうなところだけど……」
「そうなのか? それは良いことを聞いた」
あれ?
好きそうな所を良く調べたなあと感心したが、違うのか?
「今回は周到な下調べをしたんじゃないんですか?」
「したのは俺じゃない。真のためでもない」
「はあ?」
だったら僕は誰用のテストをさせられているのだ。
まあいいか、会長のことを深く知ろうとすると大体面倒だ。
それに前回より僕は楽しめそうだ。
ここは都会の中にある比較的新しい水族館で敷地は広いとは言えないが、色んなイベントを行っている話題の場所だ。
一度来てみたいと思っていた。
今もイベントを行っているようで、入り口にでかでかと鮮やかなポスターが貼り出されている。
「あ……ここは……!」
イベントのポスターを見て思い出した。
最近この水族館の話題を聞いたような気がしていたが『オンラインゲームとコラボ』、これだ!
僕がプレイしているオンラインゲームで開放された新しいエリアが海中の街なのだが、そこを再現したイベントエリアがあるのだ。
「行きましょう! 今すぐ!!」
一気にテンションが上がった。
一緒に来てくれる人を見つけられなくて諦めていたのに、まさか会長に連れて来て貰えるなんて!
機嫌が良くなった僕を見てニヤニヤしている会長を見ると妙に腹立たしいが、そこは我慢しよう。
会長を置いていく勢いでチケットを購入し、入り口のゲートを潜った。
「一番奥か」
マップを見ると、目的のイベントエリアは一番遠かった。
「すぐに向かうか?」
「いえ、せっかくなんでゆっくり見て行きましょう」
あの会長が僕に選択肢を与えてくれたことに驚きと感動を覚えつつ足を進めた。
建物に入る前の岩場の一角、最初に現れたのはペンギンだった。
中の氷エリアにもいるようだが、このペンギンは気温が低くなくても大丈夫な種類のようだ。
岩場でボーっと突っ立っている。
会長と足を止めて眺めた。
のんびりしていて和むし、ちょっとマヌケな感じが可愛い。
だが……。
「臭え……」
「臭いですね……」
餌の臭いなのか場所に染み付いた臭いなのか分からないが、生臭くて吐き気がする悪臭だ。
「夏緋先輩がいたら凄く文句言いそう、ははっ」
釣りの時に『生臭い』やら『魚臭い』やらずっと文句を言っていた姿を思い出し、笑ってしまった。
あの時はなんて面倒くさい人だ! と思った。
まさかその人と恋愛関係のいざこざが起きるなんて想像もしてなかったが。
……まあ、いない人のことを考えても仕方ないか。
ここはこれくらいにして建物の中に進もうかと会長を見ると、また癪に障る表情をしていた。
「何でニヤニヤしているんですか。キモいんですけど」
「別に? ……って誰がキモいって? お前もあの中に入るか?」
そう言って僕の首の襟元を掴み、ペンギンエリアに放り込もうとする会長。
誰か止めて!
ギャーギャー騒いでいると近くにいたカップルに迷惑がられてしまった。
彼女の方は会長を見ると頬を赤くして機嫌が良くなったが、彼氏の方はそんな彼女を見て更に機嫌が悪くなった。
無頓着な会長はそんなカップルの様子に気がついていないが、彼氏の態度に気づけばどうなるか分からない。
こんなところで揉め事を起こしたくない。
慌てて会長を引っ張り、先に進んだ。
建物内の水槽には色んな魚がいた。
魚だけではなく色んな海の動物もいる。
ゆっくりと進んでいたが、会長の足がラッコの水槽の前で止まった。
こんな可愛い動物の前で止まったことが不思議で会長を見ていると、どうやらラッコよりもそれを見ているカップルが気になったようだ。
カップルは手を繋いで泳いでいるラッコを見て和んでいた。
『可愛いね』と話し合っているのを聞いて会長が呟いた。
「野生のラッコは寝ている間流れないように海藻を身体に繋ぐ。だが水族館にはそれがない。だから手を繋ぐ。飼い慣らされたがゆえの行動だ。哀れなもんだ」
それだけ言うとスタスタと歩き始めた。
「「……」」
カップルにも会長の声が聞こえていたのか、会話が止まった。
僕が悪いわけじゃないが凄く申し訳ない。
居た堪れなくなり、逃げるようにその場を立ち去った。
会長に追いつき猛抗議だ。
「会長! カップルに水を差すようなこと言わないでくださいよ!」
「本当のことを言っただけだが?」
「わざわざ言わなくてもいいことでしょうが! 夢のない解説して邪魔しないでください!」
「あんなもので夢が生まれるのか?」
なんという面倒くさい奴。
一々解説したりフォローしたりしなきゃいけないなんて。
「手を繋いでいるのが可愛いから自分達も手を繋ごうか、とか。カップルならそういう展開もあるじゃないですか!」
なんで僕がわざわざこんなことを説明しなきゃいけないのだ。
苛々しているとなんだが手が温かくなった。
「……何をしているんですか?」
会長が何故か僕の手を握っている。
「こういう展開がいいのだろう?」
「ちっがあああう!」
何を聞いていたんだこいつは!
『カップルなら』って言っただろうが!
全然人の話を聞いていない。
何故僕が会長と水族館で手を繋いで歩かなければならないのだ!
「お前、迷子になりそうだからちょうどいいじゃないか」
「こんな一本道みたいなルートで迷いません! ってか離せ!」
会長の手を振りほどいて先を歩いた。
ああもう疲れるわあ……僕はゴリラの飼育員じゃないっつーの!
「はあ……夏緋先輩の苦労が身に沁みるなあ」
こんなのと一つ屋根の下にいるなんて気が休まらない。
「全く、ちょっとは夏緋先輩を見習ってくださいよ」
「そんなに夏緋と来たかったか?」
「はい?」
何故そんな話になるのだ。
「お前、さっきから夏緋のことばかり言っているぞ?」
「……そんなことないですけど」
……そうだろうか?
会長といるから比べてしまうだけだと思う。
考え込んでいると、薄ら笑いを浮かべた会長が僕を追い抜いて行った。
なんなのだ、その表情は。
何が言いたい。
前を歩く会長の背中に蹴りをいれたい衝動を抑えつつ進むと展示エリアを抜け、とうとうイベントエリアに辿りついた。
視界を遮る邪魔な会長を押しのけてエリアの中に足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。
「わあああ……凄えええっ!!!!」
巨大な水槽の底にパイプ状の通路が通っていて、海底から海の世界を楽しめるような構造だ。
壁の色やライティングが工夫されていて、淡い菫色の光が揺らめく竜宮城のような幻想的な空間になっていた。
ゲームに出てくるモンスターのオブジェが沈んでいたり、街人である魚人風のウェットスーツを着た飼育員らしき人が泳いでいたり、ゲームの世界が見事に再現されていた。
まるでゲームの中に入ったようだ。
BLゲームの中の世界もいいが、こういうファンタジーな世界に転生も憧れる。
暫く見入っていると『カシャ』という音と同時にフラッシュの光に照らされた。
「……何撮ってるんですか」
相変わらず癇に障る笑顔を浮かべた会長が、スマホのカメラレンズを僕の方に向けていた。
何を盗撮してやがる、訴えるぞ。
「自慢してやろうと思って」
「はあ?」
盗撮は気に食わないし何を言っているのか分からないが、会長に時間をかけるのが勿体無い。
会長は放って動き回り、エリア内を楽しんだ。
よく見ると小さな置物や飾りも凝っていて、思っていた以上にクオリティが高い。
通路にあった小さな売店の店員さんもゲーム中に出てくる商人の格好をしていて、思わず写真を撮ってしまった。
ここに来ると貰えるという衣装アイテムのシリアルナンバーも貰ったし、至福の時間を過ごした。
「今日はありがとうございました! 予想外に、奇跡的に楽しかったです!」
「お前は本当に一言多いな!」
今日はトラウマが出来ることもなく本当に楽しかった。
「これ、お礼です」
さっきの素敵な売店で買った、ゲームに出て来る剣を模ったプラスチックのオモチャのようなものを会長に渡した。
「なんだこれ、いらねえ」
そう言うと思ったけど。
「中にガムが入っているんですよ。ガムだったら食べるでしょ? 僕も買ったし、お揃いですよ。まあ、遊びに来た記念ってことで!」
「記念、か。仕方無い。貰ってやろう。ふっ……お揃いか」
突き返されそうだったが、なんとか受け取ってくれた。
悪い笑顔を浮かべているから、また碌でもないことを考えているのだろう。
途中で捨てよう、とか思っていそうだ。
安物だから造りは雑だし明らかにオモチャだが、会長が剣を持つ姿は様になっていて格好いい。
夏緋先輩は弓が似合いそうだ。
……ってまた夏緋先輩のことを考えてしまった。
会長といるからだ、そうに違いない。
それ以外に意味はない。
「前にお前と二人で出掛けたことがあっただろ?」
夏緋先輩のことを頭から追いやろうとしながらバス停までの道を歩いていると、会長が話し始めた。
出掛けた時のことを思い出しながら耳を傾け、並んで足を進める。
「あれから家で夏緋が妙に真剣な顔をしてスマホを弄るようになった。なにかと思って覗いてみたら、遊びに行くような場所を調べていた。中でも一番よく見ていたのがここだった」
「へえ……」
……何故そんな話をするのだ。
どうコメントすればいいのかも分からず適当に返事だけして歩いていると、僕が話す気が無いのが分かったのか、会長が口を開いた。
「俺に張り合って、お前を連れて来るつもりだったんじゃないか?」
それを聞いた瞬間、足が止まりそうになった。
それは……。
この場所は会長が兄のために調べた場所じゃないということは聞いていたけど……。
実は『夏緋先輩が僕のために調べてくれていた場所だった』ってこと?
そう思った瞬間、顔に熱が集中したような気がした。
でも、動揺しているのを会長に見られるのは嫌で、何とも思っていない振りをして歩く。
「別に、僕とは限らないんじゃ……」
「調べていた場所はお前が好きそうな所ばかりだったぞ? 実際にここはお前が喜ぶところだろ?」
「そうですけど……」
確かにここは僕が行きたかった場所だ。
夏緋先輩にもそれとなく聞いたことがあった。
夏緋先輩はゲーム全般にあまり興味がない様子だったから誘わなかったが、聞いたことを覚えてくれていたのだろうか。
本当に、僕をここに連れてきてくれるつもりだったのか?
……そう思ってもいいのだろうか。
頭の中は落ち着かなくてそわそわしているが、それを外に出さないよう必死で装う。
会長は気づいているのか分からないが、チラリとこちらを見て笑いながら再び話始めた。
「お前、真と喧嘩をするか」
「あまりしません。兄ちゃん相手だと喧嘩になりません。大体悪いのは僕だし」
「そうだろうな」
それはどこを肯定しているのだ?
『真が悪いことなどありえない、どうせお前が馬鹿だから悪いのだろう』と言われている気がする。
確かにそうだけど!
「会長と夏緋先輩はするんですか?」
「ガキの頃はよくやったな。だが……いつの間にかあいつは俺がなにやっても我慢するようになった。今は殆ど無い。つまんねえ奴になっちまった」
きっと会長には何を言っても無駄だと諦めたのだろう。
夏緋先輩が不憫で仕方無い。
僕はこんな兄は嫌だな。
でも夏緋先輩は会長が大好きなんだよなあ。
兄弟ってそんなものなのかな。
「流石に今度は怒りそうだと期待しているんだがな」
「はあ? 何か怒らせるようなことをわざとしたんですか?」
「してんだよ、今。まあ、楽しみにしていろ」
夏緋先輩を怒らせて楽しみになんて出来ない。
何をしているか分からないが、関わりたくないものだ。
※※※
翌日の朝。
学校の門を通っていると昨日と同じ質の悪い重みが肩にかかった。
やっぱり悪霊より悪質だ。
「よお」
「……おはようございます」
見るまでもなく会長である。
連日の会長の世話は疲れるので回避したかったのに……朝から会うなんてツイてない。
「はあ。つまんねえ」
声色は台詞の通りだが、顔を覗くとそうでもない。
少し楽しそうだった。
言っていること矛盾していてわけが分からない。
「流石にキレていたが大人しいもんだ。殴りかかって来るくらいを期待していたんだがなあ」
昨日言っていた夏緋先輩を怒らせる、という話か?
関わりたくないので聞きたくない。
「後ろを見てみろ」
「え? ……!!」
言われた通りに後ろを見ると、そこはブリザードを纏っている幻影が見えそうなほど暗く冷たい氷の目で怒りを露わにしている夏緋先輩が立っていた。
「ひぃっ」
見てはいけないものを見てしまった。
見ていると凍ってしまいそうで慌てて視線を逸らした。
「なんか超不機嫌っぽいですけど!? 何をしたんですか!」
「何って……ありのままを話しただけだ。なあ、あと何すりゃあいいと思う?」
「知りませんよ! 僕を巻き込まないでください!」
こんなの命が幾つあっても足りない。
それでなくても夏緋先輩とは気まずいのに!
鬱陶しい会長の腕を払いのけ、巻き込まれる前に逃げろと急いで教室に向かった。
※※※
「暫く会長にも夏緋先輩にも関わらないようにしよう!」
固く決意をし、一日の授業を終えて迎えた放課後。
ウロウロすると会長に見つかりだからまっすぐ帰ろう。
身支度をしていると校内放送が始まるようで、いつものノイズが聞こえた。
放課後は呼び出しや部活の連絡がよく流れる。
気にすることなく、聞き流すつもりでいたのだが……。
『天地央、今すぐ生徒会室に来い! 五分以内に来なかったら、迎えに行くからな!』
持っていた鞄が手から落ちた。
呆然とした後、徐々に怒りがこみ上げてきた。
あのバ会長、夏緋先輩にも私用するなと釘を刺されているはずなのに!
無視をしたいが、ここは会長のテリトリー。
早くも教室にいた全ての女子が『早く行けよ』という視線を寄越してくる。
この包囲網からは逃げられないことは分かっている。
行けばいいんだろ、行けば!
無駄な抵抗はしないが迷惑この上ない。
すぐさま向かい鼻息荒く生徒会室の扉を開け、それと同時に抗議をした。
「放送で呼び出ししないでください! スマホがあるじゃないですか!」
「気づかないかもしれないだろ? 一番確実で手っ取り早い」
いつものパイプ椅子に長い足を組み、偉そうに座っている会長が悪びれることもなく言った。
殺意しか湧かない。
確かに会長のテリトリー内で招集をかけられたら、女子という刺客達に行くまでロックオンされてしまうので行かざる負えなくなるが、これを使うのは卑怯だ。
「で、何の用ですか! ジュースを買って来いとか!?」
苛々を隠さず、悪態をつきながら用件を聞いた。
本当にパシリで呼び出したのだったら許さないぞ、兄にチクってやる。
「そんなことでわざわざ呼ぶと思うか?」
「非常識な会長ならありえます」
パシリに使うために呼び出したようではないみたいだ。
だったら何だ?
コの字型に配置された長テーブルの端の席に座り、話を聞くことにした。
僕の言葉を聞くと一瞬顔を顰めたが、すぐに会長に似合う口角の上がった強気な表情に戻った。
「お前は面白いな。度胸が有るのか無いのか、ただの馬鹿なのか。一緒にいても飽きねえな。アイツが気に入るのも分かる」
「はあ?」
貶されているのか褒められてるのか分からない。
反論するのも面倒で長テーブルに片肘をついてもたれ掛かっていると、会長が座っていた定位置の椅子から動き、僕の隣に座った。
黙って僕のことを眺めている。
「な、なんですか」
「真を手に入れるまでの繋ぎで、可愛がってやってもいいな」
「は?」
耳を疑うようなことが聞こえた気がしたが、正気か?
もしくは僕が受け取った意味とは違う意味で言っていたとか?
「ちょっと、妙な冗談はやめてくださいよ」
確認するように会長の顔を覗いたが、いつもの調子でニヤリと笑っているだけで真意が読み取れない。
「じょ……冗談ですよね?」
もう一度確認しようと視線を向けると、表情が悪巧みをしているような不吉な予感がする表情に変わっていた。
あ、まずい。
逃げた方がいいと直感し、立ち上がったが……遅かった。
すぐに会長に捕まってしまった。
馬鹿力には敵うことが出来ず、気がつけば長テーブルの上に仰向けになっていた。
手首を掴まれ、テーブルに押さえつけられた状態で動けない。
目の前には相変わらず不吉な笑顔を浮かべている会長の整った顔があり、僕を見下ろしている。
「何をやっているんですか! 兄ちゃんにチクってやる!」
こうなったら伝家の宝刀『兄ちゃん』だ。
これを出したら大人しく引き下がってくれるはずだ……と思ったのだが。
「真が駄目なら、ずっとお前に代わりをしてもらうしかないなあ?」
「はあ!?」
嘘だろ……あの会長が兄を諦めるなんて信じられないし、僕を代わりにするなんて更に信じられない。
驚きと戸惑いで動けない僕に構わず、会長の顔がゆっくり近づいてきた。
嫌な予感がして顔を背ける。
すると予想していたことはされなかったが、気づけば僕の首元に会長の頭が埋まっていた。
近い……真っ赤な髪が僕の顔にかかってきているし、呼吸している息遣いも聞こえる距離だ。
どうすることも出来ずに停止したままの僕の耳元で会長が静かに呟いた。
「そろそろ来る頃だと思うんだがな」
「へ?」
何のことを言っているのかと混乱していると、生徒会室の外から微かに音が聞こえた。
「ほらな」
耳元で話されるとくすぐったい。
会長が楽しそうなのは分かるが、とりあえずこの状況は何!?
混乱していると、ガタン! と壊れそうな大きな音を立てて生徒会室の扉が開いた。
扉を開けたのは夏緋先輩で……目が合った。
夏緋先輩は、目を見開いて固まった。
僕は突然の出来事に対応出来ず、ただ眺めてしまっていたのだが……夏緋先輩の顔がみるみる険しいものに変わっていった。
険しいなんてもんじゃない……今まで見たことのない本気で怒っているのが分かる形相だ。
怖い!
「何をやってんだよ! 兄貴ッ!!」
走り気味にドカドカと入って来たかと思うと、会長を僕の上から引き摺り下ろし、襟ぐらをつかんで怒鳴った。
ひいぃ、夏緋先輩が怖え!
すかさず後ろに下がり距離を開け、避難して二人を見守った。
「弟のものは俺のものだろ?」
夏緋先輩の手を力尽くで引き離し、悪びれることもなく会長は吐き捨てた。
まるで土管リサイタルを開くガキ大将のような台詞を聞いて僕は呆れたが、夏緋先輩は違った。
ブチッ! とキレた効果音が聞こえたような気がした。
ワナワナと震え、怒りを抑えきれない様子の夏緋先輩が会長に掴みかかり……思い切り会長の顔面を殴り飛ばした。
うわあ、もう逃げたい!
兄弟喧嘩が激し過ぎる。
天地家とは大違いだ。
子供の頃から兄が出来すぎているので僕が怒っても引いてくれた。
兄の弟に生まれて良かった……天地家次男で本当に良かった!
「兄貴! なんでも自分のものになると思うなよ! これはオレのだ!」
「……え?」
思考が別のところに飛んでいたのに急に戻されてしまった。
夏緋先輩に引っ張られ、腕を掴まれている。
あれ、なんの話だ?
『僕は夏緋先輩のもの』とか、そういう話に聞こえたが……。
……そういう話なのか?
……ってどんな話なんだよ!
僕って夏緋先輩のものなのか!?
兄弟喧嘩が衝撃的過ぎて何が起こっているか考えていなかったが、僕って関係していたのか?
状況を把握しようと必死に頭を動かしている僕を置いて、会長と夏緋先輩の話は進んでいく。
「馬鹿が。そうやって最初から言えばいいんだよ。こんだけ煽られなきゃ本音が言えないなんて情けねえなあ」
殴られた頬が赤くなっているが、そんなことは全く気にしていない様子の会長が呆れたように笑った。
ん? 煽る?
そういえばわざと怒らせると言っていたが、それのことか?
会長の言葉を聞いて夏緋先輩の動きが止まった。
どんどん怒りが消えているのが見える。
僕の方をチラリと見ると、ぼそっと呟いた。
「……そういうことかよ」
何か納得したらしい。
僕は解説が欲しいのだが……。
取り残された僕を無視して、青桐兄弟の間には穏やかな空気が流れ始めた。
……良かったけど、なんだったの!?
「しっかし、なんださっきの情けねえのは。殴ったうちに入らねえぞっ」
言い切るのと同時に、今度は会長が夏緋先輩を殴り飛ばした。
明らかに夏緋先輩の時より威力が高く、夏緋先輩は後ろに倒れてしまった。
「夏緋先輩!」
「気合注入ってやつだ」
会長を見ると、心底楽しそうにニヤリと笑っていた。
この野蛮ゴリラは……!
「限度があるでしょうが!」
「大したことないだろ」
自分の弟なのに全く心配する様子がない会長が僕に何かを投げて来た。
焦りながらキャッチするとそれは鍵だった。
「ここを暫くかしてやるよ。出る時に鍵をかけて来い」
そう言い残し、スタスタと出て行った。
あの人は何なのだ……。
歩く人災であることは確かだ。
「ははっ、情けないな。やっぱり兄貴には勝てない」
会長が出て行った扉を見ていると、夏緋先輩が呟いた。
座り込んでいた夏緋先輩に近づきしゃがんで顔を見ると、会長よりも赤く腫れていた。
「何か冷やすもの取って来ます」
「行くな」
保健室に行こうと立ち上がったのだが、腕を掴まれて止められた。
でも、跡が残ったりしたら折角のイケメンが台無しだ。
やっぱり取りに行こうと考えていると掴まれていた腕に力が入り、引っ張られた。
予想外の出来事で倒れてしまいそうになったところを受け止められ……。
「!」
気がつけば夏緋先輩に抱き抱えられるような体勢になっていた。
「この前の『忘れろ』は取り消しだ」
「え?」
この状況も台詞も突然過ぎて理解出来ない。
「わ、わけ分かんない!」
とりあえずこの恥ずかしい状況から逃げようとしたのだが、夏緋先輩にがっしりと捕まえられていて動けない。
抵抗したが、『動くな、黙っていろ』と怒られ……。
心を落ち着かせながら、大人しく言うことを聞くことにした。
「お前、オレのこと避けただろ」
そんなこと……やったな。
思い切り無視したな。
「嫌だったのかと思ったんだよ。オレに好きだと言われたことが。だから取り消すことにした」
「嫌だった訳じゃ……なんか意識しちゃって。まともに顔が見られなかったんですよ」
『忘れろ』と言ったのは僕が原因だったのか。
確かに、告白した後に避けられたら嫌われたのかと思っても仕方無い。
でも、取り消すなんてことはしないで欲しかった。
「本当はお前に嫌われるのが怖かったんだ。普通に話し合える関係を壊したくなかった。だから……好きだと言ったことを後悔した」
夏緋先輩が告白してくれてから、僕達は話すことが無くなった。
今思えば夏緋先輩は関係を修復しようと、僕に話し掛けようとしていたのかもしれない。
でも僕は、普通にしているつもりでも、どこかで夏緋先輩を拒絶していた。
「でも今は取り消したことを後悔している」
僕を拘束している腕に更に力が入った。
苦しいけど、離してくれそうな気配は無い。
「オレはお前が好きだ。もう取り消さない」
くっついていることで上がっていた体温が更に上がるのを感じた。
きっと顔も赤くなっている。
夏緋先輩の顔が近くにある。
赤くなっているとバレるのが恥ずかしくて俯いたら、顔が夏緋先輩の身体に当たってしまった。
自分から擦り寄ったみたいな結果になり、更に顔が熱くなった。
僕は何をやっているのだろう!
「お前はどうだ? 少ない脳を使って考えたか?」
「!」
以前言われそうだと思っていた台詞を言われ、心臓が跳ねた。
黙って静かにしているがパニックに陥り、脳内では『どうしよう!? どうしよう!?』と同じことを延々叫び続けている。
何て答えればいいんだ!?
「まあいい。お前の返事なんかどうでもいい。オレの好きにする」
黙っていると、夏緋先輩が自分で答えを見つけてしまったようだ。
え、それでいいの!?
でも自分もちゃんと言わなければいけないと思う。
上手く言えるか分からないけど、何かは言わないと……!
勇気を振り絞って顔を上げると、思った以上に近いところに夏緋先輩の顔があって驚いた。
思わず仰け反ったのだが顔を掴まれ、次の瞬間……視界は夏緋先輩で埋まっていた。
額に、唇に、温かい感触が触れたかと思うと離れていった。
瞬きすることも忘れ、夏緋先輩を見る。
普通だ。
しれっとした、何事も無い表情をしている。
いつも通りのイケメンだ。
今起こったことは夢だったのだろうか?
「今、何かしました?」
「したな」
したんだ。
そうか、夢じゃないのか。
……。
ええええええ!?
「な、なんでですか! こういうの気持ち悪いって言ってたじゃないですか!」
「お前だからいいんだろうが」
夢じゃないと分かるとパニックゲージが振り切れ、頭が真っ白になった。
挙動不審になってジタバタしているが、相変わらず夏緋先輩に拘束されたままだ。
っていうか、この人なんでこんなに落ち着いているんだ!
「なんでそんなに冷静なんですか!」
「騒いだって仕方ないだろ」
「それはそうですけど……」
「騒ぎたきゃ騒げばいい。落ち着くまでこうしていてやる」
この体勢が一番落ち着かないのだが……。
夏緋先輩の顔を盗み見ると吹っ切れたのか、穏やかに笑っていた。
それを見ると、僕も騒ぐことが段々馬鹿らしくなってきた。
「僕も……夏緋先輩だったら……いいかな」
考えないようにしていたが最初から分かっていた。
僕は夏緋先輩が好きなのだ。
だから告白してくれたことが嬉しかったし、無かったことにされたのが悲しかった。
単純なことだ。
「なんでこんなことになっちゃったんでしょうね」
BLにならないと言っていた僕と、BLを毛嫌いしていた夏緋先輩が今こうやって抱き合っている。
「まったくだ」
この光景を少し前の自分達に見せると、絶対嘘だと信じないだろう。
お互い同じようなことを考えていたようで目が合い、思わず声を出して笑ってしまった。
――ゴンゴンッ
突如響いた大きな音に驚いて、肩がビクッと跳ねた。
音の発信源を見ると扉に手をかけ、会長がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
どうやら今のは会長が扉を叩いた音だったらしい。
「……あ!!」
今の自分の状態を思い出し、急いで夏緋先輩とくっついていた体を離した。
だが時既に遅し、会長のニヤニヤは更に濃くなった。
こいつ、どこから見ていた……!
「悪ぃ、スマホを忘れたと思ったが気のせいだった」
絶対嘘だ、明らかに嘘だ!
顔が茹でられたように熱い。
会長に見られた……!
「兄貴!!」
「続きは鍵をしめてやれよ?」
終始ニヤニヤしていた会長は、そう言い残すと去って行った。
分かっていてわざとからかいに来たな!!
「夏緋先輩、僕……あの人殺したい!」
「……我慢してくれ、一応自慢の兄貴だ」
呆れた様子の夏緋先輩が立ち上がり、扉の外を確認してから鍵を閉めた。
窓の鍵も閉まっているか全て確認している。
会長がいないことを確認出来たらそこまでしなくてもいいと思うのだが。
不思議そうに僕が見ていることに気がついた夏緋先輩が、作業を続けながら呟いた。
「確かに鍵をしていないと気が散るだろ」
「は?」
次は少し開いていたカーテンをきっちり閉めだした。
何故そこまで念入りなのだ。
もう話も一通り済んだはずだ。
「そこまでしなくても……」
「お前は見られていいのか?」
「別に、話しているところくらい見られても……」
「続きだろ?」
当然のことのように言いながら、夏緋先輩が戻ってきた。
続きって?
ポカンと見ていると、いつの間にかさっきの恥ずかしい状態に戻っていた。
何故だ。
……あれ……まさか……続きというか、その先に進む気か?
正気か確認するために目を見たがふざけている様子はない。
むしろ当然だ、そう言っている気がする。
ちょっと、待ってくれ……。
確かに『続きは鍵をしめて』とか会長は言っていたが!
「いやいやいや!! そんなことまでお兄ちゃんの言うこと聞かなくていいじゃないですか!!」
「オレの意思だが?」
そんな馬鹿な。
僕の中では夏緋先輩はそんなキャラでは無い!
「お前の方が詳しいからな。ちゃんと教えてくれよ?」
詳しいだなんて……詳しいけど!
残念ながら凄く詳しいけど!
展開が早い!!
急にBLゲームの世界らしくなられても困る!
「落ち着いてくださいよ!」
「お前が落ち着け」
僕の方があたふたしていることは確かだが、正常な反応をしているのは僕の方だ。
この落ち着き方といい夏緋先輩の方がおかしい!
「逃げられると思うなよ?」
どうしてこうなった……。
僕はBLにはならないと言っていたはずで、目の前で僕を見て妖しく微笑んでいる人もBLは嫌いだと言っていたはずなのに……!
運命からもこの人からも逃げられそうにない。
BLゲームの世界で主人公の弟に転生しましたが、僕も兄と同じ運命を辿りそうです。