第十六話 姉兎と弟兎
爽やかな日曜日の朝。
カーテンの隙間からは穏やかな光が差し込んでいて、僕の部屋はとても平和な空間になっている。
僕の頭の中とは大違いだ。
脳内……いや、体全体が色んな色の絵の具を混ぜて出来た汚い色の負のオーラに包まれているようだ。
平和ではない、暗黒時代である。
原因は土曜日の楓による『告白テロ』だ。
『テロ』、そう……あんなものテロだ。
あれからずっと、この件をどうするかで頭がいっぱいだ。
まず、兄に相談しようか迷った。
そもそも兄がきっかけのようなところもある。
相談ついでに抗議してやろうかと思ったが……やめた。
というのも、偶然こんな記事を読んだからだ。
何気なく開いた検索サイトのトップページで特集されていた『女の子からの告白を断る際のマナー』という記事だ。
楓は女の子ではないが、そこはスルーしよう。
記事にあったポイントはこうだ。
返事はすぐに、保留しない。
きっぱり断る。
希望を抱かせない。
共通の知り合いには話さない。
以上のことが挙げられていた。
告白された時点で、自分の中では付き合うかどうかの判断は出ているはずであり、迷うくらいならきっぱりと断ろう。
また、返事に時間をかけたり、優しい言葉をかけたり、希望が残るような態度をとるのは結果的により長い時間相手を傷つける結果になる。
共通の知り合いに話さないのは、周りも含めた交友関係に影響が出る場合があるので、告白のことを話す権利は告白をしてくれた女の子に委ねるべきだ、……と書かれてあった。
これを読んだ僕は、『成る程、その通りかも』と納得した。
まず、楓に告白されたわけだが『じゃあ、付き合おう』なんて気は起こらなかった。
楓のことは嫌いじゃないが、『僕はBLにはならない』という意思ははっきりしている。
これから先、楓に付き合おうと言われても断ることになる……はずである。
『人に話さない』というのも相手が兄なら支大丈夫だと思うが、勝手に詳細を話すのは気が引けるし、記事の通りにしてみようと思った。
「断る、きっぱり断る!」
『返事はすぐに』という教えを守り、僕はすぐさま楓に電話をした。
夜の遅い時間だったが、当日中に事件を解決したい。
希望を抱かせないように断る、はっきり言うぞ!
絶対言うぞ!
果たして上手く伝えることが出来るだろうか。
緊張でドキドキしながらコール音に耳を傾けた。
頭の中でどう伝えるかのシミュレーションをしながら待っているとコール音が途切れ、楓の声が聞こえた。
『アキラ? どうしたの?』
「い、いや、さっきの話についてだけどな、ちゃんと言っておこうと思って」
『……ボクが好きって言ったこと?』
「そう、それ。それなんだけど、その……やっぱり、お前の気持ちには応えられない」
言った、言ったぞ。
少し口籠もってしまったが、伝わるはずだ。
楓の返事を待つ。
やっぱり、傷つけてしまうだろうか。
気まずくなってしまうのだろうか。
楓に纏わりつかれるのは窮屈に感じることもあったけど、楽しかったし、悪くなかった。
それが無くなるのかと思うと寂しい。
『……言いたいことはそれだけ?』
楓の静かな声に、肯定して返した。
電話越しに聞こえた落ち着いた声色に関係が崩れることを予感しながら、楓が話し始めるのを待った。
『……はあああっ』
……あれ?
予想外なトーンの溜息が聞こえてきた。
割と元気……というか、まるで呆れた時に出すような声だ。
『あのねえ、ボクの話聞いてた? まさか寝てたの? アキラにその気が無いのは分かってるって言ったでしょ? だから『これから好きになって』って言ったんじゃん!』
「聞いてたっつーの! それはそうなんだけど……」
頑張ったところで僕はBLにはなるつもりはない、ということ言いたいのだが……。
『アキラは余計なこと考えないで、いつも通りぼうっとしていればいいんだよ』
「お前それ、馬鹿にしてないか」
『してないよ。そこも好きなところなんだから』
「そ、そう……、か?」
そう言われてしまうと、反抗し難くなってしまってやり辛い。
照れるような、腹が立つような……調子が狂って嫌だな。
『気がついたらいつの間にかボクのことを好きになってるから。アキラは何もしなくてもいいの! でもまあ、こうやって声を聞けたのは良かったかな。夢でも会えそうだし』
また返事に困るようなことは言わないで欲しい。
困惑しているうちに、『おやすみ』と楓は電話を切った。
耳には電話が切れていることを知らせる『ツーツー』という音が響いている。
「何故だ……」
告白を断る電話をしたのに、小馬鹿にされた上何もするなと叱られて終わった。
こんなことって一般的にあるものなのか!?
「解せぬ……」
何がいけなかったのだ……僕か?
『お前がどれだけ頑張っても、BLになる気はない! 無駄だ!』と宣言すれば良かったのだろうか。
いや、そんなことは僕の性格上絶対に言えない。
『返事はきっぱり、希望を抱かせない』
記事神様、僕は教えを守れませんでした……。
そんなよく分からない敗北感を感じながら夜を過ごしたのだった。
一晩経ったがモヤモヤは晴れない。
胸の中に残ったままだ。
「折角の日曜日なのに」
楽しいはずの日曜日を、気落ちしたまま終わらせては勿体無い。
「気分転換に出掛けよう!」
僕に今必要なのはリフレッシュだ。
すぐさま着替え、朝食も食べずに家を飛び出した。
※※※
日曜の朝八時過ぎとあり、人の姿はまだ少ない。
車もあまり通っていない。
昼間とは違い、静かな通りを歩くのは気持ちがいい。
目指しているのは華四季園の駅前だ。
あの辺りは色んな店が沢山あるし、一日潰せるだろう。
たまには一人で気ままにブラブラするのもいい。
とりあえずはこの時間でも開いているハンバーガーのファストフード店で朝ご飯を食べよう。
快調に足を進めていると、視線の先で僕と同じ年代の男女五人組が話をしているのが目に入った。
いや、よく見ると僕より少し若いくらいだ、中学生かな。
近づくとどうやら揉めているようで、荒げた声が聞こえ始めた。
「深雪君にひどいこと言わないでよ!」
「事実を言っているだけだろ!」
構図は女子二人対男子二人のようだが、一人の男子が間でオロオロしている。
間の子は色白の凄い美少年……あれ、どこかで見たことあるな。
……あ、白兎さんの弟の白兎王子だ!
「お前も黙ってないで、自分でなんとか言えよ!」
「深雪君、こんな奴無視していいんだからね?」
何が原因かは分からないが白兎王子は男子達から責められ、女子達からは庇われているようだ。
女子が庇うように前に出たのを見て、男子の顔が更に険しくなった。
「女に守って貰っていい身分だなあ。普段からあのムッキムキなマッチョ姉ちゃんに守って貰ってるもんなあ?」
男子がボディビルダーの決めポーズを真似しながら、声をあげて笑い出す。
……白兎さん、有名人なんだな。
この男子の馬鹿にした笑いや態度には心底腹が立つが……。
『マッチョ姉ちゃん』……なんか……じわじわ来る。
面白く言ってんじゃねえよ。
「姉さんを馬鹿にするな!」
白兎王子が大きな声を出し、男子の胸倉を掴んだ。
男子も女子も驚いて王子を見た。
僕も驚いた。
「な、なんだよ、離せよ」
男子は狼狽えているが、女子の前だからかやり返そうとしている。
放っておくとまずいかな、そろそろ止めた方が良さそうだ。
「おーい、野兎君。どうした?」
声を掛けると五人の視線が一斉に僕に集まった。
白兎王子は僕のことを覚えていたようで、『あっ』と小さく声を出していた。
「はい、ストップ」
男子の胸倉を掴んでいる白兎王子の手を解いた。
自由の身になった男子はこれ以上話をするつもりは無いようで、舌打ちしながら離れて行った。
「深雪君ごめんね?」
女子達が白兎王子を挟むようにして声を掛けるが、立ち去ろうとしていた男子から声が飛んだ。
「いい加減にしろよ! お前ら、さっさと来いよ!」
どうやら男子と女子は、対立はしていたが行動は共にしているようだ。
女子は後ろ髪が引かれるような様子で渋々男子の方へ向かった。
「先に行ってるね」
去り際にそう声を掛けられた王子は微笑み、手を振っていた。
目的地は一緒なのか。
「あ、あの……」
白兎王子がこちらを見ていた。
「大丈夫? 余計なことした? あ、僕のこと分かる?」
そこでお互い自己紹介をする。
王子は僕のことは分かったが、名前は知らなかったそうだ。
初めて会った時に白兎さんに聞いたが、頑なに教えて貰えなかったそうだ。
何故だ、僕の名前など知るに値しないということなのか。
王子の名前は『野兎深雪』というらしい。
姉弟揃って可愛い名前だ。
そう告げると、深雪君は嬉しそうに微笑んだ。
男の子に可愛いなんて言ってしまって失敗したかと思ったが大丈夫なようだ。
「そうなんです、姉さんは可愛いんです」
あれ、どうやら『可愛い』について受け取ったのはお姉ちゃんの分だけのようだ。
さっきも白兎さんのことを言われて怒っていたし、シスコンか?
僕や夏緋先輩に近い匂いを感じたぞ。
「助かりました。ありがとうございました」
深々と礼をされた。
礼儀正しい子だ。
そういえば、白兎さんも礼儀正しいイメージがある。
良い家庭で育ったのだろう。
その後、あんな状況に至った経緯を説明してくれた。
深雪君は中学三年生で、高校受験を控えている。
だが体が丈夫ではないため学校を休みがちになり、学力面が不安。
そこで進学塾に通い始めた。
今日は朝から夕方まで、一日勉強漬けの塾がある日。
さっきのグループは同じ塾に通う子達で、通っている中学も一緒。
女子はクラスメイトだが、男子は違うクラス。
一人で塾に向かっていた深雪君だったが、途中で四人と遭遇。
女子から一緒に行こうと誘われたが、それが面白くなかった男子が怒り始めてああなったらしい。
「そっか、災難だったな」
あの場にいた男子は、高校生になったらチャラ男として開花しそうなフツメンだった。
女子からすれば美少年の深雪君といる方が楽しいだろう。
「誘ってくれるのは嬉しいんですけど……。どうしてああなるんだろう」
憂いを帯びた表情は、色白で普段から儚げな印象を抱く深雪君の雪のような美しさによく合っていた。
囚われの王子、といった感じだ。
会長くらい強引な俺様皇帝に救出に向かって欲しい。
「女の子より、男の友達が欲しいのに……」
なん、だと……。
女の子より、男の子と仲良くなりたいだって……!?
それは素晴らしい、是非応援したい。
君なら未来のエースになれる、BL界期待のホープだ!
……いや、もちろん深雪君がそういう意味で言っているんじゃないのは分かっているけど、ついね。
「あきらさんは、お友達がいっぱいいそうですね」
「そうかな? 普通だと思うけど」
「おれはあんまり友達がいないから、そう言えるのも凄く羨ましいです」
学校を休むことが多いと言っていたから、友達が作りづらいのだろうか。
白兎さんも友達とわいわいするタイプじゃないし、そういう性格の血筋なのかな?
「まあでも、僕らは今友達になったから、一人増えたじゃん」
そう言って笑いかけると、俯いていた顔を上げ、目を輝かせた。
「友達になってくれるんですか?」
「おう、なるなる」
こんな可愛い友達、大歓迎だ。
「やった! おれ、華四季園に入りたいんです! 入れたら、いっぱい遊んでください!」
キラキラした瞳でこちらを見上げてくるこの生き物はなんなのだろう。
地球に生息している生物の中で一番可愛いんじゃないだろうか!
「おう、いっぱい遊んでやるぞ」
思わず深雪君の頭を乱暴に、わしゃわしゃと撫でてしまった。
『わあ』と声を上げながら嬉しそうに目を細めている。
癒される……激しく癒される。
荒んでいた心が修復されて行くのを感じる。
「いいなあ、こんな可愛い弟がいて。君、うちの子にならんかね」
勧誘してみた。
天地家の愛され三男として迎え入れたい。
長男も次男も溺愛すること間違い無しだ。
「おれは兄さんが欲しかったから、嬉しいな。えへへ、なっちゃおうかな。兄さん! ……なんちゃって」
「兄、さん……だと!?」
なんて良い響きなのだろう!
兄と呼ばれることが、こんなに心踊るとは……!
なんでも買い与えたい衝動に駆られる。
貢ぎたい、養いたい。
目の前には顔を赤らめ、照れる天使。
ああ……この子こそ、本当の天使だ!
楓も天使だが、時々白い翼じゃなく小悪魔の羽に変わっている。
だが、この子は純白の翼だ。
尊い、国で保護して欲しい。
このまま何処かに連れ回したくなったが、状況を思い出した。
「塾に行かなきゃいけないんだったな」
「あ、そうだった……。もうちょっと、大丈夫です!」
嬉しいことに、深雪君はまだ僕と話をしたい様子だ。
時間も気になるので、塾に向かいながら話すことにした。
「あいつら、白兎さんのこと知っているんだ? あ、君の姉さんのことね」
「姉さんのこと、そんな可愛らしい呼び方してくださっているんですか」
「本人には嫌がられているけど」
死線を潜り抜けてきた戦士のような眼光で睨まれたことを思い出した。
「きっと照れているだけです。姉さん、恥ずかしがり屋だから」
照れ隠しがあの表情だとすると、理解するのは難しい。
難易度が高過ぎる。
「えっと……さっきの子達は小学校も一緒だったんで。姉さん、結構目立つから……」
確かに、あの仕上がり方は目立つだろう。
小学校の頃から今のような感じだったのだろうか。
横を歩く深雪君の顔を盗み見ると、考え込むような真剣な顔をしていた。
「なあ、聞いてもいいのか分からないけど、白兎さんてなんであんなに鍛えているんだ?」
以前から気になっていたことを聞いてみた。
「それが……分からないんです。聞いても答えてくれないし。でも、多分『おれのため』なんです。母が言ってました。おれが小さい頃、喘息で入院したことがあったんですけど、その時酸素マスクをつけている姿を見て、姉さんがおれのことを守ると言っていたそうなんです。鍛え始めたのはそれからだと……」
病気から守る、ということなのだろうか。
でも病気だったら、深雪君本人が鍛えないと意味がないと思うが。
何かあった時に弟を守る為に鍛えておく、ということか?
これだけ美少年なら、危険も多いかもしれない。
「弟思いの良いお姉ちゃんなんだな。なんか納得出来るよ。白兎さんて、優しいもんなあ」
前も感じの悪い女子に親切にしていたっけ。
あれには感心させられた。
「分かってくれます!?」
興奮した様子で僕の腕を掴み、覗き込んでくる深雪君。
お姉ちゃんのことを良く言われて嬉しいのは分かるが、足が止まっている。
塾に向かわないとね。
腕をポンポンと叩き、再び歩き出すように促しながら会話を続ける。
「分かるよ。でも、勿体無い気もするなあ。逞しさを抑えたら、凄く美人さんになりそうなのになあ」
弟の深雪君はこれだけ美少年だし、戦士のような凛々しい面構えの中にも整っている片鱗が見える。
「あきらさんもそう思います!?」
折角歩き出したのに、再び足は止まってしまった。
しかもさっきより興奮している様子だ。
「姉さん、本当は女の子らしいんです。優しいし、毎日飲んでいるプロテインだって苺味なんですよ」
「う、うん……」
『毎日飲んでいるプロテイン』という部分を追求してはいけないことは分かる。
彼は真剣なのだ。
ボケているわけではない。
凄くツッコミたいけど!
「これ、見てください」
手渡されたのは写真だった。
いつも持ち歩いているのか、皺が入って少々くたびれていた。
そこには五歳くらいの少女が写っている。
銀の髪に赤い目、陶器のような白い肌。
ヒラヒラのドレスのようなワンピースを着て、アンティーク人形のような美しい幼女だった。
大人になったら絶世の美女になるだろう。
「美人さんだな」
「これ、姉さんなんです」
「へえ……え、……えええ!?」
これ、白兎さん!?
変わり過ぎるだろ!
可憐な美幼女と屈強な戦士、両極端にあるような存在だ。
時間の流れって恐ろし過ぎる。
でも、よく見ると少し面影がある。
本当なんだな……。
「きっと、こっちが本来の姉さんなんです。今は必死に無理をしているんです。おれ達、そんなに体が丈夫な家系でもないし……。ご飯だって無理矢理食べているような気がするし。逞しい姉さんもカッコ良くて好きだけど、自然な姿の姉さんが見たいなあ」
「その希望は本人には言ったの?」
「……おれの為みたいだし、言えないです」
お互いを思いやって、お互い我慢しているのだろうか。
「あきらさんから言ってみてくれませんか? あきらさんみたいなイケメンから言ってくれたら、姉さんも考えてくれるかも」
何かきっかけがあって話し合えば、良い方向に向かうかもしれない。
イケメンなんて言われたら、兄さん、頑張りたくなってしまうぞ。
可愛い弟の為に一肌脱ぐか。
「よし、任せとけ」
「お願いします!」
肩に手を回して、もう一度頭をワシャワシャと撫でた。
嬉しそうに照れている姿が可愛い。
やっぱ持ち帰りたいなあ。
保護欲を刺激されるというか、無性に触りたくなる。
「ん!?」
背後に只者ではない気配を感じた。
全身の毛が逆立つような恐怖を感じる。
振り返ると、そこには思わず『伝説』と呼びたくなるような屈強な女戦士が立っていた。
「あ、姉さん」
「白兎さん、おはよう。……どうした?」
わなわなと小刻みに震え、何かに耐えている。
どうも様子がおかしい。
「何故だ…………うおおぉぉぉおおおぉぉぉッ!」
膝から崩れ落ちる女戦士。
『戦地から帰ったら、家族が敵に襲撃されていた』くらいの衝撃を受けているように見える。
「姉さん!?」
「何事!?」
地響きが起こりそうな唸り声を上げながら、地面に崩れ落ちた白兎さんの元に深雪君が駆け寄った。
僕もそれに続く。
「何故ここに……天地央がいるのだ……」
白兎さんが吐き出すように呟いた。
あれ、僕がいるのが問題なのか?
そして何故フルネームで呼ぶのだ。
「あきらさんとは偶然出会ったんだよ」
「アキラサン!? 名前まで……うぉおぉおぉ」
「なんか僕、凄く嫌われてます?」
そういえば頑なに名前を教えなかったらしいし、バイ菌だと思われているのだろうか。
正直凹むのですが。
「て、照れているだけですよ! っていうか姉さんはどうしたの?」
優しい深雪くんがフォローをしてくれた上、誤魔化すように話を反らした。
その優しさが更に辛い。
「お弁当、忘れていたから……」
「あ、本当だ」
少し落ち着きを取り戻した様子の白兎さんは立ち上がると、弁当と水筒が入っている紙袋を深雪君に差し出した。
「あ、深雪君、時間!」
「あっ!」
道沿いにある店の時計を見ると、思っていたよりも時間が経っていた。
ギリギリの時間になってしまったが、幸い塾はもう目前だ。
「あきらさん! 姉さんのこと、お願いしますね。……あと、さっきお願いしたことも」
深雪君がコソッと僕に耳打ちした後、手を振って塾の方に駆けていった。
うむ、任せなさい。
深雪君に手を振り返し、気合いを入れて白兎さんに話し掛けた。
「白兎さん、時間ある?」
「無い」
……取り付く島もないな。
だが、すぐに諦めるわけにはいかない。
可愛い弟の頼みだ。
格好をつけて『任せろ』なんて言ってしまったのだから、期待に応えなければ。
兄さん、頑張るぞ。
「走ってきたんでしょ? 汗かいてるし、ちょっと休憩していこうよ」
ちょうど目指していたファストフード店も目の前にあった。
場所を指差しながら、あそこに行こうと誘った。
「財布を持ってきていない」
「奢るって」
「断る」
「断るを断る!」
白兎さんの表情がどんどん険しくなっていく。
だが、僕はめげない。
「いいじゃん。ちょっと付き合ってよ」
しつこいナンパのようで恥ずかしいが、この羞恥にも耐える。
深雪君に喜んで貰う為に頑張るのだ。
白兎さんの腕を掴み、強引に連れて行こうとするが……動かない。
「ふんっ」
吹き飛ばされそうな鼻息で、馬鹿にされた気がした。
こいつ、会長より強いんじゃないか……!?
それにしても腕が硬い、そして太い!
「ぐうっ」
思い切って全力で腕を引いてみる……が、それでも微動だにしない。
「はあ、はあ……」
息が上がってきた。
無理だ。
男として凹む。
「頼むよ、ちょっと付き合ってよ……」
白兎さんの、可哀想な奴を見るような目が辛い。
「……少しだけなら」
なんとか、泣き落としのような戦法で成功。
憐れまれながら目の前の店に移動した。
……泣いてもいいですか。
※※※
ファストフード店は一階が店舗で、二階が飲食フロアになっていた。
休日の朝だからか、客足は疎らだ。
席もほとんど空いている。
壁際の周りに誰もいない四人席に、白兎さんと向かい合って座った。
僕は腹が減っていた為、ボリュームのあるモーニングセットを頼んだ。
白兎さんは『水でいい』と頑なに僕に奢られるのを嫌がったので、何も買っていない。
勝手に雛がよく飲んでいるミルクティーでも買って渡そうかと思ったが、無理やり奢るのも押し付けがましいかと諦めた。
水は自由に飲めるし、欲しくなったらその時買いにいけばいいし。
『僕のコーラだけど、飲みたかったらこれ……』
『いらない』
『ポテトも食べて……』
『いらない』
そんなやり取りをして、完全拒否されていることに打ち拉がれつつ朝食に手を伸ばした。
一人だけ食べるのは申し訳ないが、空腹に負けてモシャモシャとレタスとトマトの入ったハンバーガーにかぶりついた。
さて、どう切り出したものか。
聞きたい話題の外堀から埋めていくのがいいだろうか。
でも、あまり遠いところから話していては日が暮れる。
白兎さんはグラスに視線を落として、何か考えている様子だ。
ただ片手でグラスを持っているだけなのに、今にも握りつぶしてしまいそうに見えるのが不思議だ。
「さっき深雪君に聞いたんだけどさ」
僕が話し始めると、こちらに視線だけを寄こした。
「白兎さんって、深雪君のために鍛えてるの?」
「天地君には関係ない」
即答だった。
「そうかもしんないけどさ……」
話をどう繋げればいいか分からない。
外堀から埋めていくなんて、やっぱり僕には無理だ。
考えるのが面倒だし、白兎さんも余計な時間を取って欲しくないだろう。
ストレートに聞くのが一番か。
「上手く言えないからありのまま言うけどさ。深雪君は、自分を守るために白兎さんが無理をして鍛えてるんじゃないか、って思ってるみたいだよ」
「あの子が……?」
きょとんとした普段見慣れない表情の白兎さんに、苦笑いを向けながら話を続ける。
「で、白兎さんがまだ鍛え始めていない小さい頃の写真を見せて貰ったんだけど、凄く可愛いって自慢してたよ。こっちが本来の姉さんの姿だって」
「そんなことを……」
「本来の姿を見たい、って言ってた」
眉間に皺を寄せて険しいような、悲しいような表情をしている白兎さん。
相当困惑しているようだ。
「鍛えている理由って、深雪君が考えている通りなのか?」
「……お前のせいだ」
「ん?」
「なんでもありません」
一瞬凄く睨まれたが、何を言ったかは聞き取れなかった。
何か深い訳がありそうだ。
無理矢理聞き出すのも悪いし、深く追求することはしないが。
「鍛えるの、止めてみない?」
「それは出来ない!」
即答した声に、『それだけは譲らない』という強い意志を感じた。
何がここまでさせるのだろう。
でもこの様子を見ていたら、何と無く深雪君の気持ちが分かってきた。
聞いていた通りに無理をしているというか、張り詰めた印象を受ける。
もっと肩の力を抜いて欲しいし、深雪君はきっともっとたくさん白兎さんの笑顔が見たいんだと思う。
こうなったら……嫌な思いをさせるし、深雪君にも怒られてしまうかもしれないがさっきの話をしよう。
「辛い話をするけどさ……」
そう前置きを入れる。
何を言われるのか気になったのか、姿勢を正して僕が話し始めるのを待つ白兎さん。
「深雪くん、同級生に白兎さんが逞しいことをからかわれていたんだ」
「え」
口が悪い言い方をすると、お前のせいで弟がいじめられていたんだぞ、という報告だ。
こんなこと知ってしまったら白兎さん本人も傷つくし、お姉ちゃんが傷ついて深雪君も傷つく。
何も良いことはない。
だから、こんなことを耳に入れるなんて自分は嫌な奴だと思う。
でも、白兎さんが変わるきっかけになると思う。
深雪君を思う気持ちを逆手に取り、追い込んで動かすという大分卑怯なやり口だが……。
「深雪君は白兎さんのことが大好きだから怒っちゃって、ケンカになりそうだったんだよ」
「そんな……あの子が、私のせいでからかわれていた?」
かなりショックを受けているのだろう。
呆然としている顔を見ていると心苦しい。
「ごめん、傷つくこと本人に話して」
「ううん、ありがとう。あの子を守りたいのに、私のせいで……」
「深雪君は強いよ。お姉ちゃんのことであれだけ怒れるんだから」
「そう、なのかな……」
鍛え抜かれた肩が下がり、落ち込んでいるのが分かる。
「深雪君のお願い、聞いてあげようよ」
「鍛えるのをやめろってこと?」
「まあ、そうかな。守るっていっても方法は色々あるし、『守り方を変える』って考え方をしてみたら?」
僕の言葉を聞いて、白兎さんは俯いて考え込んでいる。
黙って、白兎さんが話始めるのを待った。
暫くして、顔を上げた白兎さんは真っ直ぐ僕を見た。
何かを決意したような表情だったが……。
「一つ、お願いがある」
「何?」
「深雪に近づかないで」
「え、僕が?」
「そう」
「なんで?」
「私が嫌だから」
まるで僕が危険だと言われているようだが……気のせいか?
弟を攫おうとしていたのがバレたのだろうか。
「友達になるって約束したんだけど」
しょんぼりしながら白兎さんを見た。
既に僕は半泣きですよ。
「……じゃあ、深雪と話すのは私がいる時、用事がある時は私を通す、これを守ってくれたらいい」
本気でバイ菌扱いじゃないですか。
もしくはストーカー。
必ずマネージャーを通してください、ってやつだ。
「……よく分かんないけど、分かった。それで白兎さんが納得するなら」
釈然としない部分はあるが、白兎さんと深雪君がより仲良くなれるならいい。
僕は泣きたいけどね!
そんなに嫌われるとは思ってなかったよ!
悲しくなると腹が減って来た。
やけ食いだ。
「もう一個買ってくる。白兎さんは……」
「いらない」
「だよね!」
バイ菌の買う食べ物なんていらないよね!
追加のハンバーガーを買いに、泣きながら一階に走ったのだった。
出来たての熱いハンバーガーを手に戻ると、僕の座っていた席に誰かが座っていた。
白兎さんと話をしている。
友達でもいたのだろうか。
桃色ヘアーのツインテールなのだが、見覚えがあるような……。
近づくと話している内容が聞こえてきた。
話すというより、白兎さんがほぼ一方的に罵られていた。
「櫻井さんだったら仕方ないけど、なんであんたみたいな女の子に見えないゴリラみたいなのが天地君と一緒にいるのよ!」
「偶然です」
「嘘よ! そんなこと言って、気がない振りして気に入られようとしてるんでしょ!? タオルだってくれなかったじゃない! スマホアクセ拾ったのだって、天地君がいるの分かってて親切ぶったんでしょ? 私が嫌われるようにわざとやったんでしょ!?」
「違います」
「女なのに、ムキムキで気持ち悪い! これ以上天地君に近寄らないで!」
顔は見えないが、この前見かけた感じの悪い女子のようだ。
随分勝手だし、ひどいことを言う。
よいしょと感じの悪い女子の隣の席に座った。
「いや、近づくなって勝手に決められても困る」
顔を見ながら抗議すると、女子は僕が戻って来ていることに気づいていなかったようで固まっていた。
「白兎さんに謝るべきじゃない? 自分が『気持ち悪い』なんて言われたらどんなに辛いか想像してみなよ」
買ってきたハンバーガーの包み紙を剥がしながら話す。
「子供の頃、自分がされて嫌なことは人にはやってはいけませんって習わなかった?」
「私、私……」
かなり動揺しているようで目に涙が浮かんでいるが、白兎さんにちゃんと謝らない限り僕は甘やかさないぞ。
前だってお礼を言わずに去っていったんだから、今回はしっかり謝って貰おう。
「いえ、私が悪いのです。これ以上誤解を招かぬよう、金輪際天地君とは喋りません」
「え、ちょ……何か凄く悲しいんですけど……!?」
白兎さんが僕との決別を凛々しく言い放った。
厳しくいこうと決意していた僕に、まさかのダメージが入ったのですが!
「だからそうやって気を引いてるんでしょ!」
「いえ、心の底からそう思っています。なんなら、誓約書を書いてもかまいません」
「そこまで!?」
僕は白兎さんと話をしたいのですが!
さっきの約束があるから、白兎さんと話せなきゃ深雪君とも話せないし。
そんなの嫌だ!
「では、天地君は彼女を送ってあげてください。私は一人で帰ります」
「ちょっと待ってよ」
制止する僕の声を無視して、白兎さんは店を出て行った。
「天地君、私……」
隣に座る女子が何か言おうとしているが、僕は白兎さんを追わなければ。
「ごめん、僕も行くから。あ、これ食べて。まだ口つけてないから」
包みを開けてしまったハンバーガーを渡し、急いで白兎さんの後を追った。
※※※
白兎さんは歩く速度は早いが、背は僕より低いので歩幅は狭い。
走って追いかけるとすぐに見つけることが出来た。
「白兎さん!」
後ろから声をかけたが、振り返るつもりはないらしい。
白兎さんは歩くスピードを上げた。
僕を振り切るつもりのようだが、そういうわけにはいかない。
横に並んで白兎さんの顔を覗き込むと、唇を噛んで悲しいのを耐えているような表情だった。
見たことのない表情で吃驚した。
「凄く凹んでいるように見えるけど」
「そんなことはありません。気のせいです」
低い声で拒絶するように返されたが……。
目が少し赤くなっているし、薄っすら涙が溜まっているように見える。
意外だ。
「泣いてるように見えるのも気のせい?」
「ふんっ」
強がっているが、どんなに逞しくても心は女の子なのだろう。
そりゃ、面と向かってあんなこと言われたら傷つく。
弱いところを見せようとしないのが白兎さんらしいが。
「ああいうことを言われるのは慣れているんです。平気なはずなんです」
「……うん」
「……でも、今日は何故か凄く……悔しかったようで……このような事態となってしまった次第であります」
「何故、報告口調」
まるで偵察部隊の報告のようで少し笑ってしまった。
これが深雪君が言っていた照れ隠しなのだろうか。
ちょっと可愛い。
「鍛えるのをやめて綺麗になって、さっきの子をギャフンと言わせてやろうよ」
「ギャフンって……古い」
「そこ拾うなよ」
古いと言われて地味にダメージを食らったが、少し警戒を解いてくれたような気がした。
「僕も綺麗になった白兎さん、見たいな」
あの写真の美幼女の現在の姿を是非みてみたい。
笑いかけると殺意の篭った視線を向けられた。
「死ね」
「今、死ねって言った!?」
聞き取り辛い声だったが聞こえたぞ!
度々何かを呟いているのを見かけたが、あれは死ねと言われていたのだろうか。
分かったよ、とことん嫌われてるってことが!
今夜はこれを思い出して泣き明かすことになるだろう。
「綺麗にはならないと思いますが……やってみます。鍛えないという試練だと思います」
「あ、うん。頑張って……」
僕は『死ね』のダメージが暫く残りそうです。
「ギャフンと言わせましょう。ちょっと燃えてきました」
俯いていた顔はいつの間にか前を見ていて、瞳には炎が宿ったように見えた。
根っからのファイターなのだろうか。
確かに試練と考えたらやり遂げられそうな感じがする。
「燃えて鍛えないようにしてよ」
「難しいですね」
そこで初めて、白兎さんの笑顔を見た。
満面の笑みではなくはにかんだ様な苦笑いだったが、写真の美幼女の面影が見えた。
これは、驚きのビフォアアフターになりそうだ。
解き放たれた柊事件の再来になりそうな予感がする。
「でも、天地君が約束を破ったら、私はすぐに鍛えますから」
「……分かってるよ」
どうせ僕はバイ菌ですから。
僕なんて死滅すればいいんですよね。
拗ねても良いと思う!
「なあ。白兎さんって僕と喋る時いつも敬語か武士みたいな片言だけど、深雪君に話している時みたいに話してよ」
「断る」
「一刀両断かよ」
少し気を許してくれるようになった気がしていたが、勘違いだったようだ。
いいよ、今日はとことん泣き明かすから。
 




