第十二話 カミングアウト
もう何度来たか分からない会長の私室こと生徒会室。
いつも締め切られている窓が今日は開いていた。
気持ちの良い風が入ってきて、淀んでいることが当たり前になっていた空気も浄化されている。
爽やかな風に吹かれ、ワイルドな赤髪を揺らす会長は今まで見た中で一番上機嫌だ。
上機嫌というより『浮かれている』と言った方がいいだろうか。
間違いなくデートの約束がそうさせているのだろう。
好きな人とのデートを楽しみにしているイケメンだなんて、いつもならキュンとするところだが、今はそんな気分になれない。
兄と春兄の関係が更に拗れないように、兄と会長のデートは阻止したいが、そこよりもまず、喧嘩の発端となった原因が気になる。
何があの仏様のような兄の逆鱗に触れてしまったのか、見当もつかない。
「はあ……」
溜息ばかりつく僕になど目もくれず、会長は兄とのデートプランについて楽しそうに話している。
僕の隣にいる夏緋先輩も聞いていないので、ほぼ独り言だ。
暫く放って喋らせていたのだが、夏緋先輩が我慢しきれなくなったのか、苛々した様子で口を開いた。
「……兄貴、本当に目を覚ませよ。それが兄貴とこいつの……いや、皆のためになる」
会長が諦めてくれたら僕達は余計な心配をしなくて済むし、兄達も邪魔されずにすむ。
僕も同意だと大きく頷いた。
「お前達は……まだ言うか? 夏緋、お前は世間体のことしか考えていないだろう。口を挟むな」
あれだけ緩んでいた顔が一瞬で怒りに満ちていた。
楽しみにしている気持ちに水を差されたことに腹を立てたのだろう。
こちらを睨む顔は恐ろしいが、夏緋先輩は引くことなく言い返した。
「……それもある。否定はしない。だが、せめてもう少し冷静に周りを見て上手くやれよ」
「周りのことなど知るか。お前だって自分のことしか考えてないだろうが。失せろ」
夏緋先輩を見る会長の目は冷たい。
「はあ」とため息をついた夏緋先輩は呆れているようだったが、尊敬している会長にこんなことを言われて悲しんでいるだろう。
夏緋先輩が今の自分と被って見えて胸が苦しくなった。
「違うよ。夏緋先輩は会長が好きだから! 格好いい会長でいて欲しいし、周りから変な目で見られて嫌な思いをしないか心配で……。それに親御さんにバレたら……」
「余計なことは言うな」
夏緋先輩に遮られてしまった。
「あ……」
つい夏緋先輩の気持ちを分かって欲しくて、口が動いてしまった。
兄とのことで反省したばかりだったのに、また余計なことをしてしまった。
「……くだらない。そんな心配は必要ない。もうお前達は頼らん」
当初の上機嫌から一転、眉間に深い皺を寄せて会長は出て行った。
荒々しく閉められた扉の音が生徒会室に響いた。
「はあ……」
気まずい静寂の中、夏緋先輩が溜息をついた。
「すみません、また余計な口を挟んでしまって……」
僕が口を出したせいで兄達だけではなく、青桐兄弟まで険悪にさせてしまった。
本当に申し訳ない。
夏緋先輩には助けてもらっているのに……。
「本当にな。分かったような口聞きやがって」
怒らせてしまったかなと不安になったが、顔を見ると言葉とは裏腹に穏やかな笑みを浮かべていた。
良かった……怒っていないようだ。
「ありがとな」
そう言うと僕の頭をポンと叩いて生徒会室を出て行った。
「……痛いし」
全く、叩く力が強いんだよ。
それが夏緋先輩らしくて可笑しかった。
※※※
会長の機嫌を損ねてしまった翌日の朝。
起きた時からなんとなく嫌な予感がしていた。
兄とはまだ、気まずい状態が続いている。
ご飯は作ってくれるし、話し掛ければ返事もくれる。
でもいつもの『世界をも救えそうな天使の微笑』がない。
救済がない世界、そこには絶望しかない。
辛い、生きるって辛い。
朝から鬱々とした負のオーラに巻かれながらカフェオレを飲んでいると、玄関が騒がしいことに気がついた。
聞き覚えのある声が幾つか聞こえる。
兄に春兄、それに……。
「マジかよ……」
会長だ。
絶対に良くないことが起きる。
その予感に突き動かされ、急いで玄関に向かった。
そこで見たのは眉間に皺を寄せた春兄と無表情の兄。
そして勝ち誇ったような表情の会長だった。
まさに修羅場、そんな感じだった。
以前はあんなに心躍り、盗聴したかったはずの修羅場だが、今はこの場の空気を吸っているだけで胃が痛くなりそうだ。
兄の身支度が整っているし、登校しようとしているところなのだろう。
でも三人で登校だなんて考えられない。
どうなるのだろうと冷や汗を流しながら見守った。
「行こうか、夏希」
兄は会長に声を掛けると、靴を履き始めた。
それを見て春兄の眉間の皺は更に深くなり――。
「勝手にしろ」
そう吐き捨て、春兄は一人で行ってしまった。
春兄の背中を見ると、怒っていることが怖いくらいに伝わってきた。
それを見て、兄に「追いかけた方がいいんじゃないか」と言おうと思ったが……。
会長が兄に話を振って、何事もなかったように会話を始めていた。
まるで二人が僕に「口を挟むなよ」と言っているような態度だった。
本当は違ったのかもしれない。
でも、そう受け取ってしまった僕の心は折れてしまった。
多分、僕が何を言っても駄目だ。
説得することを諦めて黙って見守っていると、二人は並んで出て行った。
「はあ」
兄達のことは、兄達が何とかするしかないのは分かっている。
でも僕は、やっぱり兄には春兄と幸せになって欲しいと思う。
僕にとっては春兄も、兄の次に大好きな『兄』なのだ。
あんな背中を見るのは辛かった。
すっかり学校に行く気をなくし、玄関に座って呆けていると雛が来た。
「今日こそは負けないんだから……って、どうしたの?」
僕の様子がおかしいことに気がついた雛が、隣に座って顔を覗き込んできた。
雛は何か気がついているのだろうか。
一瞬全て話して相談しようか迷ったが、兄達の関係のことを知らないはずだから混乱させてしまうか。
でも、春兄の様子だけでも分かるかもしれない。
当たり障りの無い部分を話してみることにした。
「兄ちゃんと春兄、喧嘩しているみたい」
「え、ええ!? そういえば……お兄ちゃん、最近凄く機嫌が悪かった。それが原因だったのね」
やっぱり春兄も機嫌が悪くなっていたらしい。
無理もないか。
恋人に原因が分からず冷たくされているんだもんなあ。
「兄ちゃん、僕にも何か怒っているみたいでさ……」
「え? 何で? アキは何か真兄を怒らせるようなことしちゃったの?」
「してない。いや、分からないけど……したつもりはない」
「そっか……。でも、真兄が怒っているなんて、よっぽど何かないと……」
雛も僕と同じ印象を持ったようだ。
やっぱり何か理由がある。
僕の何かが悪かったのだ。
もしかしたら全部僕のせいかもしれない。
でも、どれだけ考えても心当たりはない。
同じことばかり考えすぎて頭が痛くなってきた。
自然と頭を抱えてしまっていた。
「わ、私、頼りになる先生がいるの! だから大丈夫! 任せて!」
雛が焦ったように大きな声を出した。
拳を握り締めて、力説し始めたが……。
「は? 先生?」
「きっと何か分かると思うの!」
「お、おう」
勢いに圧されて返事をしてしまったが『先生』って何だよ。
妙な占い師とか霊能力者じゃないだろうな。
怪しさしか感じないが、頼りにしていいのだろうか。
雛が必死に力になろうとしてくれているのが分かるので遠慮し辛い。
でも、水晶とか買わされる前に止めた方がいいかもしれない。
そんなことを考えていたのだが、いつからか雛は深刻な顔で僕を見ていた。
明日世界が終わる、そう告げられた人のようだ。
「なんでそんな顔してんだよ」
「だって、アキが辛そうなんだもん。私、何も出来ないし……」
気遣ってくれて有り難いが、あまりにも真剣すぎて思わず笑ってしまった。
雛って真面目だよな。
「いや、なんか元気でたよ。ありがとな」
「!」
礼を言って笑って見せると、雛はカッと目を見開き、拳を握り締めて立ち上がった。
何かのスイッチを押してしまったようだ。
「私、頑張る!」
「ま、まあ、ほどほどにな。お札とか絶対買うなよ? 霊道があるとか言い出したらすぐに逃げろ」
「何の話?」
そこに遅れて楓がやって来た。
僕達を怪訝な顔で見ていた。
拳を握り締め、気合を入れている雛に座り込んでいる僕。
確かに様子がおかしいと思うだろう。
「楓、今日は雛の勝ちだ」
「はあ? 何が?」
「え? まだ渡してないけど……でも、やったあ!」
「ちょっと待ってよ。説明してよ!」
こいつら、ゆるキャラみたいに和むな。
暫く家に居てくれたらいいのに。
※※※
「はあ、何もしてないけど疲れたなあ」
学校が終わると真っ直ぐ家に帰ってきた。
楓や柊に呼び止められたが、まだ風邪が完治していないのかもしれないと適当なことを言って別れてきた。
気づかってくれているのに申し訳ないが、どうしても気力が湧かなくて塩対応になってしまった。
何もする気になれないし、一人でいたい。
今日はのんびりゲームでもしよう。
これ以上兄の機嫌を損ねないよう、制服もきちんと脱いで部屋着に着替えた。
おやつを調達するため、キッチンを漁っているとインターホンが鳴った。
「よう」
「やっほぅ。遊びに来ちゃった」
現れたのは気まずそうに頭を掻いている春兄と雛だった。
何やら話があるようなので招きいれ、三人でリビングに落ち着いた。
「今朝は騒がせてしまって悪かったな」
気まずそうだった原因は、朝のことを気にしていたからのようだ。
僕は自分のことより春兄のことの方が心配だったが、今見ると大丈夫そうで安心した。
「僕は大丈夫だよ」
「そうか? お前にまで心配かけるなって雛に怒られてさ」
「アキを巻き込まないでよね。さっさと真兄と話し合って仲直りして!」
「分かったって」
春兄に対してまでお母さんのようになっている。
ある意味雛が最強なのかもしれない。
「……というわけで、真と話がしたいんだけどさ。学校では逃げられたから、ここで待ち伏せさせてくれ」
「うん。分かった」
春兄は何か吹っ切れたようで余裕を感じた。
本当にもう大丈夫かもしれない?
期待感がこみ上げる。
「アキ、きっと大丈夫だよ。先生の見立ては間違いないんだから!」
「先生、って朝に言っていた?」
上機嫌にミルクティーを飲む雛を見ていると不安になった。
こいつは大丈夫なのか?
お札やパワーストーンを買わされていないだろうな!?
「まあ、アキが真兄に勘当されても、代わりに私が面倒みてあげるね」
「いや、それは遠慮する」
「なんでよ!」
「二人で先生のお世話になろう」とか言い出されたら嫌だ。
雛の他に知らないおばさんと三人暮らしとか勘弁して欲しい。
「なあ央。真ほどの器量はないが、雛も結構いい嫁さんになるぞ?」
「へえ」
機械のような相槌を打ち、雛に視線を向けると照れたように微笑んでいた。
まあ、雛が良い嫁になりそうなのは分かるが……。
それよりも僕は春兄の発言が気になった。
こいつも、ということは、兄のことも『嫁』と認識しているということだな?
自分の嫁だと思っているんだな?
それはとても良い認識だ。
ああ、なんか久しぶりに兄達で栄養を貰った気がする。
美味い、やっぱり美味いよ……!
「もう……私は帰るけど、ちゃんと解決してね!」
『雛が良い嫁』についてリアクションしない僕に怒り始めていた雛だったが、家から電話があり帰っていった。
春兄と二人になり、何気ない雑談をしながら兄の帰りを待った。
暫くして空も暗くなり、ご近所から夕飯の良い匂いが漂い始めた頃――。
パタンと、玄関のドアが開く音がしたて、春兄と顔を見合わせた。
兄が帰ってきたようだ。
「……来たな。二人で話をさせてくれるか」
「うん。僕は部屋に戻ってる。絶対仲直りしてよ?」
「ああ。大丈夫だ」
春兄の自信に満ちた笑顔を見て安心しつつ自分の部屋に向かった。
「兄ちゃん……」
玄関の前を通ると、兄が靴を整えて上がってきたところだった。
「おかえり」
「……ただいま。春樹、来ているのか」
「うん、兄ちゃんと話したいって」
伝えた内容に返事もせず、兄はリビングの方に向かおうとしている。
まだ態度は冷たい。
天使の微笑みも未だ行方不明だ。
「兄ちゃん」
堪らなくなって、兄を引き止めた。
「僕、馬鹿だから分かんないけど、何か兄ちゃんに嫌なことしちゃったんだよね」
背中を向けている兄の表情は分からないが、今は立ち止まって耳を傾けてくれている。
「ごめんなさい……」
これから春兄と話をして解決するかもしれないけど、どうしても今謝りたかった。
僕の声は届いていたと思うが、兄はそのまま口を開くことも無くリビングの方に消えた。
許しの言葉を貰えず、またこみ上げてくるものがあったが、春兄を信じて大人しく自分の部屋で解決を待つことにした。
自分部屋に入り、ベッドに横たわる。
今頃二人は話し合いをしているのだろう。
春兄を信じてはいるのだが……気になる。
本当に大丈夫なのだろうか。
雛のよく分からない先生とやらも不安要素だ。
「俺達に良くない狐がとり憑いているから、一緒に御祓いに行こう」とか、言い始めていないだろうか。
『……ッ…………!』
心配していると、下から聞き取れないが荒々しい声が聞こえてきた。
また言い争っているだろうか。
我慢できない……!
心配になって、僕はこっそり様子を見に降りた。
階段の下段の辺りからこっそりリビングを覗くと、中途半端に開けられたドアの隙間から二人の様子が僅かに見えた。
春兄が兄の腕を掴んでいて、兄はそれを振り切ろうとしている。
「お前は、央の方が好きなんだろ!」
話している内容を聞き取ろうと、耳を澄ませたところで兄が叫んだ。
え? …………僕?
何の話だ。
「央のことばかり気にして、風邪の時なんて顔をくっつけていたじゃないか! あんなことしなくても熱なんか測れるだろ!」
風邪の時のおでこtoおでこのことだろうか。
玄関に野菜があったし、帰って来ていた形跡はあった。
気がつかなかったが、兄は見ていたのか。
「大体お前は、前から央のことを可愛がり過ぎだ!」
そうかな……?
可愛がって貰っているとは思うが、それは『兄のついで』みたいなもので、兄がいるから僕も可愛がって貰えるわけで……。
というか……これって……兄の機嫌が悪い原因って、もしかして……!!
僕の予想は確信に変わり始めていたが、兄の話はまだ終わっていない。
「以前、央を見ていると『手中に収めたくなる』とかなんとか言っていたしな」
え、そんなこと言ってたの?
……でもそれって、僕が兄に似てるからな気がするけど。
というかだ……やっぱりこれって、絶対そうじゃないか。
「くっ」
今まで黙って聞いていた春兄が声を出した。
目を凝らしてみると、ニヤリと嬉しそうに笑っていた。
「……何笑ってるんだよ」
「いや、雛の言っていた通りだなと思って」
「は? 雛? 何を……」
「お前、妬いているんだろ?」
そう指摘され、兄の動きは止まった。
固まっていたが、言われた意味が分かったようで焦った様子で口を開いた。
「なっ……ちがっ……!」
「違わない」
春兄は言い切った。
――僕もそう思う。
今思えば、簡単なことだ。
どうして気がつかなかったのか、分からないくらいだ。
間違いない。
兄は春兄が僕を構うから、僕に嫉妬していたのだ。
「妬いている上に、拗ねている」
「そんなこと……」
否定しようと兄が口を開こうとしたが――。
春兄が掴んでいた腕を引っ張り、兄を抱き寄せ……力強く自分の腕の中に閉じ込めた。
こ、ここ……これは……!
自然と僕の体は小刻みに震え出した。
兄は抵抗しようとしているようだが胸に押さえられ、上手く話せなくなっている。
暫く抵抗していたが力を緩めない春兄に負け、大人しくなった。
それを確認して春兄はくすりと笑い、兄の顔を一度確かめ……再び抱きしめた。
「もう分かってんだよ、馬鹿。散々振り回しやがって……」
僕は思った。
あ。これ、死ぬ――。
な、なな……なんということだあ……おおぉ……おおぉ……神よ……急に目の前に花咲き誇る楽園が広がり始めたではないか!!
この! この階段は!! 楽園への階段だったというのかっ!!
これは幻か!?
兄達でBL充出来なくなり、栄養失調ぎみの僕の願望が見せた幻なのか!?
砂漠の蜃気楼だというのか!?
誰か、僕を殴ってくれ!
いや、やっぱり駄目だ。
夢でも幻でもいいからまだこの楽園にいたい!!
ああ……震える……見つかってしまったら楽園への扉は閉じてしまうのに、このパッションを抑えることが出来ない!
駄目だ、死にたい!
栄養過多で死にたい!
殺して!
今すぐ僕を殺して!
騒がないように呼吸を止めているので、本当に死にそうになっている僕には構わず、天使達の語らいは続いている。
危ない、見逃すなんて死ぬ程後悔する。
見ていても死にそうだけど、同じ死ぬなら見て死にたい!
この場の全てをこの邪眼に焼き付けなければ!
「俺は嬉しい。普段感情を表に出さないお前が、こうやって俺のことで周りを巻き込んでいることが」
兄は春兄の腕の中に隠れてしまっているため顔は見えないが、黙って大人しく聞いているのでさぞ照れているのだろう。
うおおぉ、見たい……恥じらう兄の顔が見たいよお!!
そして、永遠に網膜に焼き付けたい!
「でも、央は可哀想だろ」
おっと!?
急に僕の名前が出てきて、見つかったのかと焦った。
「あいつはお前にべったりだからな。お前に冷たくされて随分凹んでたぞ」
春兄、僕のことまで……。
でも、今は僕の話で時間を使うのが勿体無い。
僕のことなど記憶からすこーんと消去してくれて結構だ。
このまま二人で愛を語り合ってくれたらそれでいい。
「あと青桐がうぜえ。俺に妬かせようとしたのか?」
ああ……涙が込み上げてくる。
格好良い……春兄格好良いよぉぉぉ!!
嗚咽を堪えるのに必死だ。
会長の存在は本当に厄介だったが、全ては今この瞬間のためだったのか!
会長、あんた良い仕事したよ。
最高の当て馬だったよ!!
グッジョブ!
いいね! をダダダダダダッと連打してやりたいと思う。
心の中で会長に賛辞と拍手を送っていると、兄が春兄の腕の中から顔を見せ、ボソボソとしゃべりはじめた。
それだけでも……その動きだけでも心臓を抉られそうだ。
可愛い過ぎて辛い、死ぬ。
「ちゃんと話をつけて断ろうとしただけだ」
「ほんとかよ」
顔を赤くして、少し拗ねたような兄の顔がチラリと見えた。
僕はこの瞬間を一生忘れないだろう。
ありがとう、ありがとう!
生きているって素晴らしい!
「ごめん」
再び春兄の胸に顔を埋めて、兄が呟いた。
「お前に振り回されるのも悪くはない。でも、相手は俺だけにしろよ?」
そう言うと春兄は兄の身体を少し離し、頬に触れて上を向かせ……。
二つ見えていたシルエットが、一つに重なった。
「…………」
そこからは、言葉にするのも勿体無い。
「今日、地球が滅んでもいいや……」
二人に聞こえない声で呟いた。
そして気配を消しながらそっと階段を上がり、自分の部屋に戻った。
ベッドに上がり、正座。
枕に顔を押さえつけて、悶えた。
「尊い……」
涙は枕が吸収してくれる。
もう、嗚咽を堪えることもしなくていい。
「そりゃあ掘るわな! 掘るしかないよ! あんな天使、掘ってくれって言っているようなもんだもん! ああ、父さん母さん、兄ちゃんを生んでくれてありがとう。僕を兄ちゃんの弟で生んでくれてありがとう! そして、神様ありがとう!」
ベッドの上をドリルのように転がった。
湧き上がるパッションが留まることを知らない!
「くっそ、殺されるっ! 殺されるっ!」
今日という日を永遠にループしてくれないだろうか。
僕は神に祈りを捧げ、感謝した。
兄という天使を、いや、生き神様を一生崇めます。
※※※
暫くしてなんとか落ち着きを取り戻した。
落ち着いたといってもドリル回転が止まっただけで、顔の筋肉はゆるゆるだ。
思い出してはニヤニヤしていると、『コンコン』と控えめなノックの音が聞こえた。
「央」
ノックをしたのは兄だった。
ドア越しに穏やかな声が聞こえる。
もう冷たさは微塵も感じられない。
それだけでも、じんわりと幸せが込み上げてくる。
「……さっきはごめん。ちゃんと謝りたいんだ。入っていい?」
返事をしてドアを開けると、兄が申し訳なさそうな顔をして立っていた。
僕とも仲直りをしてくれるのか少し不安だったが……大丈夫そうだ。
抱きつきたい衝動に駆られたが、兄の身体は春兄のものなのでグッと堪えて部屋に招き入れた。
ベッドに二人並んで腰掛け、話をする。
「春兄と仲直り出来た?」
「うん。央、ごめんね。央は何も悪くないんだ。謝らなきゃいけないのはオレの方だよ。本当にごめん……」
兄に冷たくされたのは本当に辛かった。
でも、最後にくれたご褒美で、辛いのは全て吹き飛んでしまった。
「平気。兄ちゃんが笑ってくれないのは辛かったけど、もう大丈夫」
「央……」
渇望していた天使の微笑みを浮かべてくれた。
兄の手が伸びてきて、頭を撫でられる。
子供のような扱いをされているが嬉しい。
「央を嫌ったりなんかしてないよ。オレが勝手に妬いていただけだから」
兄が僕に妬くなんておかしなことだ。
今でも信じられない。
黙っていると、兄は穏やかに話し始めた。
「子供の頃からね、央は狡いと思うことがあったんだ。何をやっても愛嬌があって、可愛げがあって、誰からも好かれる。オレには出来ないことだ」
そんなことないと思う。
兄の方が人に好かれるし、僕は兄のようになりたかった。
それを伝えると兄はにっこりと微笑んだ。
「お互い、無い物ねだりなのかな?」
そうなのかもしれないと、僕も笑って返した。
「父さんも母さんも、小さい頃から央ばかりを気にしていたよ。今だって電話がかかってきても、央のことばかり気にしてる」
「それは兄ちゃんはしっかりしていて、心配いらないから……」
「……うん。分かっているよ。『真は大丈夫』って、言われ続けたことだから重々承知してる。自分でもそうあろうと心掛けていたしね。それでも、少し寂しくて……たまには気にかけて欲しいと思ってしまうんだ」
「そうだったんだ……」
小さい頃からなんでも出来て完璧な兄に、そんな思いがあったなんて知らなかった。
僕はずっと兄に甘え過ぎていたのかも……自分が恥ずかしい。
「最近、春樹が央を気に掛けるところが目に付くようになってしまってね。央も春樹には懐いているし。勝手に疎外感を感じていたのかな」
「そんな……僕、春兄より兄ちゃんが好きだよ」
春兄も勿論大好きだが、兄とは比べ物にならない。
兄が不動で永遠の一位だ。
「知ってる」
兄が声を出して笑い始めた。
「オレに冷たくされて泣いていたんだって? ごめんな?」
「泣いてないし!」
それについてはギリギリセーフだ。
二人の尊さには涙したが。
兄にからかわれ、二人でギャーギャーと騒いでしまった。
こういうのも久しぶりで幸せだー……。
「……お前ら、可愛いな」
突如聞こえた声に驚き、声の発信源と思われる部屋の扉に目を向けると、春兄が隙間からこっそりとこちらを覗いていた。
何をしているんだよ……。
「兄ちゃん、春兄がキモイ」
「奇遇だな。オレもそう思う」
春兄をこんなに気持ち悪いと思う日が来るとは――。
兄がいるからだろうけど、デレデレしていてちょっと引く。
「……ねえ、央」
春兄に覗いていないでちゃんと入ってくるように促していると、兄に呼ばれたので顔を向けた。
兄は真剣な顔をして僕を見ていた。
どうしたのだろう。
「もしかして……オレ達のこと、気がついてる?」
「…………え?」
全く予想していなかった質問で一瞬意味が分からなかったが、それは……二人の関係のことを言っているのだろうか。
「えっと、その……」
「おい、真っ」
「央には隠せないと思うよ」
焦っている様子の春兄を諭すと、改めて姿勢を正して僕を見た。
思わず僕も背筋を伸ばし、話し始めようとしている兄に向き合った。
「前に言った『オレ達が付き合ってる』って冗談。あれ、本当だよ」
……とうとうこの時が、カミングアウトを受ける日が来たようだ。
兄は覚悟を決めて話しているのが分かる。
だから僕もちゃんと答えよう。
「うん、知ってる」
春兄は目を見開いて驚いていた。
僕が気づいていたことは予想外だったようだ。
「やっぱり……」
兄の方は予想していたようだ。
兄弟だからお互い分かるということなのだろうか。
「どう思った?」
「どうって?」
いつの間にか兄の表情が不安げなものに変わっていた。
「自分達でいうのもおかしいけど……普通じゃないだろ?」
「でも、春兄が悪い人じゃないのを知っているし、兄ちゃんが決めたことだから別に僕が口を挟むことでもないし……」
「やめて欲しいとは思わないのか?」
「全く」
生きる糧なのに、やめてと思うわけがない。
二人の関係を止めるなんて、自ら心臓をえぐり出して捨てるようなものだ。
「本当に?」
「うん、全っ然」
僕の言葉を聞いてきょとんとしていた二人だったが、やがて目を合わせて微笑み合った。
どうやら安心してくれたようだ。
いいですね、仲睦まじくって。
やっぱり二人はこうでなくちゃ。
カミングアウトしてくれたってことは、これからは兄や春兄の惚気話なんかも聞けるようになるのだろうか。
ワクワクするな……!
そうだ、気になっていたことも聞いてみよう。
「そもそも兄ちゃん達って、関係を隠す気あったの?」
「そりゃあ、もちろん……」
二人の顔は「何故そんな当たり前の聞くのだ」と言いたそうだ。
でも、それにしては詰めが甘かった。
わざと隙を見せて、僕の方から言って欲しいのかなと悩んだくらいだ。
「でも無防備だったでしょ? あんまり警戒してなかったというか……」
「どういうことだ?」
二人とも本当に分からないようで、頭にハテナを浮かべている。
言ってもいいのか迷うが……この際だ!
「その……聞こえたけど………」
「「?」」
まだ伝わらないようだ。
もう、悟って欲しいのだが……。
「だから……そういう時の……『声』とか」
僕が言い終わると、漸く意味が伝わったようで二人に変化が表れた。
春兄は『しまった』という顔をしながら遠くを見た。
兄はみるみる内に顔が真っ赤になり……。
「えっ」
次の瞬間、春兄が後方に吹っ飛んでいた。
兄が思い切り殴り飛ばしていた。
忘れていたが兄もテニス部のエースで、スリムな体型ではあるが腕力はある。
春兄、ご愁傷様です――。
「だから……だから言ったじゃないか! 家ではやめようって!」
吹っ飛んで倒れてしまった身体を起こしながら、春兄は反論する。
「家しかないだろうが! じゃ、じゃあどこで、外でする……ゴッ!!」
今度は起き上がろうとしていたところを踏まれていた。
「喋るな! 死ね!」
「落ち着けっ、まこ……ゴフッ」
ああ、どうしよう。
目の前でDVが……。
怖いので黙って見守るしかない。
「煩い! 落ち着いていられるか! 弟に……弟に聞かれていたんだぞ!?」
そう言うと再び兄がこちらを見た。
僕は引きつった笑みを浮かべた。
すると兄の目に、次第に涙が溜まり始めた。
「お前とは……お前とは絶交だ!」
そう言い残し、兄は走り去っていった。
あーあ……仲直りをしたばかりなのに……。
僕は黙って見送った。
踏み潰され、ボロボロになって床で伸びている春兄の元にしゃがみ込み、話かける。
「春兄、絶交だって」
「はは、可愛いだろ、アイツ」
うん、知ってる。
僕も今、同じことを思っていたし。
「早く追いかけた方がいいんじゃない?」
「起こしてくれ」
「兄ちゃんに妬かれるから嫌」
春兄は舌打ちしながら身体を起こし、兄を追いかけて行った。
少しすると言い争うような声が聞こえてきたが、今度は悲しくなるような怒声ではなく、笑ってしまうような元気な声だった。
思わずにやけてしまう。
良かった。
無事解決だ。
あとで夏緋先輩に電話しておこう。
ちなみに会長と兄のデートは、一応決行されたがその場には春兄が同席した。
結果、デートではなく兄達の仲を見せつけられただけで終わったらしい。
今回、一番辛い思いをしたのは会長かもしれない。