唇に酒瓶を
残酷、というより単なる気持ち悪い描写がありますのでご注意ください。
君の目が怖い。
ダークブラウンの瞳の奥には、底知れない静けさが潜んでいる。放たれる視線は薄く、鋭い。たやすく私を切り刻み背後へと抜けていく。
私は君の目が怖いのだ。怖くて怖くて仕方がないのだ。だからそんな目で私を見ないで欲しい。私を見透かさないで欲しい。
君の目がこちらを見ている。君の目が私を丸裸にしていく。やめてほしい。君に見られる価値なんて私にはないんだ。君の瞳は私には劇薬だ。
ああ、そうかこれは夢か。良い夢は早く醒めてほしい。夢なんて見せないでほしい。夢はいつだって冷めるものじゃないか
さあ、早く目をさまそう。
目を覚ませば腐乱臭がした。そういえば、シンクに牛肉をもう長い間放置している。這うようにして寝床から脱出した。長年私を誘惑し続けている万年床は、なんだかじっとりと肌にまとわりついてくる。誰かが黴と茸を繁殖させていた。私も潮時かもしれない。狭苦しい四畳半が今日は何だか遠かった。畳がお腹に擦れて痛かった。残念ながら擦れる胸はない。悲しいね。
這い蹲ってやっとの思いでシンクの足元までたどり着いたけど、腐乱臭が凄まじかった。空気に混ざった脂と血の臭い。ゲル状の空気は喉の奥に嫌な後味を残して肺にこびりつく。やだやだ。そこから崖をよじ登るように、立ち上がった。腐臭が顔面を殴打する。思わず仰け反りそうだったが、ここで倒れたら後頭部を打ちつけて孤独死である。いくら風呂なし共同トイレの安アパートとはいえ、事故物件にしては申し訳ない。家賃も滞納してるし。
決死の強行軍でようやくたどり着いた先で、シンクをのぞき込んでみれば哀れな肉らしきものがそこにはいた。肉は腐りかけが美味しいというし、まだ救いようがあるんじゃないかと期待した私が馬鹿だった。この臭いに救いようもくそもない。いったいいつから放置していたのだろう。三日前に見たときはまだ原型を留めていたように思う。一週間前にみたときは美味しそうだった気がする。一ヶ月前は赤々としていたはずだ。半年前は活がよかった。その前はよく覚えていない。
腐臭はあまりに濃密で、呼吸をする度に気管がドロドロにとろけた肉のパテで埋められていくようだった。思わず吐いた。もしかすると二日酔いのせいだったかもしれない。どうでもいいことだが。とりあえず吐いた。どうせ胃液しかでてこない。黄色くて苦い液がせり上がってくると、喉に詰まってった憎々しい肉どもはとけて押し流された。かわりにヒリヒリとした突っ張り感と酸っぱい臭いが喉いっぱいに満たされた。開けっ放しの口からは粘っこい液が糸を引いていた。ポタポタと唾液もこぼれていた。シンクの中では肉の粘液と胃液が混ざりあって地獄八十八箇所巡りの様相を呈していた。気持ち悪い。だが残念ながら水道は止められていた。このおぞましいヘドロは流せないのだ。困ったことに。しかしま、胃液でさっきより肉の臭いが弱まったからよしとしよう。もしかしたら分解してくれているのかもしれない、胃液だし。鼻がなれただけだろうけど。しかし口も濯げないとは困ったものだ。水がなければ人は生きてけないのに。人権侵害で訴えてやろうか。納税の義務も勤労の義務も果たしていない私が悪いんだけど。
嘔吐直後特有の息切れが収まってから、あたりを見渡してみた。手頃な位置に飲みかけのアップル・ジャックがあった。三十センチ先、ぎりぎり腕の射程圏内。動くのは億劫だった。指の先で倒さないようにかすらせながらたぐり寄せた。一歩歩いた方が楽だった気はしないでもない。埃がたぶんに浮いている気がするが無視する。どうせ若い安酒だ。それもとびっきりの粗悪品だ。瓶に口を付け一気にあおった。アルコールの焼けるような感覚が心地よかった。体はそうでもないらしく、勝手に噎せた。即席の噴水の完成だった。霧状のアルコールが全身の降り注ぐ。目に入って思わず床を転げ回った。涙が痛みを押し流してくれるまで数十秒、地獄を味わった。ようやく復活すると体も顔も酒でべとべと、埃まみれだった。水が使えないのに、勘弁して欲しい。自業自得なんだけどさ。
アルコールのおかげか腐臭はもう気にならなくなっていた。アルコールのおかげだと思っておこう。立ち上がりタンクトップを見下ろした。残念ながらご臨終していた。アップルジャックのしぶきと埃でコーティングされており、さらにその下には黄色と茶色の斑模様ができていた。少し涙が出た。しかしタンクトップを脱ぎ捨てるかは少し悩んだ。だってこれを脱いだら私はショーツ一枚だった。まるで変態じゃないか。しかし気持ち悪さに耐えかねて結局脱いだ。ついでに裏地の無事そうなところで顔を拭った。
少し寒い。だがこれくらいが心地よい気がする。貧相な体だ。我ながら悲しくなってくる。肋骨が浮き出た体、皮が張り付いた骨格標本みたいだ。もう何日まともに食事をしていないだろう。ここ数日はアップルジャックしか口にした記憶がない。生きているということは最低限は食べていたんだろう。覚えていないけど。倒れてしまったら孤独死することになるんだろうか。そうなったら寂しいんだろうか。別に構わないんだけど。
しかし困った。着替えがなかった。そもそもこの部屋にはなにもなかった。万年床と空の酒瓶と未開封のアップルジャック、それと一張羅のパーカーとジーンズだけだ。だから替えの服なんてなかった。水道が生きてた頃は水で洗っていた。まあ、汗はかかないほうだし、そもそもほとんど出かけないから問題なかった。見られて困る人なんていないし。なにより私にはお金がなかった。それでも何とか生き延びているからよしとしよう。
いやしかし、今は問題だらけだった。一張羅の一部であるタンクトップと水道亡き今、服を買いに行く服がない。いや、裸の上にパーカーなら許されるだろうか。下はジーンズだし。ちょっと色々危ないが何とかなるかもしれない。そこまで考えてから、ふと気づいた。そもそもお金がなかった。さてどうしようか。公園に水道とかあったかな。しかし、裸パーカーでタンクトップ洗うって人としてどうなんだろう。まずい気がする。
考えるのが面倒になって、アップルジャックの封を開けた。安い酒だ。だからこそ渇きは和らいだ。
がちゃり、と鍵が開く音がする。思わず声がもれそうだった。合い鍵を持っているのは世界で一番会いたくない人だ。案の定、というよひ必然的に姿を見せたのは義兄だった。
「うわ、なにこのひどい臭い。肉でも腐らせたの」
どうやらアルコールのおかげではなかったらしい。彼は部屋に入るなり涙目になっていた。そして、とても気持ち悪そうに口を押さえていた。
無理せず吐いてもいいんですよ、義兄さん。何なら回れ右をしておかえりください。そして合い鍵はおいていってください。そうです、それがいいですね。そうしましょう。
そういうと彼は顔をしかめながら、後ろ手に鍵を閉め、ビニール袋をどさりと置いた。
「なにその格好、寒くないの」
心配されてしまった。不甲斐ない。というか私の言葉は無視なんですか。そんなに気持ち悪そうな顔をするくらいなら帰っていいんですよ。というかなんでおもむろにセーターを脱いでるんですか。やめてください、気持ち悪い。
「ほら、これでも着なよ」
差し出されたセーターに私は戸惑った。正直、どうすればいいか解らなかった。すると彼はやれやれといった様子でセーターを頭からかぶせてくれた。ぬくぬくと生ぬるい義兄の感触が気持ちいいようで気持ち悪い。
「風邪引くから、ね」
そういうと彼は部屋にずかずかと上がり、カーテンを開けはなった。変な声が出た。日光が部屋を照らした。とける。やめてください。
「君は吸血鬼か。いやヒッキーか」
じぁあそれでいいですから、なんでもいいですから。とけますとけます。カーテン閉めてください。
「ダメ、空気の入れ換えしないと」
そう言うと彼は無慈悲にも窓を開け放った。みるみるうちに冷たい外気が部屋を汚染していった。なんてことをするんですか。だからセーター着せたんですか。これで許されると思うんですか。ちょっと待ちなさい、私の布団をどうするつもりですか。やめなさい、触るな、持ち上げるな、やめろ干すな、やめてやめてください。
「ダメだ。ノミがわくよ。あと黴も」
余計なお世話だ、という言葉をなんとか飲み込んだ。人に割れると腹が立つが正論である。布団を干すと彼はシンクに向かった。ビニール袋から新品のゴム手袋といくつかの洗剤を取り出し、二リットルのペットボトルを構えた。
「これがなんだったのか考えるのはやめることにするね」
そういうと彼は強酸性の洗剤をたっぷりかけて水で流していく。環境に悪そう。原因は私なんだけどさ。
「水道と電気、あと一応ガスも使えるようにしとくよ」
いいです。結構です。義兄さんの力はかりません。
「あ、水がまだ袋にあるから飲んでいいよ。どうせアップルジャック漬けでしょ」
何度もいいますが余計なお世話です。ですが、勿体無いですから水はいただきます。私はセーターに袖を通して自由を得てから、ビニール袋から二リットルのペットボトルを取り出した。重い。私ってこんなに非力だっただろうか。やっとの思いで口をつけ、傾けた。がちんと歯に重たい衝撃が伝わった。痛い。気がつけばペットボトルが胸にぶつかっていた。むせた。豪快に水が足下へと流れ落ち、遅れてペットボトルが床に落ちた。
「おいおい大丈夫かい」
うるさいです。私にかまわないでください。そう言うと彼はやれやれといった様子で、手袋を外し、袋からタオルを取り出した。そして、私の顔をふいた。それから床をぬぐった。別にいいけど、人の顔をぬぐったタオルで床をふくってどうなんですかね。床をだいたいふき終わってから、彼は溜息を吐いた。
「仕方がないね、布団をしきなおそう。もう少し干していたかったんだけどね。風邪引かれても困るし」
セーターはビッタリと肌に張り付いてた。悲しいことに起伏のないこの体のシルエットがまるわかりだった。布団をしいて、窓を閉めてから彼はセーターを脱がせ、パーカーを着せた。五百ミリリットルの水を取り出して、私の口まで運ぶ。自分で飲めます、と言いたかったが、強引に唇に押しつけられてはそれも言えなかった。押しつけた割にはゆっくりと、恐る恐るといった様子でペットボトルを傾けた。きっとむせないように配慮してくれたんだろう。いらんことを。
「ご飯はちゃんと食べているの」
食べてますよ。ばっちり一日六食。そういうと彼は苦笑しつつ、袋から白い容器を取り出した。
「たこ焼き、冷めても好きでしょ」
嫌いです。私は義兄さんの施しなんて受けません。そう言っているのに、彼は指で摘んでたこ焼きを一つ取り出すと私の口にまた押しつけた。今度は絶対に開かないつもりで、かたく唇を引き締めた。すると、彼は開いている手の人差し指で私の唇をなぞった。そのまま強引に指を口に付き入れてた。つまり、指をつっこまれた。なんてことをするのだ。危ないじゃやい。抗議もまともに言えやしない。噛みついてやろうかと思ったけどやめた。血の味はごめんだ。彼は無遠慮に中指までも突き入れ、歯と舌を優しくなでる。そこから一気に口を広げさせた。すかさずそこへたこ焼きを放り込んだ。私やたこ焼きどころではない。指を四本も入れられているんだから当たり前だ。しかもなかなか指を抜かない。それどころか私の口腔を優しく撫で回しやがった。口から唾液が流れ落ちていくのを感じた。抜け、たこ焼きはもう十分だから。どうせ喋っても言葉は伝わらないだろうが、意図は伝わるはずだ。しばらくして満足したのか指を引き抜いた。私はといえばたこ焼きどころではないが、たこ焼きを咀嚼するしかないのでしていた。彼はなんだか嬉しそうな笑みを作りながら、指ついたソースと、私の唾液を舐めとった。やめてほしい。恥ずかしいじゃないか。もう抵抗しないから、というかふつうに食べさせますから。
「ダメだよ、またやつれてる。僕が食べさせるから大人しくしてなさい」
そういって笑顔でたこ焼きを摘んでいた。つまようじはないんですかつまようじは。あ、ないんですね。もういいです、諦めました。せめて、口に指をいれないでください。なんで少し不満そうなんですか。こんなものを兄妹の触れ合いと言い張るつもりですか。もういいです。好きにしてください。
こんな風に食べさせられると餌付けされている気分だ。いや、動けないから巣で餌をもらう小鳥か。そう言うと、彼は何なら口移ししようかと笑いやがった。殴ってみたが、ぽすんと情けない音を立てた。たこ焼きを食べ終わると、彼はアップルジャックの瓶を取った。そしてまた瓶を近づけ、さっきよりも慎重に傾けてくれた。安くて若い酒だ。私の大好きなお酒の味だ。
「食べられるものと水を置いていくから、少しずつでいいし食べてるんだよ。あと腐らせるんじゃないよ」
余計なお世話です。私は自立していますので。
「あと着替えも近いうちに届けるよ」
だから余計なお世話ですよ。満足したのか言いたいことだけ言って、やりたいことだけやって、義兄は帰るらしかった。迷惑な話である。
ねぇ義兄さん、私のこと好きですか。最後にいつも通り聞いてみる。聞くだけ聞いてみた。
「好きだよ、最愛の義妹だ」
そう彼は笑って帰ったいった。とても薄っぺらい、作り笑顔だった。
私は疲れてしまい、布団に倒れ込んだ。長年連れ添った万年床に体を預けた。ひどく眠かった。ぬかるんだ泥の中に埋没するように意識を失った。
夢を見た。
熱かった。熱くて熱くてどうしようもなかった。万年床がぐしょぐしょになっていった。これ汗なのか。私のどこにそんな水分があるんだろうか。私がとけだしていくようで怖かった。滴が目からこぼれた。これは汗なのか涙なのか、それとも私自身なのか。
「にい、さん」
遠くで誰かの声が聞こえた。まるで私の声のようだった。
「にいさん、にいさん」
誰かが誰かを呼んでいた。一人きりで呼んでいた。
手を伸ばしても何にも触れられない。だから一人で叫んでいた。孤独さは見えないものを見せてくれる。ダークブラウンの冷たい瞳が私を見つめている。いつも通りの夢だ。
でも、今日はなんだか様子が変だ。伸ばした手が何かに触れる。冷たい冷たい手だ。誰かの冷たい手だ。だとすればこれは夢なんだろう。だってこれは義兄さんの手だ。ここにいるはずのない義兄の手だ。
なんて甘い猛毒のような夢なんだろう。これ以上の悪夢なんてない。私がとけてどろどろになってしまう。私がどこかにいってしまう。
だけど、これはもういいんじゃないかな。だって夢なら、どうなったっていいじゃないか。もう我慢しなくだっていいじゃないか。どうせ夢なんだ。夢の中でくらい夢を見させてください。
ねぇ義兄さん、助けてください。あなたは解っていたんでしょう。ねぇ助けてくださいよ。あなたしかいないんです。あなたじゃないとダメなんです。全て知っていたんでしょう。
答えるかのように。冷たい手がゆっくりと私を抱きしめてくれる。だから、もう我慢しなくていいんだよね。夢なんだから別にいいよね。
このままずっと二人でいよう。二人で一緒にいようよ。二人でどろどろにとけてしまおう。どろどろになって一つになってしまおう。
だから、とけるようなキスをしよう。
センター試験まで一週間切ってんのに何やってんでしょね。勉強します。