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深遠に在る呟き  作者: 望月あさら
■ 1 ■
9/42

1-7

 その日、真士は夕方になってから家に帰った。

 それまでは家屋敷で瞳子が焼いたケーキの残りがあるというので暫らく彼女とお茶をして、くだらない話で数時間過ごしていた。

 『三大陸世界』から『六大陸世界』に真士は一人で戻ってきていた。哲平は集まりの後、真っすぐ、実にうれしそうに、両親の待つ実家に帰っていったのだ。多分今日明日ぐらいは向こうに泊まってくるのだろう。

 真士は、哲平の六大での保護者である彼の伯父への連絡を頼まれていた。そのための電話をし、用件を伝えると、真士は受話器をゆっくりとおく。

 すると一人しかいない2DKのアパートに静寂が訪れる。ぐるっと電話のあるダイニングから家の中を見渡す。

 洗濯物は帰ってからすぐに取り込んだ。今日使った水着とバスタオルは洗濯機に放りこんだ。そのあと部屋に掃除機をかけた。夕飯用の米も洗って炊飯器にセットした。そして今、頼まれていた伝言も伝え終えた。

 さて、何か他にしておくことがあっただろうか。

 視線を走らせる。ベランダは南西向き。そこから、真っ赤な陽射しが差し込んできている。照らしだされているのは真士の勉強机だ。その脇には隅がもうボロボロの、グレイ基調の学生カバン。

 真士はそれに寄っていく。手を伸ばし、バッグを持ち上げ中をのぞくと、何冊かの問題集とノートを取り出した。

 各教科からそれぞれに出された夏休みの宿題という奴だ。ぱらぱらとめくって範囲を確認する。できるかぎり早めにやるにこしたことはないが、やる気は到底起こりそうにもない。

 ぱたん、と閉じてため息をついた。

 ポテトサラダでも作るかな、と思い立ち、机から離れる。

 料理はもっぱら母親の仕事である。真士はとりあえず洗濯や掃除やその他、家の中のことをこなすことができるのだが、料理だけは別だった。やる気がないとかいうわけではない。「料理だけは私の領分だから」と、母親がその一線だけは譲ろうとしないのである。

 それは、真士が幼い頃、父親を亡くして以来ずっと言われ続けられたことだ。

 だから本当は真士はキッチンに立ちたくなかった。それ以外の家事は全て請け負ってもいいと思うのだが、料理だけはあまりしたくはなかった。そうすると、母親のプライドを深く傷つけるような気がしてならないからだ。

 しかし、今となっては真士も成長期真っ盛りの食べ盛りである。仕事で帰りの時間が定まらない母親を待っていることもできなくなってくる。

 そんな時に作るのがポテトサラダである。これだけは母親に伝授してもらったものだった。小学校の頃、家庭科の調理実習でポテトサラダを作ったのだが、真士の班はなぜかうまくいかず、それを母親に話したところ、おいしいポテトサラダの作り方を教えてくれたのだ。

 そのため、これだけは堂々と作れた。他にも真士は母親のいないところでキッチンに立ち、卵料理とチャーハン、スパゲッティー類はそこそこ作ることができるのではあるが。

 冷蔵庫とキッチン台のあいだに置かれているカゴの中からじゃがいも二つとにんじん一本を取り出す。冷蔵庫の野菜室からはきゅうりを一本。少し黄ばんできたまな板の隣に並べると、じゃがいもを一つずつ水で洗い始める。包丁を手にし、ゆっくりと皮をむいていく。かなりポテトサラダは作っていると真士は思っているのだが、未だこの皮むきだけは慣れなかった。どうしてもすぐに皮はむけない。その代わり、じゃがいもの芽を取る作業は早くなった。はじめは包丁の角を使うということがよく分からなかったのだが、これは回数をこなしていくうちに要領を得たのだ。

 時間の感覚を失うぐらい必死になって真士はじゃが芋二つの皮をむきおえた。一度息を抜くと今度は一つずつまな板の上で切っていこうとする。

 その時に、玄関で鍵の開く音がした。

 包丁を動かす手を休め、真士は背後にある壁掛時計に視線を向ける。

 午後六時五十分。まだ外はいくらか明るい。

 玄関からは足音とビニールが擦れる音。

 少し待つだけで、その人は真士に顔を見せた。

「ただいまー」

 小柄の細身で朗らかな笑顔の女性。目尻と口元のしわが少々目立つが、まだその風貌からは若さがみなぎっている。

「お帰り。今日は早いんだな」

 真士は彼女――母親にそう声をかけた。今はこのアパートで二人暮しである。

「うん。今日は定時に引き上げてきたから。何? またポテトサラダ作ってたの?」

「うん。あ、でもお腹空いたの我慢できなかったからじゃなくて、今日はただ単に暇つぶし」

 それは事実だった。今日は家屋敷で瞳子のケーキをご馳走になっているため、そこまでお腹は空いていないのだ。だから、真士は母親に言う。

「だから、そんなに夕飯、急がなくてもいいよ。もう少し俺、ここ占領してると思うし」

「あらそう? じゃあお言葉に甘えて」

 スーパーで買ってきたものをビニール袋の中から冷蔵庫に手早く移し替えて、母親は自分の部屋に入っていく。多分、着替えているのだ。

「あ、真士。お米洗った?」

 部屋の方から聞こえてくる声。

「うん。ちゃんとやってあるよ」

「そう。ありがと。洗濯物もありがとね。あら、掃除もちゃんとしてくれたんだー」

 「うん、偉い偉い」と呟いているのが耳に届く。

 真士が今度はにんじんのかたさと格闘している間に、母親は洗濯物を洗面所に持っていったようだ。そっちの方から次の声は聞こえてくる。

「今日部活いったの? どう? うまくやっていけそう?」

 洗濯機の中の水着を見てのことだろう。真士はにんじんを睨み付けながら答える。

「んー、全然うまくやっていけそうにもない。駄目だよ、あいつら。絶対俺に恨みあるよ」

「何? 恨まれることでもしたの?」

「覚えはないんだけどな」

「全然ないの?」

「全然」

「本当に全くないの?」

「……本当に全く」

「信じていいのね?」

「…………」

「信じるわよ」

 真横で言い切られた。顔を上げたときにはもう彼女はテレビに意識を向けている。食卓の上のリモコンに手をかけ、テレビの電源を入れるのだ。回すチャンネルはNHK。

「…………」

 いつもの母親である。できぱきと何でもこなしてしまう母親。その小さな体の中にどうしてそれほどの活力があるのかと不思議に思えてしまうぐらい、バイタリティにあふれた母親。

 真士は母親の背中を見て育った。父親の記憶がない分、母親が真士にとって全てだった。

 けれど、その母親も真士の父親が――彼女の夫が事故でなくなったときは、何日も泣き続けたのだという。

「そういえばさ、真士。あなた夏休み、何か予定あるの?」

 突然、尋ねられた。いや違う。突然でも何でもない。毎年真士と母親は夏のお盆には母方の実家に行っている。その帰省を今年はいつにするのか、もう決めなくてはならない。そのためだ。

 真士はまな板に向かったまま母親を振り返ることができない。だから包丁を置き、音をたてないように深呼吸をし、意を決して口を開くのだ。

「今年は、夏休みかけて三大で修行の旅があるんだ」

「…………」

 母親は三大の存在を知っていた。真士が今どういう立場にいるか、それもあやふやながら分かっていた。彼女の実家の祖先は、その昔に三大から六大にやってきた『精霊使い』と『浄化者』なのだ。そのため、現在彼女の親戚に真士以外誰一人その力を持つ人がいなくても、彼女を始め家の血をひく者は言い伝えとして三大のことを聞き知っているのである。ただ、その力を持つ者が真士以前に現われたのがこれまた百年近く前のことなので、ほとんど話は伝説化されていて、誰一人として実感を得ている者がいないのではあるが。

 それは、真士の母親にしても然り。彼女は真士が『精霊使い』、『浄化者』として行動することを容認してはいるが、同時に得体の知れないものに息子を取られるのではないかと不安がってもいる。

 そしてまたそれに、息子の真士は薄々感づいているのである。

「……だから、今年の夏はずっと家を空けるけど……いいか?」

 恐る恐る声を出していた。

 淡々としたニュースキャスターの声だけが部屋に広がる。

「ねえ、真士」

 母親の、声。

「その旅から無事帰ってきた時さ、鯛とステーキと、どっちがいい?」

 番組が変わる。

 明るいタイトルコールが聞こえてくる。

 振りかえると、そこにはいつもと変わらない、小さな母親の背中。

 真士はゆっくりと口を開く。

「――鯛、かな」


 

 その三日後、真士は旅立った。


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