3-7
「『炎の精霊』っ!」
ごおうう、と紅蓮の炎が目の前にいる女性の全身を覆った。しかし、その身が、その身のまとう衣が、彼女が手にしている鋤が燃えることはない。まだ若い彼女は、炎をまといつつ両眼で怪しい光をきらめかせ、鋤を片手で振り上げるのだ。
ガッッ
頭上に叩き下ろされようとしたそれを哲平は剣で防いだ。途端、両腕を衝撃が貫いていく。骨が悲鳴をあげている。
「『炎』っ」
食いしばる歯の間から言葉を発した。彼女の目の前で青白い火が一瞬燃えた。それが隙を作った。
鋤を押し返し、哲平は少し彼女から間を取った。体勢を建てなおし、もう一度向かおうと彼女に目をやる。とっくに身を覆っていた炎は四散している。
「!」
だが、哲平が動くより早く左からは髭の男が迫ってきた。彼は両手で大きな鍬を振りかざし走り込んでくる。
「『炎』ぉっ!」
彼の身をもまた炎は包み込んだが、突進してくる勢いは止まらない。
とっさに身体を捻った。左袖が切られ布片が風に舞った。と同時に哲平は地面を蹴る。飛び上がる。宙でもう一度体に捻りを加えると左手を地につきながら着地する。
目の前からは若い男。やはり鍬を手にやってくる。
「ちっ……!」
顔の真正面。銀の剣で鍬を受けとめた。
鍬は木でできている。その上、その鍬は腐りかけてすらいる。なのに硬い金属製の剣は鍬を両断することも粉砕することもかなわないでいた。
それはこの鍬に限ったことではない。哲平に向かってくる女の持つ鋤も髭の男が持つ鍬も同じである。それらの人間の中に入り込んだ『魔』の力が、彼らの手にする単なる物質にも影響を及ぼし、本来ありえないほど強靭な武器にしたてあげているのだ。
だから今の哲平の力では剣でそれらの凶器を壊すことも、ましてや彼らの纏う衣をも『精霊』の炎で燃やすことも出来はしないのだ。
「……ンにゃろッ……」
強引に鍬を押し返した。若い男はバランスを崩すが、哲平に休む暇を与える事無く右からは女が襲ってきていた。その鋤を片手に剣を持ち、勢いをつけて薙ぎ払う。女性が地に倒れこむ。そして次に髭の男が鍬を大きく振りかざした。
その瞬間を哲平は見逃さなかった。
全身に力を入れると、鍬が振り降ろされる一瞬先に後ろへ大きく宙返りをするのだ。それを三度繰り返し、哲平は両足で立ち上がる。三人の『魔』から距離を取った所で改めて剣を構えなおす。宿った先はそれぞれに違うが、同等の力を持っている彼らを目の前に見据える。
「……全くっ……」
息が完全に上がり切っていた。肩を大きく上下しなければ呼吸は追い付かない。またそれが貴重な体力を消耗させていくのだということも頭の隅の方で分かっていた。
三人の『魔』に対し、哲平の攻撃はことごとくかわされていた。否、哲平は彼らの攻撃を防ぐことに手一杯でほとんど攻めてなどいないと言ったほうがより正しいか。
三人の『魔』を一手に引き受けてからややもしないほどに哲平にはどうすればいいのか分からなくなってしまっていた。一人だけでも充分てこずったはずの相手だ。なのに、それが三人。一人ずつならまだしも、三人同時に来られたらどう対処しろというのか。
「……頭使う戦い方は性にあわねぇんだよなぁ……」
小さく愚痴ってみても、だからといって解決策が降って沸いてくるわけでもない。
とりあえず、頭にあるのは時間稼ぎという言葉だけ。他の所で一人の『魔』を相手にしているはずの真士の応援をひたすら待っているのである。
剣の柄を両手で握り直した。手のひらは汗ばんでいるがその汗を拭っている暇はない。じりじりと両足のスタンスをより広げながらも、哲平の両眼は『魔』をぎっと睨み付けている。
狂気に溢れた彼らの眼差し。息遣い。
指先に力をこめる。
「『炎』ぉっ!」
叫ぶと哲平は地を駆った。目掛けるのは真正面にいる髭の男。
その左の若い男と右の若い女には炎が襲いかかっていた。
一瞬だ。
炎が両脇の二人の動きを封じていられるのは、ほんの一瞬だけだ。
その間に哲平は髭の男に致命傷を追わせなければならない。
正面から走り込んだ。銀の剣を斜めに倒し、彼の肩に刃を食い込ませようとする。
剣を振りかざす。
男も鍬を振り上げる。
その攻撃を右に避けようとした。寸での所で鍬の先は哲平の左上腕を掠めていく。
鮮血が飛び散った。
かといってここで怯みはしない。
哲平はそれでも自分の体勢を保ったまま、剣を肩に叩きつけるのだ。
硬質な音。
「『浄化』!」
が、
「――――!」
哲平の右脇腹に衝撃が走った。
女の持つ鋤が食い込んでいた。
勢い飛ばされる。
背中を地面に強く打つ。けれどそれより明瞭に痛覚を感じるのは右脇腹だ。
左手を添え地の上に蹲るしかなかった。しかもその左手には血がついていた。上腕部から流れ落ちてきたものだ。出血も決して少なくはない。
「――この……」
ゆっくりとなぶるように歩み寄ってくる三人の『魔』。髭の男もしっかりとした足取りである。全く哲平の『浄化』が効かなかったということなのか。
「――こ、ンの……」
悪態も満足に口をついて出てこない。
脳に響くのは自分の呼吸音だけ。
全身の感覚が痛みのために麻痺していくようだった。右脇腹の衝撃の影響で右手がどこにあるのか分からない。その手のひらが、指が、剣をつかんでいるのか、認識は定かではない。
ただ、あるはずだった。放した覚えはなかった。だから、自分は剣を持っているはずだった。
ゆっくりと身体に力をこめていく。
しっかり『魔』の姿を目でとらえながら、徐々に体を起こしていく。
このままではやられる。
それが分かったから、もう満足に動けないとしても立ち上がろうとする。もう一度、剣を握り締めようとする。
三人の『魔』。
人間の物ではないその表情を見据える。
片手で刃を向ける。
途端、脅威を認識して走り込んでくる、『魔』。
哲平は動けない。
「『水の精霊』!」
突然、ごおううと哲平の目の前で水が唸っていた。水は渦を巻いて『魔』たちを足止めしている。
「哲平、大丈夫かっ?」
後ろから声がした。振り返ると真士が駆け寄ってきている。間に合ったのだ。
「おっせーんだよ……っ」
もっと言葉をはきたかったがこれだけで精一杯だった。脇腹に激痛が走る。
「生意気なこというな。こっちだって精一杯だ。俺の状況、見てからもの言えよな」
確かに、哲平の左側に立ち、剣をかまえる真士の姿も痛々しかった。薄手の服は所々焼けただれ、肌が現わな顔や腕や足には生々しい青痣がある。出血はしていないものの、息のあがり方と汗の吹き出し様からしても体力を相当消耗していることは手に取るように分かった。必死で戦って、精一杯戦って、その上で哲平の援護に駆けつけたのだろう。
「……『浄化』は?」
真士の参入にあからさまな戸惑いを見せ、動きだそうとしない『魔』に目を向けつつも哲平は口を開いた。
「もちろん終わっている」
きっぱりと真士は言い放っていた。『浄化』し終わっていなかったらここに来ているはずがないと言わんばかりに。
「にしても、二対三か。しかもこっちは手負いだしな。完全不利じゃねぇかよ」
真士は隣で呟いている。いつもなら哲平もそれに何か言葉を返すが、今はその気力すらない。ただ、真士がどのようなこたえをはじき出すのか、その結果を待つだけである。
「――哲平。お前、一人相手ならなんとかなるか?」
ほんの数秒後、真士は改めて言葉を発していた。
目の前の『魔』たちはやっと状況を把握し受け入れたのか、徐々に動きを再開しつつある。
哲平は声を恐る恐る出していた。
「なんとかしてやる」
「じゃあ、一人相手を選べ。後の二人は俺が食い止める。いいか? 俺に期待をするなよ。食い止めるだけだ」
ちらりと真士の顔を見てやった。
いつもの強気の発言とは違うものに不審を感じた。
その視線に真士も気が付いたらしい。再び彼は言い放つ。
「それが俺の限界なんだよ」
応える代わりに哲平は首を縦に振った。
それが合図だった。
二人は『魔』がはっきりとした動きを見せる前に動いたのだ。
哲平が選んだのは左端にいた若い男だった。なんとか両手で剣を握り締め、向かう。
「『炎』!」
『炎の精霊』で牽制をかけつつ、走り込む。 鍬が剣の行く手を阻んだ。
ぶつかり合う衝撃は全身を駆け抜けていく。やはり、右腕に力は入らない。かといって左腕も万全ではない。だから哲平は上半身の体重をも剣に乗せるのだ。
「『炎』!」
もう一度『精霊』を呼ぶ。
自分と『魔』の顔の間に赤い火が立ち上がった。それはゆっくりと『魔』の頭から体に沿って広がっていく。じりじりと『魔』の力を削ぎ落していこうとする。
哲平は鍬を押さえ込み、耐えた。炎が全身を覆うのを待っていた。纏った炎を一瞬にして振り払ってしまう『魔』だとしても、徐々に体を――つまりは『魔』の力を燃やしていく炎なら効果が充分に期待できるからだ。
自らの身に降り掛かる危機に『魔』は気が付いたのか、なんとしてでも剣を鍬で押し返そうとしてきた。哲平を薙ぎ払おうとする。
だが哲平はそれをさせない。じっと全身の力をこめ、耐えるのだ。
「させねぇ……っ」
その時、右の方で声がした。悲鳴に近い。
はっとして目を向けた。二人の『魔』を相手にしていた真士が、立っていたと思われる場所から裕に二メートルはとばされていたのだ。地に全身を叩きつけていたのだ。
「真士!?」
途端、哲平も弾かれる。
剣が鍬に押し返された。じりじりと『魔』を焼いていた炎も一瞬にして飛び散った。
咄嗟に哲平は『魔』に襲いかかる。また同じ形をとろうとする。
しかしそれより早く、彼の目には二人の『魔』が飛び込んできた。まだ地面に仰向けで横たわっている真士に容赦なく攻撃を加えようとしている。
真士は動かない。
「真士っ!」
「『風の精霊』!」
哲平の叫びと重なった声。それと共に風が起こった。真士に向かう二人の『魔』がそれに薙ぎ払われていた。
「ゾフィー、気を抜くな!」
視線を走らせる。若い男の『魔』が鍬を振りかざしていた。
「――――!」
ぎりぎりの所でかわした。それと同時に剣の腹を彼の胸にあてがう。声を上げる。
「『浄化』!」
男が悶える。『魔』の力が削ぎ落されていく。
しかしそれは完全には成されなかった。完全に『浄化』する前に『魔』は男の体から抜け出すことに成功したのだ。
哲平の力不足だ。本来楽にやってのけられる『浄化』だが体力の消耗のせいで完全にすることが叶わなかったのだ。
哲平はその『魔』を追うことをしなかった。否、出来なかった。
『魔』を追おうと振り返った瞬間、目に飛び込んできた情景に意識を奪われたからだ。
「――リオン」
彼は地に横たわる真士をかばうように立っていた。二人の『魔』はリオンを真士より、哲平よりも脅威と認識し、襲いかかって行く。
二人ほぼ同時に鍬と鋤を振りかざしていた。真正面からリオンに向かっていっていた。
それに対し、リオンは静かに口から声を発するのだ。
「『風の精霊』」
風が渦を巻いていた。地面の砂を巻き上げていた。そして、二人の『魔』をも宙に浮かしていた。
ふっと風は止む。『魔』が諸共に離れた地に体を叩きつける。
リオンは翔んだ。
空中で、リオンの右手の平には剣が現われてきていた。体内から剣は出てきていた。
そして着地と同時にリオンは剣を手にしていた。すかさずそれを髭の男の胸にあてがい、
「『浄化』!」
一瞬だった。男の体がびくんと震えると同時に『魔』の気配は消え去っていた。
その間に女は立ち上がっていた。勢い良くリオンに体をぶつけてくる。それにリオンは負けなかった。両腕で顔をかばいつつも、当たって来る『魔』を逆に弾いてさえいた。
女はとっさに背後に宙返りをする。リオンと距離を取り、体勢を整えようとする。
リオンはそれをわざわざ追おうとはしない。その距離を容認するのだ。代わりにリオンも改めて片手で剣をかまえた。女の出方をじっとうかがった。一触即発の雰囲気が漂った。
そんな中、女が先に動いた、はずだった。
リオンも体に力をこめた、はずだった。
しかし、
「『魔』よ、去れ!」
凛とした声がその空間に響いたのだ。
哲平もリオンも、頭をもたげて様子をうかがっていた真士も、そして『魔』も、その声の主を見た。
そこにいたのは、馬にまたがった青年だった。この辺りにならどこにでもいるような風貌の男。漆黒の髪は短く、肌は黒く焼けている。
だが、髪と同色の眼は違った。威厳、とでも言うのだろうか。そのようなものがそこからは醸し出されていたのだ。
「もう一度言う。『魔』よ、去るがいい。さもなければ、この俺が相手になってやる。それとも、この俺と戦いたいというのか?」
「――――」
『魔』は、去った。
哲平が『浄化』しそこねた残骸も、他の人間に取りついていた『魔』も、その辺りに漂っていた『魔』も、一瞬にして、去った。
哲平も真士も、リオンですらこの結末に呆気に取られた。ただじっと、馬にまたがってやってきた男を見つめるのだ。
不気味な静寂に覆われていた集落に人の気配がしはじめた。彼らはゆっくりと哲平たちの所に集まってくる。そして口々に唱えるのだ。
「ダルナさん」
「ダルナさん」
「ダルナさん」
「ダルナさん」
彼――ダルナは馬から降りた。途端、歓声があがる。ダルナを讃える声が沸き上がってくる。
「――ダルナ……?」
「被害状況を教えてくれ」
近くにいた集落の人間にダルナは声をかけていた。するとすぐに応えは帰ってくる。
「奇跡だ! 死者はいない!」
「……!?」
死者が、いない?
人々はダルナのおかげと叫んだ。哲平と真士とリオンの目の前で、たった一人のダルナという人物を讃える。彼の功績だと叫ぶ。
「…………」
真士に目をやった。口を半開きにし、眼は見開かれている。リオンに目をやった。いつもより厳しい表情でダルナの動向を追っている。そして哲平もまた、不信感を抱き、ダルナを見る。
「ダルナさん、ありがとう」
ダルナという一人の男の前に、三人の『浄化者』は言葉をなくした。