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今日は、気持ちのいい日だ。
今日は、陽が海から頭を見せると共に宿を出た。宿といっても昨夕出会った者の家のことである。彼自身、市の用意をもうすませ出るだけだったので、それと共に出立し、まだ朝の早い頃、ダルナは自分の集落に着いていた。
ダルナの集落は市の開かれているところから少し離れたところにあった。それに加え、この集落では共同の畑で農作物を作っているのであるが、一人でも欠けると仲間の負担が増えてしまうために、市に行こうなどという者はほとんどと言っていい程いなかった。
「あ、ダルナが帰ってきた」
「ダルナだ!」
「ダルナだぁっ」
「ダルナが帰ってきたぁ!」
集落に戻ったダルナを最初に見付けたのはまだ幼い子供たちであった。彼ら十人ほどは口々にその名を呼び、ダルナの元に集まってくる。
「お帰り、ダルナ!」
「ダルナぁ、船どうだった? 大きかった?」
「油買ってきたんだよね。ね、ダルナっ」
「ねえ、これは何? こんなにたくさんのくだもの、どうしたの?」
次々に子供たちは笑顔を向けてくれていた。そこに全く邪気はない。その清々しさにダルナも思わず微笑んでしまう。
「向こうで世話になった人が土産にとくれたんだよ。さあ、みんなにこの果物と油を配りたいから、誰か大人たちを呼んできてくれないかな?」
やわらかい声を発していた。
子供たちは口々に自分が行くと叫んでぱっと散っていく。畑や家にいる大人たちを呼んできてくれるのだろう。
この集落には四十戸あまりの家があった。人は全部で百数人といったところだ。もちろん全員顔見知りである。今の子供たちのこともダルナはよく知っていた。特に子供たちは、暇さえあればダルナにくっついて歩いていた。誰が一番ダルナと仲がいいかで喧嘩が起こったことすらある。
みんな素直でかわいい子達であった。いつもあの子たちが元気に自分の周りを飛び跳ねている時が何より幸せを感じる時であった。笑顔でいてくれることが何より嬉しかった。
平和な日々を送ってほしいと思っていた。いつまでも幸せを感じながら生きてほしいと思っていた。
ここはそれを可能にしてくれる集落なのだ。ダルナはそれをよく知っているから。だから、そう願うのである。
「ダルナ」
目の前の木の影から現われたのは一人の老人であった。頭髪は薄く、以前黒かった色は抜けきり、腰も曲がり、杖をつき、それでも隣に支えてくる人がいないと歩くことすらままならない人。例に違わず、傍らではまだ若い彼の孫娘がその手を引いていた。老人――この集落だけではなく、このジグールという町の誰からも信頼されている長老は、彼女をともなってゆっくりとダルナの方に歩み寄ってきていた。
ダルナは動かず、肩から下げていたたくさんの果物の入っている袋を地面に下ろすと、一つの皮の袋を両手に持った。中には油が入っている。
そばまでやってくる長老にダルナは軽く頭を下げる。
「ただ今戻りました、長老」
恭しくあいさつをする。この町にいてこのように対する相手はこの長老ただ一人である。
「お帰り、ダルナ。船はいつ着いたのだ?」
しがれきった声であった。ややもすると、とても聞き取れないものだ。実際、もうすでにその言葉を充分に聞き取れない者は何人もいる。だがダルナには全ての言葉を聞き取ることが出来ていた。
「昨日の夕暮時です」
「そうか。それは苦労をかけたな」
「いえ。それほど苦労はしていません。昨晩も向こうで知り合った人に宿を世話してもらい、その上土産までもらってしまいました。ああ、油もその人が工面してくれたおかげで予定より上質の物が手に入ったんですよ」
「そうか。それはよかった」
「私の留守中、何かかわったことはありませんでしたか?」
「何も……いや、そういえば、一つ……」
「え? 一体何が?」
「悪い話ではないよ」
しわの深く刻まれた顔が微笑んだ。彼はそれ以上言葉を紡ごうとはしない。その代わりに彼の背後からは続々と油壷を手にした集落の大人たちがやってくる。
その中の一人がダルナの目についた。黒い頭髪に何本かの白髪が目立つようになってきた女性。彼女だけは油壷の代わりにやわらかな布で巻かれたものをその両腕に抱えダルナに近付いてきていた。
他の大人たちも、また、子供たちも、彼女の行く手を遮ろうとは決してしない。むしろ、彼女をダルナの元へと誘っている。
「昨夜産まれた。男の子だよ」
彼女の、この集落の産婆の両腕の中を覗き込む。
まだこの世に生を受けていくばくも経たない小さな赤子がそこでは眠っていた。ノーラという女性が臨月を迎えていた。その子だということは聞かずとも分かった。
「ノーラは?」
「ああ。大丈夫だ。今はまだ休んでいる。旦那はそれに付き添っている。後で寄っていってやってくれ。さあ、それよりダルナ。今はこの子に祝福を頼むよ」
産婆はそう言うと、少し両腕を掲げてみせる。少しでもダルナに赤子を近付けようとする。
ダルナはそんな赤子の頭部に片手をそっと当てた。そして両目を閉じると口の中で呟くのだ。
「この子に『精霊』の守護があらんことを。この子に『精霊』の祝福があらんことを」
唱えおわると共に集まった人からは歓声があがっていた。皆は口々に祝いの言葉をその赤子にかけるのだ。
「良かったな。これでお前は『魔』の恐怖にさらされる事無く健やかに育っていける」
「『精霊』がいつでもあなたを見守っていてくれるわ」
「『精霊』のご加護を受けることが出来るわ」
「幸せな生涯を生きていけるな」
このような風習になったのはいつからだろう。少なくとも、ダルナが子供の頃にはなかったものだ。そしてまた、この集落にだけあるものだ。
この集落で子供が生まれたら、その子にダルナが祝福を与えるという風習は……なぜ定着してしまったのだろう。
赤子は産婆に抱かれ、人々からの祝いの言葉をその身に受け、ゆっくりと去っていく。
それを見送ってから、ダルナは気持ちを切り替えて油を皆に分け与えようとした。
その時に、ダルナの背後から一頭の馬が駆けてきた。馬上には一人の少年。彼の顔から血の気は失せており、彼はダルナの姿をその両眼に入れると馬から飛び降りた。ダルナの足元に跪き、震える声で叫んだのだ。
「お、俺の集落に『魔』が……っ!」
瞬時、ダルナの表情は変わる。
すっと鋭い眼差しを長老に走らせる。
「行くがいい」
その言葉に会釈で応えた。手にしていた油の袋を近くの女性に預けるとダルナは少年の乗ってきた馬に近寄っていく。その体に手を添え宥めると、ひらりと飛び乗り、手綱を手に馬を走らせていくのだ。