3-3
「あっさー!」
ばんっっ、と扉は唐突に開かれた。
思わず何事かと、かたいベッドの上、飛び起きる。
だんだん朝の光に目が慣れてくると、目前に迫ってくる顔があることを知った。
無理に頭と腕を叩き起こして、とっさに繰り出すのは、
ばこっっ。
見事なパンチ。
「――いいかげんにしろ」
「真士ちゃん、いったーい」
そんな甘えた声を出されても許しはしない。何が楽しくて、一日のド初っ端に哲平のドアップを見なければならないのか。
「……だからって、俺の美しい顔にこぶしをめりこませなくても……」
「だったらこういうことはもうやめろ」
過去にも同じようなことが幾度となくあったのだ。弾みでキスをされたことすらある。だから真士にとっては笑えない冗談だ。哲平があっけらかんとしていつも笑い飛ばしてくれるから、余計に釈然としない。
「で、何なんだよ、朝っぱらから」
今日の哲平も例外ではなかった。パンチを入れられた右頬に手を添えつつも、全く邪気のない笑顔を作り出してくれる。
「あのさー、すげーんだぜ。きのう食事屋で会った兄ちゃん達が言っていたとおりっ。真士ほらっ。見てみろよっ」
哲平と二人一部屋で真士は休んでいた。その哲平が寝ていたベッド脇にある小さな窓に近寄っていくと、彼は勢い良く開け放つ。
昇ったばかりと思われる陽の光が目に飛び込んできた。それと同時に、人々の声。
両目を何度もしばたたきながら真士はベッドを抜け出た。窓の下を見る哲平に並ぶ。
「なー。元気いいだろー」
二人の部屋は宿屋の二階である。窓のある方にはちょうどこの集落の主要な道が走っていて、部屋からはその道の様子を見下ろすことが出来た。
真士は昨日の夕暮にこの街についたばかりである。だから普段のこの道の様子など知りはしないが、確かに哲平の言うとおり、とても活気に溢れているような気がする。
道をゆく人々が、老若男女問わず明るい顔をしているのだ。とても昨晩話に聞いたように、謎の疫病と『魔』の脅威に怯えている町だとは思えない。この明るさの全てが開かれる市のせいではないだろう。やはりもとより、それほど怯えながら暮らしているわけではないということか。
「海岸の方らしいな、市が開かれるの。みんな同じ方に歩いていくから。あ、はあい。おねーさん。おはようございまーす」
もちろん、台詞の後半部分は真士に向かって言われたものではない。道を行く女性が一人、真士と哲平の姿を目に止めたのだ。
哲平がこれほど嬉しそうに声をかけるから、……美人ではある。彼女は微笑むと皆と同じ方向に歩いていく。
「昨日も港について思ったことなんだけどさ、この町の女の人って美人が多いと思わない? ちょっと全体的にぽっちゃりしているんだけど、目はぱっちりしてるしさ」
「はん……」
気のない返事を返してみたが、言われてみれば確かにそうかもしれない。肌も決してきれいとは言いがたいが、醸し出す雰囲気が悪くない。しかし哲平はともかく真士にしてみればそんなことはわざわざ気に留めるような大したことではなかった。町の女がきれいであったとしてもなかったとしても、仕事の内容にかわりはないのだから。以前に一度、同じようなことを哲平に言った覚えがある。その時哲平には、「えー、でも周りの人がきれいだったらそれだけでも気分いいじゃないか」と言われたが、真士にはその神経が分からなかった。根本的に真士と哲平の女のとらえ方が違うのだ。
「ということでだ。真士。朝ご飯を食べにいくぞ」
突然告げられた。
目を真ん丸くして、なぜかやる気に満ち溢れている哲平に視線を動かす。
朝ご飯は……この宿でとるのではないのか、と。
しかし、
「なーぜですか? 宿で出る食事なんてたかが知れているでしょうが。大体ですね、こんな間近に活気に溢れた市があるというのに、なぜそこに出向こうという発想が君には思いつかないのかなぁ」
哲平はおもいきり不満顔。
決して真士の頭に市に出向こうという発想が生まれなかったわけではない。彼が不意をつかれたのはそこではなくて、
「でも、金ないじゃん」
といった類のことだったのだ。
が、途端哲平はその顔にうっすらと笑みを浮かべ……ようとしたらしいが、そんな高尚な真似がこの直情男に出来るわけもなく、顔には少々不気味な印象すら与える笑みを浮かべ、高らかに言うのだ。
「あっまーい。金ならここにあーる!」
目先に突き付けられたのは一枚の金貨。
それで真士は今朝の哲平の動向が一部始終手に取るように分かった気がした。
つまり、朝起きて外の様子に気付いた哲平は、市で買物をしてそれを朝食にしようと思いつき、真士を起こすより早くリオンの部屋に殴込みをかけ、金貨一枚をやっともらって部屋に戻り、扉を勢い良く開けることで真士の目をさまさせた、ということだ。
なんだ、自分が起きる前に今日の自分のスケジュールは決められていたんじゃないかと真士は観念する。
まあもっとも、真士も市に興味がないわけではないのでそれでも一向にかまいはしないのだが。
そうして二人の少年は初めての町の初めての朝に、人で溢れかえる市に出かけていった。
* * * * *
トーディ島の港町ジグールの市は海岸沿いの道いっぱいに開かれていた。
所狭しと軒をつらねる店、屋台は、全部で五十近くに上ろうか。多く目につくのは、ジグールの特産物でもある魚である。次が野菜、果物。トーディ島は小さな火山島で内陸は山だ。そのため、山菜を扱う店もあった。店先で料理を作り売る所もあった。
真士と哲平はたくさんの人が往来している中、匂いにつられて歩いた。あまりにも人が多いため、なかなか店の様子をじっくりとうかがうことが出来ないのだ。
最初に辿り着いた店ではパンを売っていた。パンといっても『水の大陸』の東側と『土の大陸』の北側で多く見られるような薄く皿ほどの広さはある丸いパンだ。この店ではその場でパンを焼いてくれた。所々にきつね色の焦げ目がついていて、それがよけいに食欲を誘った。一人一枚ずつ買うと、そこの店主が、『土の大陸』からきた二人の少年旅行者に、いいことを教えてくれるのだ。
「このパンの上にな、まずのせるのはマージャのハムだ。それなりの厚さがあったほうが腹持ちがいいぞ。その上に新鮮な生の青菜を広げて乗せる。そのまた上は好みの味付けのキォウネィをたっぷりとのせ、最後にはまた自分の好きな新鮮な果物だ。そこで全体を半分に折って、がぶりっ、と食らい付く。飲み物はヤールの乳。これがトーディ島の正しい朝飯よ」
マージャは豚みたいな奴のことだ。真士はこれを昨晩知ったが、キォウネィとヤールという新たに意味不明な言葉が二つほどその店主の話の中にはあった。哲平によるとキォウネィとは昨日食事屋でも出てきたチャーハンらしき物のことで、ヤールとはつまり山羊だという。
それにしてもキォウネィという言葉、なかなか真士には発音が出来ない。
「きょうねい?」
「違う。キォウネィ」
「きょぉうねー?」
「違う。キォウネィ」
「きょぉうねぃ?」
「違う。キォウネィ」
パン屋の店主に教えてもらった肉屋に行くまでの間、真士はなんとかその発音を習得しようとするが、どうして、そう簡単にいきはしない。何度も哲平に発音を直してもらっている間に肉屋に着いてしまう。
肉屋の店先に着くと、そこの店主は真っ先に二人が片手に広げて乗せているパンに目を走らせ、
「お前等旅行者か。パン屋の親父に朝飯の食べ方を教えてもらってきたな」
などとあっさりと見破ってしまうのだ。
そしてその人はパンの上に分厚いハムをでん、と乗せてくれる。一瞬、その分厚さに二人が言葉をなくすと、店主は豪快に笑ってくれた。
「男だったらそんぐらいは食べないとな」
「…………」
「…………」
次にお薦めの野菜屋を教えられ行くと、そこで乗せられたのはレタスらしきもの二枚ずつ。その次のキォウネィを作り売っている店では、二人は野菜屋の主人にすすめられた焼き魚をまぶしたキォウネィをのせ、次の果物屋では、真士がグレープフルーツらしき物、哲平がパパイアらしき物、のスライスを店の人に言われるままにのせた。
本当にこれが半分に折れるのかと懸念しながら、二人は落ち着いて食べる場所を探そうと市をいったん出ることにした。人込みを抜け出し辺りを見渡すと、山の方に短い草で覆われた小高い丘がある。そこには大きな木も何本か立っているので二人はその木陰に入ることにする。
木の周りには、真士たちよりもまだ若いと思われる少女らがいた。彼女たちはそれぞれに、昨日の船が持ち込んだと思われる、美しいアクセサリーを手にしていた。
この島の人間だろう。市の中を歩いていて気付いたことだが、町の人間は真士達のように硬貨を持っていなかった。物々交換で物を得るのだ。
二人は空いている小さめの木を見付けるとその根元に腰を降ろす。市で得てきた朝食を苦心して半分に折ると、豪快にかぶりつく。海を駆けてきた風だけのせいではない潮の香が、二人の鼻先をくすぐった。
「いやー。腹いっぱいになったし、風は心地良いし、気持ちいい日だねー」
食べ終え、木の幹にもたれ掛かって哲平が呟いている。真士は立ち上がる。そうすると市の様子を斜め上からうかがえるのだ。
まだ市は充分に活気に溢れていた。真士と哲平が市に入ったのはつい先程であるが、実際は日の出と共に開かれたものだろう。それなりに時は経っていると思われるのだが勢いは衰えを知らない。逆に活気づくようですらある。
「あ、哲平、見てみろよ。あそこでなんかやってるぞ」
指差す先には、人だかり。屋台が立ち並ぶ場所から少し離れた道で、中心をぽかりと空けた円い人垣ができている。どうやら学芸団が様々な芸を見せているようだ。二人が乗ってきた船にあのような人たちはいなかったから、今日の市のことを聞きつけてどこからかわざわざやって来たのだろう。
「なんかこうなってくると祭だよなぁ」
口から火を噴く芸を見せ観客を沸かせる学芸団に視線を固定させたまま、真士は言った。隣ではやはり哲平が立ち上がり、同じ所を見ている。
「確かにな。けど、祭となるともっと広い範囲でやって、やる時間も長いんだろうな。市は今日だけだし、多分昼前には店じまいだぜ」
「市、だから?」
「定期的に行なわれている市が今日に限っては貨物船の寄港と重なって突発的に賑わっただけだろ? 普段から一日使って市開いてちゃあ、生活狂っちゃうんじゃないの?」
哲平は、今ではもっぱら『六大陸世界』で普通の一中学生として生活を営んでいるが、六歳になるまでは『三大陸世界』で暮らし、折を見てはこっちの世界に帰ってきている『三大陸世界』出身者だ。
だから、『三大陸世界』で長期にわたって生活をしたことのない真士より『三大陸世界』のことはよく知っている。『三大陸世界』の風習や考え方などすぐにのみこめてしまう。
真士にはなかなかそれが出来ない。さすがに真士も『三大陸世界』に足を踏み入れてからもう四年近くは経っているため、『司』の活動拠点である王宮周辺のことは理解できるようになっているのだが、少し離れてしまうとやはり違和感は拭い去れない。
「…………」
不可思議な技を見せる学芸団の周りにはますます人が集まってきていた。市にも人が溢れ歩くのさえも一苦労のようだ。隣の木陰では少女たちが集まっておしゃべりをしている。何人かと目が合えば、きゃっきゃっと笑いだす。それより少し離れた草の上では、幼い少年たちが飛び回っている。駆け回っている。
「…………」
のどかな風景だ。
風は心地よく、朝の陽も暖かい。
海と山の幸に溢れ、海は輝き、人々の間から笑いが絶えることはない。
「…………」
本当にここが『魔』の脅威に怯える町なのだろうか。
真士と哲平は、『司』たちから「トーディ島に行け」という指示だけを与えられていた。トーディ島に不審な動きがあるから、もしかするとそれは『魔』によるものかもしれない、と。そして、二人に与えられた情報もそれだけである。『司』の一人であるリオンならもっと詳しい事情を知っているかもしれない。だが、それ自体は真士と哲平に何か影響を与えるものではない。二人に与えられた情報は「トーディ島で不審な動き」。ただそれだけ。
つまり、別にこの港町ジグールに『魔』がいる、ということでは決してないのだ。確かにこの町に『魔』が近ごろよく現われるという話を聞きはしたが、『司』たちが狙っているのはこの『魔』ではない可能性も充分にある。「不審な動き」とわざわざ『司』にもたらされた情報だ。それなりにやっかいな相手という目測があったからこそ、『司』の耳に入ったのだろう。なぜなら、それほど大した力を持つ『魔』でなければ、王宮にいる『精霊使い』や『浄化者』がそこに出向けば事足りてしまうのだから。一々そんな相手に人類の宝である『司』の手を煩わすことはないのだから。
そういう推測があるからこそ、真士は疑心を抱いてしまう。この町の人間は皆明るい顔をしている。ならばここに来るという『魔』は恐れるほどのものではないのではないか、自分たちの任務、目標は他にあるのではないか、と。
「おい真士! なんだあれっ」
突然隣で哲平がすっとんきょうな声を出してくれた。びっくりして目をやると、一点を指差している。その先には先程の学芸団がいる……のだが。
「なんだあれ!?」
屈強な体の男が一人、片手に細長い剣のようなものを持ち、それで腕を貫こうとしている。そんな様子が真士の目にも飛び込んできていた。
「真士、行こうぜ。俺ああゆうの、一回間近で見てみたかったんだっ」
鼻息を荒くして哲平は誘っていた。
真士もそれに決して嫌な顔はしない。やはり興味があるのだ。
二人は競うように駆け出した。緑の丘を下っていく。まず飛び込む先は市の中だった。色とりどりの織物を売る店の隣から、二人は人込みに飛び込んでいく。人間を縫って走り続ける。
円い人垣に先に着いたのは真士だった。中央で腕に細長い剣を突き刺している男の頭は見えたが肝心の部分が人の頭が邪魔になって見えない。前に出ようとも思うのだが、どうも隙間がなく、挙げ句その場で飛び跳ねてしまう。
「俺を置いていくなよぉ」
どこかで引っ掛かってしまったていたらしい哲平が今到着した。飛び跳ねる真士を見て事情を察したらしく、同じように飛び跳ねだす。二つの頭が交互に上下に動く。
「なあ、肩車してくれないか?」
「冗談だろ。哲平の方が俺よりでかいんだから、お前が俺のこと肩車するのが筋じゃないのか?」
「もちろん交替だよ」
「じゃあ、先に肩車してくれよ」
「えー、言いだしたのは俺だぜ?」
「やだよ。俺が肩車してもらうときにはもう終わってるかもしれない」
「すぐに替わるからさ」
「替わらなかったら落とすからな」
「分かった分かった」
少し息をあげながらも交渉成立。飛び跳ねるのを止め、二人は肩車に取り掛かろうとした。哲平は真士の背後に回り込もうとし、真士は膝を折る。
その時に、
「――誰か……助けてくれ!」
一人の男が走り込んできたのだ。
「助けてくれ!」と叫びながら、彼は真っすぐに市に向かって突っ込んでいく。周りに人がいることに気が付いているだろうか、両眼はしっかりと見開かれていたが、それは狂気すらも孕んでいた。正気ではないのだ。周りが見えていないのだ。
人々は皆、一歩退いた。開いた地に男は倒れこむ。それでもなお、口は「助けてくれ」と叫び続ける。
「一体何があったんだ!?」
魚屋の店主が飛び出し、男を抱き起こした。店主に何も危害を加えないのを見ると、人々もだんだん寄っていく。何があったのか、はっきりしたことをその人から聞こうと耳を澄ます。
真士と哲平も例外ではなかった。つい先程までとは打って変わって、ぴんと張り詰めた空気の中、男に近付いていく。
「『魔』……『魔』が……俺の集落に……助けてくれ!」
両手が震えていた。空をさまよっていた。見開かれた目は虚空をとらえていた。口は、ただ一言を繰り返す。
「助けてくれぇっ!」
どよめき。
それが真実だと知って、一瞬にして人々の表情は変化する。
今まで真士や哲平が見てきた、『魔』の恐怖に脅かされている者達の色に変わっていくのだ。
「哲平」
「来たな、出番が」
何人かの町の人が手に木の棒などを持って走りだしていた。
二人も決してそれに遅れてはならないと、踵を返して走りだす。
とうとう目標の『魔』とまみえるのだと、浮き足立ったお祭り気分を一瞬で払拭し、二人は走っていった。