2-3
「そんなのありですか!? トーディ島にはまだ着いていないでしょう!?」
という哲平の叫び虚しく、『魔』はやってきていた。
リオンと同じようにへりにつかまり、海の向こうに真士と哲平も視線を向ける。
しばらくして、真士が真っ先に気付いたことは、波のうねりだった。穏やかだった波が、かすかにだが荒立ってきている。次に、ぼんやりと見えてくる、黒い霧の固まり。こっちに向かってきている。
それが、『魔』。
「見えたか、真士」
斜め上からのリオンの声。
「ああ」
短く応える。
「え? 見えたのか? どのぐらいだ?」
哲平の『魔』の感知力はきわめて弱い。だからあの黒い霧もまだ認識できないのだ。
それを知りつつも問いにリオンは答えない。そのため真士はよりいっそう目を凝らす。
「……多分、二十。どれをとってもそんなに弱くねえ」
『魔』の力の大きさによってその実態ははっきりとしてくる。弱い『魔』というのは姿形すら人間には見えはしない。黒い霧として見える、というのはそれなりに強い『魔』のあらわれだ。また『魔』が集団で行動を起こすことはあまりない。個々の力の弱い『魔』が無数集まる、という話なら聞いたことはあるが。
だからなのだろう。たった二十なのに、リオンが最初に「大量の『魔』が向かってきている」と告げたのは。
「まあ、ゾフィーにももうそろそろ見えるだろうよ。じゃ、せいぜい頑張るんだな。俺は高見の見物でもさせてもらうぞ」
言い置いて、リオンは歩きだしていた。近付いていくのは今は帆の張られていないマスト。青空高くそびえ立つそれをよじ登っていくのだ。
「……本当に高見の見物決め込む気か?」
えっちらおっちらよじ登る姿を見て哲平は呟く。
リオンはマストの上の監視台に降り立つと、自分のまわりにだけ『結界』を張る。
「……本当に手出ししない気だな」
今度呟くのは真士だった。
「で、どうするさ、真士」
やっと見えたらしい『魔』にじっと視線を向けながら哲平が尋ねる。
「お前は自分で考えようとはしないのか?」
「だって、俺と真士が組む場合、頭脳労働担当は真士でしょ?」
「……ホント、成長しろよな」
「体力面では頑張るからさ」
呑気な声と真剣な眼差しで言われてしまったら何ももう言い返せはしない。まあ、いつものことといったら、それで話はすむわけだ。
「じゃあ、とりあえず、このままだと波のうねりで船ひっくり返るから、半分ずつ『結界』張るぞ」
「了解」
「できるだけ持ちこたえろ」
「誰に言ってるのかなぁ。俺は、力自慢のゾフィー様だぜ?」
「力しか自慢できない、だろ?」
「そーともゆーね」
真士は右に哲平は左に。それぞれ別れ、船の端に駆けていく。船首と船尾にあたるデッキの上で、二人は足元に片手をつく。
号令をかけるのは真士の役目。
波の音と船の揺れに全神経を向ける。
徐々に激しく波は船体を叩く。
迫ってくる、黒い霧。
「哲平っ!」
その一瞬後、二人の声は重なりあう。
「『結界』!」
* * *
大きな『結界』。
中型にあたるこの貨物船の半分をすっぽりと覆い尽くすほどのもの。
これほどの『結界』を決してそれが得意とは言えない自分が張ることはそうそうない。ただ、今こうしてデッキに片手をつき、船を『魔』が起こした高波から守ろうとしていて思い知ることもある。
ここにいる『精霊』の多さだ。
『六大陸世界』では、絶対にこれほどの『結界』を張ることはできないだろう。だが、ここ『三大陸世界』ではできてしまう。自分に力をかしてくれる『精霊』の多さに感嘆してしまう。
「……しかし、体力勝負であることは、変わんないんだな」
自分が今唯一契約を結んでいる『水の精霊』で『結界』を張りながら、真士は呟いた。
元から『結界』を張るのに適しているという人間も存在する。そのような人なら強力な『結界』を保持することも大した苦ではない。が、決して真士はそうではない。となると、『結界』をどれほど保持できるかというのは自身の気力と体力にかかってくるのだ。
『三大陸世界』では『精霊』が多いのと同じくらい、『魔』も多い。力も強くなる。いくら『精霊』が多く、『六大陸世界』では絶対に無理な術をやってのけたとしても、その分『魔』も強くなっているので、力の差の比率は結局変わりはしない。
だから、いくら真士が頑張って『結界』を張ろうとも、船は『魔』の影響を受けてしまう。前後左右に大きく揺れてしまう。
「まあ、最悪、引っ繰り返るってことだけ防げればいいんだけど……」
知らぬ間に眉を寄せながら再び呟いていた。
それにしても、暑い。
陽射しが肌を刺すようだ。
汗が額から次々に流れ落ちてくる。
しかも、そういえば自分は、さっきまで気分が悪かったんじゃなかったのか?
「……最悪な状況、ってやつじゃねぇの……?」
揺れがひどくなっている。
強がってそれを否定する気も、なくなっていた。
事実は事実だ。目の前に、自分の張った『結界』に体当たりをして突破口を開こうとしている黒い霧。そして、そのうなり声。
『魔』が声を発するということは一般的には認められていない。『魔』の生態について研究をする学者達も認めてはいない。しかし、真士は知っている。奴らは声を発する。自分に語りかけてくる。
心に染みわたる、声。
気持ち悪い。
最悪だ。
このままだと、リオンに何と言われることか――。
「……ヤバ……」
余儀なく思考が中断された。
途端、視界全体が青くなった。
後頭部と背中に強い衝撃。
今までよりいっそう近くで、波の音。
「――――」
『結界』が破られた。
体が『魔』の勢いに押され、へりに叩きつけられた。
船が大きく揺れている。
「わりぃな、哲平……」
相棒がまだ持ち堪えていることに気が付いて、真士は憎らしくも青い空を見上げながら、呟くのだ。
* * *
哲平は、やはり唯一契約を結んでいる『炎の精霊』で『結界』を張っていた。
哲平も『結界』を張るのは得意ではない。どちらかといえば、全体的に防御は苦手だ。頭脳戦も苦手だ。力技で突進していくのが好きなのである。
普段から真士とつるむことが多いために、そのようなものが必要になったら全て真士に任せてしまう。
真士もじっとしているのが得意とは言いがたいが、自分よりかはマシであるし、何より悪知恵がきく。
今回も、号令は全部真士から得られるはずだと思っていた、が。
「……何でえ?」
自分のいるほうが船尾。真士のいるほうが船首。
船首の方の揺れが激しいのは気のせいか?
真士も『結界』が得意、とは言いがたいが、しかし。
「…………」
目の前では、突進して来る『魔』が『炎の精霊』によって張られた『結界』に行く手を阻まれ、無残にも力を削がれて落ちていく。全部で二十ほどと真士は言った。どれも弱くないとも言った。リオンもそれを別に否定しなかったから間違ってはいないのだろう。
そう考えると、この状況、楽観はできない。
次々に『魔』は落ちていくが、船の揺れがおさまることはないし、感じる気配にも何ら変化がないのだから。
『結界』ぐらいでたやすく排除できる相手ではないということだ。
「このまま諦めてくれればいいんだけど。じゃないとなー、こっちから攻めていかないといけないからなー」
それはそれで楽しいのかもしれない。いや、普段の哲平だったらこの状況を思いっきり楽しんだことだろう。だが、今は普段ではないのだ。というのも足場が悪すぎる。
ここまで足場が動いてくれたら、力をこめるのも一苦労だ。力技主体の哲平に、それはつらいハンデなのだ。
『結界』を保持しながら、一人そんな思考をめぐらせていた。その時、状況に大きな変化が現われた。思わず船首の方に顔を向け、じっと空を見つめてしまう。
「……嘘だろ?」
真士の張っていた『結界』が、散ったのだ。
船首が大きく揺れる。
体勢を崩さないように、哲平は足元に両手をつき、踏張る。
「おい、なんでだよ、真士。お前ともあろう者が……」
何があった? と呟きかけて、気が付いた。彼は先ほど、胃の中の物をもどしたばかりなのだ。
体力がないのは当たり前だ。食べたものを栄養になる前に全て吐き出してしまっているのだから。しかも船酔いがそれで全快したとも、思えない。
最悪のコンディションというやつだ。
「まさか完全にくたばってはいないと思うけど……」
視界に、もう一つ変化が現われた。今度ばかりは哲平も両目を見開いてしまう。大きく、息を飲んでしまう。
船内から、船員たちが変化に気付いて出てきたのだ。
大きな揺れのために真っすぐに歩くことすらできない中を、必死にやってきたという表情で、その姿を次々に見せるのだ。
「ばっ……バカかよ! そんな必死になって出てきて、餌食になるつもりかよ……!」
『魔』が来た目的。明白すぎる。彼らが動くのは、食料を得るためでしかない。
つまり、人間の力を喰うためでしか。
こんなところにのこのこ姿を現したら、『魔』に襲われることは目に見えすぎている!
「中に戻れよ! これは『魔』の仕業なんだよ!」
十数人の船員。
デッキに跪く形の哲平に目を向けるが、状況を理解仕切れてはいない。彼らは哲平が『精霊使い』であることを知らず、何より、彼らに『魔』を見ることはできない、だから……!
「おい!?」
哲平の叫び虚しく、船員たちは哲平の『結界』外に足を踏みだした。
途端、襲いかかる『魔』。
波の音と共に響きわたる絶叫。
「もう……どうしろって言うんだよ!?」
哲平は立ち上がる。足元はおぼつかない。けれど、足を開きその場で真っすぐに立つのだ。
「わが名はゾフィー。我に従う『炎の精霊』よ、わが声を聞け。『結界』!」
自分のまわりだけに『結界』を張りなおした。真士の『結界』が破られ、『魔』の標的が確実に人間に移っている今、自分だけ大きな『結界』を張っていても仕方がない。もうこうなったら、『魔』を直接排除しにいくしかないのだ。
胸元にあったペンダント――出発前に『司』たちから授かった物だ――それを右手で引き千切り、哲平は『魔』に向かって駆け出していく。
「これで最悪の事態なんかになったりしたら――」
リオンのせいだ、と口にしかけて、思い留まる。そして、
「白い雲のせいだからなっ!」
哲平の右手には、銀の剣が現われていた。