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そのころ、海の上に、三人はいた。
頭上から降り注ぐ陽射しは容赦がない。
風がないわけではないが、それは生暖かく、ますます気分を鬱にさせる。
そしてなぜかその炎天下、真士と哲平は、海上をゆく帆船の中、ではなく外、にいた。中型貨物船のへりに背をあずけ、二人は座り込んでいる。
「うーみーはひろいーな、おおきい~なぁ~」
船上には二人以外誰もいない。耳にするのは波の音とマストがきしむ音だけだった。しかし今、哲平がきちんとされていない発音で歌を歌い出したために、嫌でも隣にいる真士にはその声が耳に侵入してくることとなった。
真士は両手両足をだらしなくのばし、両目を閉じてじっとしている。
「つぅきぃがのぼるぅし~ひがし~ず~む~」
「…………」
そこで歌声は途切れた。
真士は動かない。
「……真士、大丈夫か?」
「なんだよ、終わりかよ」
「終わり。だってつっこみないしさー、この後よく覚えてないしさー」
「あっそ」
「……お前、本当に大丈夫かよ」
「……これのどこをどう見て大丈夫なんだよ」
「やっぱり部屋で休んだら?」
「じょーだん。絶対やだぜ、俺」
「いじっぱりなんだからぁ」
「うるっせーなぁ。戻りたきゃ一人で戻れよ」
「…………」
べっつにぃ、とだけ哲平は口にした。二人とも決して船上がいいわけではないのだ。出来れば船内の自分たちにあてがわれた部屋に入って陽射しを避けていたいのだ。しかし、二人がそうしないのにはわけがある。
「四六時中リオンと顔あわせていたくないからねー」
三人一部屋。
しかも、この船は旅客船ではなく貨物船。荷物を運ぶためのものであるからして主役は荷。主役でない人間のことなどその次のため、部屋は最小限の大きさだ。
「まあ、文句言えないことは分かっているんだけどねー。俺達、無理いって乗せてもらっているしさー」
「トーディ島にわたる船が少ないのがいけない。なんで旅客船が週に一度なんだよ」
「まあねぇ。俺達の都合からいったら文句言いたくなるのも分かるけどさ、真士」
「全く、もううんざりだ」
「……確かにねぇ」
哲平が口を噤むと波の音が耳に付いた。真士はゆっくりと両眼を開く。
真っ青の空。そこにぽかんと呑気に浮かぶ真っ白の雲。
けんか売られてる。
そんな気がした。なぜかしゃくだった。
「なあ、真士」
沈黙に堪えられない哲平がさっそく口を開いている。
「はん……?」
目を半開きにしたまま、真士は気のない返事だけを返す。
「トーディ島ってさ、何かうまいものあるかな?」
「はあ……?」
ここにきて、食べ物の話とは。たしかに哲平はどちらかといえばグルメだしここの所うまいものを口にした覚えも確かにないが……ただ単に話題に困ってのことなのだろう。
「小さな島だからやっぱり魚かなー。でも俺、あんまり魚好きじゃないしなー。あーあ。カツ食べたいな、カツ。味のはっきりした肉がさー。あ、トリカラもいいよねー。冷製しゃぶしゃぶとか。もちろん胡麻だれね。……はぁ。今目の前にそういうの、でん、って出てきたら幸せだと思わない?」
……目の前にカツと鶏の空揚げとしゃぶしゃぶが……。
「――――」
「真士?」
分かった。自分にけんか売っているのは白い雲じゃなかった。
このバカだったのだ。
それを真士が理解したときはもう遅かった。
とっさの判断でその場を見るに耐えないものにすることだけは避けた。
へりにつかまって海の方に身を乗り出し、口を大きく開く。
胃からの逆流。
喉が熱い。
「おい、本当に大丈夫か?」
バカはバカなりに心配しているのか、ご丁寧に背中をさすったりしてくれている。
また、きた。
「あらら。昼に食べたもの、全部出しちゃったねぇ。もったいない」
誰のせいだと思っているんだよ、などと悪態の一つでもつきたいがそれすらかなわなかった。
正直、苦しい。
「水、もらってこようか? 水一度腹に入れて、本当にすっきりさせたほうが楽だと思うからさ」
応えるより先に哲平は行ってしまう。暫らくへりにつかまったままでいるとコップを持って戻ってきた。
口元に、水。
いったん口をゆすいで飲み干す。
そのまま船の揺れに身を任せ、背をさすってもらっていたら、再びやってきた。
苦しいことは苦しいが、先程よりはましだった。それで確かにやっとすっきりしたような気もした。
「大丈夫かい、おとっつぁん」
バカは背中をさすりながらわけ分からんことを言っている。それに付き合ってやる気力は今のところない。
もう暫らくへりにつかまって休まないことには……。
「おとっつぁん。わたしゃ悪いことは言わないさ。部屋で横になったらどうだい?」
頭上から、そんな声。
ふざけている。
「……冗談……」
そうとだけ、目の前にある海に向かって真士は呟く。
と、同時に、背をさする手が止まった。哲平の注意が自分からそれたことを知って、真士も耳を澄ます。
足音。
ゆっくりと顔をあげた。
「どうかしたのか、リオン」
船内から姿を現したのは、自分たちの部屋を独占していた師匠だった。
声をかけた哲平を一瞥し、リオンは口を開く。
「……真士こそどうした?」
心臓が跳ね上がった。
すぐに体勢をたてなおす。
「なんでもねぇよ」
哲平が目で「本当か?」と訴えかけてきたが、とりあえずそれには無視を決め込む。
「そうか」
リオンはリオンでそうとだけ口にすると、自分たちがいるほうとは反対側のへりに歩いていった。
こちらに背を向けたまま、じっと海を眺めている。
「……どうかしたのかな?」
耳元で哲平が囁いた。真士はただ、首を傾げてみせる。
それからいくら時が経ったか分からない。たいした時間ではなかったのだろう。だが、真士には十分に感じられる時を置いて、じっと海を見ていたリオンは徐に口を開くのだ。
「真士、ゾフィー、感じるか?」
「……?」
顔すら向ける事無く投げ掛けられる疑問符。口にする言葉に困っていると、彼は自ら本題を顕にする。
「大量の『魔』が、向かってきている」
「…………」
「お前たちの腕の見せ所だな」
振り返るその顔は間違いなく笑っていた。
それを見て、とりあえず真士の顔から血の気は益々引いていっていたのだ。