5.天ヲ地ニ、地ヲ天ニ
リフレッシュルームのテレビに、記者会見の様子が映った。
場所は、『扉』恐怖症の発生が宣言された、あの病院だ。
「ではこれより、『扉』恐怖症対策特務室の会見を行います」
司会の型にハマった文句が読み上げられた。
「えぇ~、私は特務室広報担当の海山です」
海山は軽く頭を下げて、フラッシュの一斉射撃が止むのを待ってから、ゆっくりと噛み切るように言葉を続けた。
「この度、『扉』恐怖症に関する一つの仮説が、こちらにいらっしゃる大月特務室補佐より提案されました。この仮説は非常に衝撃的なものであり、また画期的でもあります。この仮説が正しいか否かを検証するのに、我々に時間は必要ありませんでした。即ち、仮説は容易に実証された訳です」
おぉ、という声が記者の間から漏れる。
「その詳細は、この後、隣に座っている彼に話して頂くことにいたしましょう。大月特務室補佐です。実は、私の大学時代の友人でもあります。話下手ですが、とても信頼できる男です」
海山は晴れ晴れとした笑顔で、私の前のマイクを取るように促した。
「では、大月特務室補佐、お願いします」
さっき拭いたはずの掌の汗が、マイクを濡らした。
「えぇ、あ、只今ご紹介頂きました、特務室補佐を務めさせて頂いている大月です。では、私の仮説について、ご説明させて頂きます」
この後、恥ずかしながら、未だにちゃんと台本通り言えたのか覚えていない。
記者の質問にも、いつの間にか答えていたし、海山に肩を叩かれるまで、会見が終わったことに気付かなかった。
だから話は、この時の水班寺との会話にシフトさせて頂きたい。
「結局、アレの原因って何だったんですか?」
水班寺はインスタントコーヒーを淹れながら、まるで見逃したクイズの答えを聞くように、尋ねて来た。
「ったく、君は何度聞いたら覚えるんだい? もう三度目だよ?」
「え? そうでしたっけ?」
悪びれる素振りもなく、むしろ私が悪いと言わんばかりの口調である。
しょうがないから、三度目の説明を始めた。
「簡単に言ってしまえば、『扉』が怖いなんて、気のせいだったんだ」
水班寺は、それは分かっている、とコーヒーをすすりながら頷く。
「『扉』が『未来』の象徴だってのは何となく分かるでしょ? 『未来』は、もちろん希望だってあるけれど、それと同じくらい怖さもある。それを『扉』に対して、今まで誰も意識していなかった、っていうだけのことなんだ」
「意識していない、って本当なんですか? 誰でも気付いてはいると思いますよ」
「まあ、意識している部分もある。でも、意味のある物しか意識していないはずだよ。確率が高い不安は、意識に入れて確率を下げる必要があるからね。例えば」
私は水班寺の、水玉模様のマグカップを指差した。
「淹れたばかりのコーヒーが熱い可能性は十分にあるから、誰だって最初は恐る恐る飲むだろう? でも、そのコーヒーが麺つゆである可能性はゼロに近いから、そんなことは考えずに飲むはずだ」
「あ、一度やったことあります! 冷蔵庫に入ってた麺つゆを麦茶だと思ってゴクっと。あれは思い出したくないですね」
その味が舌に再構成されたのだろう、水班寺は苦い顔になった。それを流すようにコーヒーをグイッと喉に押し込むが、私が忠告する暇もなく、彼女はむせた。
「要するに、未知に対していちいちビクビクしていたら、進むことなんてできやしない。だから、きっと怖がるのをやめているんだよ。意識の下の、さらに下でね。それが今回意識に上ってきた、ということさ」
「まぁ、それはそれでいいんですけど。じゃあ、なんでパッタリ患者さんがいなくなったんですか? あり得ないですよ」
確かに、真昼間にも関わらず、待合室にはいつもの静けさが戻っていた。
「そりゃあ、私にもハッキリとしたことは分からないよ。きっと安心したから、なんじゃないかな?」
「そんなもんなんですかねぇ~」
そう言って水班寺は、待合室の方を見遣った。どうやら、本日最初の人気を察知したようだ。
「さてと」
立ち上がって診察室へ向かおうとしたが、東京からとんぼ返りしたせいか、まだ体がだるい。
背中を伸ばしながら、窓の外の陽だまりが恋しくなった。
受付へ向かう水班寺へ、後ろから声をかけた。
「ねぇ、なんだか診察室のドアが怖いんだけど」
「気のせいですよ、気のせい。仕事なんですから、サボらないで下さい!」
この作品はフィクションであり、実在する人名・組織名とは一切関係ありません。
また誤謬・誤用が無いように努めておりますが、万が一ございました場合は、速やかにご連絡下さい。