3.存在セザル存在
翌朝には、すでに後悔が始まっていた。
朝のニュースの3番目くらいの見出しに、「『扉』恐怖症 発生か?」という文字が入っている。
そして、今日の未明に開かれた会見が映し出された。
そこには、何人かの精神科医と感染症の権威、それと政府の役人が並んで座っている。
この顔は会ったことがある、コイツは名前だけなら知ってるな、なんて反射的な自己満足に浸っていたが、そうしている場合ではないようだった。
なんでも、既に5の都県で23の症例が確認されているらしい。
これに私の分を足せば6の都県で31の症例ということになる。
まだ感染症と確認されたわけではないが、迅速な対応を、との掛け声で急な発表になったらしい。
現状から判断すると、もしかしたら、いや確実に、まだまだ患者の数は増える。
これは予言ではない。近い未来の姿だ。
「…未だ調査中ではありますが、感染力は弱いと推定されているため、国民の皆様におかれましては、冷静な対応をお願い致します」
聞く人が聞けば、この文言は社会の混乱を避けるための常套句であり、実際調査中なのだから、感染力は未知数《unknown》と考えた方が正しい、と気付くのだが、平和に酔ったアパシー中毒者達には届かないようだ。
司会者とコメンテーター達は、肩の凝りそうな肩書き持ちだというのに、玩具を貰った幼児のように「ドアが怖いなんて、そんなことあるんですかねぇ~」と、半信半疑で半笑いしていた。
その光景に、私は恐怖した。
そのスタジオの、司会者と女性アナウンサーの間から顔を出すように、目隠しをした田中田の顔が浮かぶ。
藁の家に恐怖する彼は、コイツらを見て何を思うのだろう。
それに見向きもしないコイツらは、何を考えているのだろう。
まずは腹ごしらえと思っていたが、このまま食べても腹を壊しそうなので、せっかく作った朝飯はとりあえず放置して、都内の大学病院に勤務している、海山という大学の友人に携帯で連絡した。
海山は信頼できる奴だったし、記者会見を行っていたのもそこだった。何よりあそこなら情報が集まるはずだ。
幸いなことにちょうど海山も、「『扉』恐怖症」の対応に追われる忙しい間を縫っての朝食中だったらしく、すぐに電話に出てくれた。
よもやま話は横に置き、カルテをスキャンしてメールで送る約束を手っ取り早くしてから、ぬるくなった朝飯を頬張り、考える。
自分は大丈夫だろうか?
この部屋のドアへ視線を向ける。が、そこにはいつもと変わらぬドアがあるだけだ。
これに恐怖を感じる日が、来るのかもしれない。
その日は予想外、いや予想すべき通りに、いつになく待合室の患者が多かった。
嫌な予感というよりは、確信に近い。
その誰もが田中田のように目隠しをしたり、目を瞑っていたり、あるいは床を凝視していたからだ。
これには水班寺も気付いたらしい。
「これ、ヤバいですよね?」
診察が始める前から、すっかり不安そうな顔をしている。
「おいおい、診察してみないと分からないだろ? それに看護婦がそんな顔でどうする。そんなんで仕事されると、商売あがったりなんだけど」
すっかり本心のままを言ったつもりだったが、どうやら励ましに聞こえてしまったらしい。
ちょっと嬉しそうに、「適当看護婦・水班寺 序曲」が転調した。
「まぁ、せいぜい中の中の上ですけど、頑張りますよ」
「ああ、そのくらいでちょうどいい」
結局、その日だけで『扉』恐怖症の可能性があったのは32人。
この何の特色もないローカルの町でこの様である。
精神科以外の医者にかかっている可能性もあるから、実際はもっといるかもしれない。
これが都市だったら、この10倍以上いてもおかしくはないだろう。
次の日には、見事トップニュースの座を射止めるまでになっていた。
35の都道府県で2873の症例。
昨日の時点での集計は間に合っていないだろうから、私の受け持ったのは、そのうちの8件だけだと考えていいだろう。
一般的には驚愕すべき数字だが、私としては納得だった。
昨日まで炬燵にぬくぬくとしていた「知の無知」連中はと言うと、零下20度の中に放り投げられた芸人よりも酷い顔を、全国のお茶の間にお届けしていた。
ちょうどその番組には、偶然にも海山が専門家として生出演していた。
しかも、学生時代と変わらずに、「それについては、まだ分かっていないんですが、私の考えでは……」を連発していた。
几帳面な奴だから、決して断定はしない。
そうかと思えば大胆な行動を取ることもしばしばだが、それが絶妙に溶け合わさって、和音《harmony》を響かせる。
そこに加えて実績があるから、同年代はもとより、上からも下からも信頼されているのだ。
テロップに輝く今の彼のポストも、年齢にしては満足して余りある。
それを聞きながら、新聞にクラゲのように躍っている「『扉』恐怖症」の記事を読み漁っていると、テレビの向こうの海山の発言に、記憶が揺さぶられた。
「昔、大学の友人と『伝染する精神病』について、語り合ったことがありましたが……」
あぁ、そんなこともあったよなぁ。
その時、生まれて初めてテレビに話かけてしまった。
あれは確か、仲間内で集まって食堂で昼飯を食べている時だったか。
何でそんな話になったのかは、全く覚えていないが、ちょうど最後のヨーグルトをすくったスプーンが、私の口に収まった時だった。
「もしさぁ、精神病が伝染るなんて、あると思う?」
言い出しっぺは海山だったか、もしくは別の奴だ。少なくとも私ではない。
「そんなの伝染るワケないだろ」
「いや、あくまでも仮定の話さ」
海山がそんな話題を振るのは珍しいことではなかった。
「過程? どうやって伝染るかっていう?」
コレが私だというのは、どうか内緒にして頂きたい。
「いや、仮定ってのは、仮の話ってこと」
「あぁ、ゴメンゴメン。そういうことか」
大月は理屈っぽいからな。
そう、ひとしきり全員にいじられてから、学生の無意味な食堂討論が始まった。
大方は、ウイルスがヒトの脳をコントロールできるのか、という所に焦点があった気がする。
ウイルスには、とてもじゃないが意思があるわけではない。
だからウイルスの思うがまま、というのは非現実的だということで却下された。
しかし脳の神経活動は、言ってしまえば神経伝達物質に還元されるのだから、そこに関与すれば、気分に干渉するくらいならできるかもしれない、なんてところで中途半端な終わり方を迎えた気がする。
次の講義もあったせいで、あまり話し込んだ訳ではなかったが、今思い出してみると非常に興味深い。
ただ、そう考えると「扉」に恐怖を感じる、というのは何とも説明のしようが無い。
なぜ扉なのか? それが問題だ。
ただの精神病と考えれば、少しは筋の通った解釈ができる。
扉は、まだ見ぬ先、未来の象徴のようなものだ。
それを開けることで、未知の世界が眼前に広がることになる。
それに恐怖心を抱くということは、未来への不安の投影と言えるだろう。
何せ、将来には懸案事項が山積みな世の中だ。
自分の心の中に引き籠っている方が心地よいのは、皆分からない訳ではあるまい。
でも、それがウイルスのせいで片付けられるだろうか?
扉に対してのみ反応するということは、扉を認識していなければならない。
扉を認識する引き金となっているのは、恐らく、視覚野から送られた扉の視覚的な情報だろう。
扉という「概念」の可能性もあるが、もしそうだとしたら本人は扉という「言葉」を口にするのも躊躇うはずだ。
田中田は「ドア」という単語はハッキリと言っていたから、概念や言語から結びついているとは考えにくい。
もし仮に、引き金が視覚情報だとして、問題が解決するかというと、そうでもない。
ウイルスが特異的に扉という視覚情報だけを認識して、それを恐怖する対象とするなんて、まず考えづらい。
そんな複雑なことが、生物と無生物の狭間に生きている輩に、できるとは思えないのだ。
「それについては、まだ分かっていないんですが、私の考えでは……」
海山が本日何度目かのそれを口にした時には、司会者も呆れたような表情で「じゃあ、何が分かっているんですか?」と尋ねていた。
アンタには分からないさ。だって、俺らに分かんないんだから。
そんな私の思いを、臭みを抜いて、海山が代弁した。
「分からない、ということしか分かっていない、というのが正しいでしょうね」
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