2.患者ハ語ル
「ドア……って、ドアですよね? どこでもドアの?」
「えぇ、そのドアです」
水班寺の例えには、一体どこから拾ってきたのかといつも尋ねたくなってしまうが、四次元ポケットです、なんて答えられるのがオチだから黙っていることにしている。
「すみませんが、具体的にご説明して頂けますか?」
田中田は、待ってましたとばかりに、暗記していたかのような説明を披露した。
「始まりは、先週の日曜くらいです。朝起きてトイレに行こうとして、自分の部屋のドアが目に入った瞬間でした。いつも見ていたドアを開けるのが、何だか分からないけど……怖かったんです」
「『開ける』のが怖かったんですか?」
水班寺が今月で一番真面目な顔をしながら、さっぱり分からないという口調で疑問を投げる。
「えぇ、この時はまだ。でもしばらくの間は、開いた先を見ないようにしながら手探りで開ければ、どうにか大丈夫だったんです。こうやって」
田中田は、オフィスチェアーに座りながら、状況の再現を試みた。
右手を後ろへ伸ばし、見えないドアノブを探りながら、ドアには極力近寄らないようにしている様子を体現し、彷徨う手がハッキリとした何かを捉えた瞬間、手首がクルリと回転し、見事に押し開けることに成功した。
彼のように、普通ではない今の自分の病を、何とかして伝えようとする患者は多い。
その気持ちが分からない訳ではないし、別に蔑むとか馬鹿にしているとか、そういう類の感情でもないのだが、どうしても滑稽に思えてしまう。
私は口角が上がらないよう、細心の注意を払いながら、顎を引いて戻して、の往復を繰り返した。
「でも段々と、ドアに近付くのも怖くなってきてしまって。それで極め付けが昨日でした。上司に職場で海外出張のお土産を貰ったんですが……」
そう言って、田中田は小さめの紙袋を取り出した。
それも、できれば触りたくないというように、紐を人差し指と親指で挟んで持ち上げて、診察台の上に置いた。
「それがこれなんです。私は目をつぶってるので、ご自由にお確かめ下さい」
一人瞼を閉じる田中田を放置して、きっと興味本位に違いない水班寺は、ワクワクと口に出しかねない勢いで中身を取り出した。
それを包んでいた、アルファベットに近い形の文字で印刷された新聞紙を取り払うと、姿を現したのは鮮やかな絵の描かれたボールペン。
絵柄のモチーフは、どうやら「オオカミと三匹の子豚」らしい。
「わぁ~っ、可愛らしいじゃないですか」
あれがもし私のだったら、すぐに「コレ下さい!」と発する場面だ。
「えぇ、出張先が物語の発祥の地だったらしいです。一番年少の僕のは藁で、あと二人が木と煉瓦のバージョンなんです」
目を閉じながらも、田中田は説明を続ける。
「問題はその絵なんですが……」
「なるほどね~」
水班寺が弄繰り回しているから、私にはよく絵柄は見えていないが、恐らくはそういうことだ。
「え? なるほどって、何が分かったんですか?」
「分かるも何も、彼はドアが怖いんだろ? そして、そこには藁の家だ。だとしたら、絵に描かれた玄関のドアを見た途端に、恐怖のあまり奇声を上げてしまった、という所なんじゃないかな?」
田中田は、まさしくその通りです、と頷く。
「さすがに、こんなに小さくて、しかも絵に描かれたドアでしたから、これはマズイと思ったんで―ヒャッ!!」
こんな奇声を上げてしまうのは、確かに問題だ。
今も、その奇声を再現したのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
ちょうどその時、彼の真後ろのドアをノックして、別の看護師が顔を出したのだ。
「どうか、いきなりノックするのだけは止めて下さい」
「そ、そうですか」
その看護師も、我々も、きっと心の中に浮かんだのは同じだろう。
『それじゃあノックの意味が無いだろ!」
しかし、ノックにまで反応してしまうとは深刻だ。
「ノックも、ダメなんですか?」
「えぇ、ドアの存在が分かるじゃないですか。もうそれだけで『身の毛もよだつ』っていうんですか? そんな感覚が背中をなぞるんですよ」
額の冷や汗を拭いながら、田中田は唇を噛んでいた。
そこに、空気の読めない水班寺が雑談を挟む。
「じゃあ、ベートーヴェンの『運命』も、ダメだったりしますか? あの『ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン』って奴」
「え? あぁ、確か『運命がノックする音』でしたか。それは……どうでしょうね。確かめてはいませんが、それで怖くなったら、ちょっと厄介ですね」
田中田の顔に困惑の色が重ねられたが、硬い層が柔らかくなったのは確かだった。
さらに詳しく症状を問診して、おおよそ次のようなことが分かった。
ドアは、絵の他に写真でも映像でもダメ。押し戸でも、引き戸でも、自動でもダメ。
でも窓なら何の恐怖も感じない。
どうやら久し振りに手強い症例にぶち当たったらしい。
でも、私の医療に変わりは無い。
「では、とりあえずお薬の方を出しておきましょう」
「お薬が、あるんですか?」
田中田は、珍しい病気だから治らないものだと思い込んでいたらしい。
白目がさっきの倍の面積に広がった。
治療法が無いのではないかという憂いは、それだけで病を悪化させることもある。
「ええ。『ドアが怖い』というのは初めてですが、よく『高所恐怖症』とか『潔癖症』とかあるでしょう? 基本的にはそれとおんなじだと考えて頂いて構いません」
それを聞いて、田中田は肩の力が抜けた様で、まだ治るとは言っていないのに、安心しきって表情もすっかり緩んだ。
「そうなんですか。あぁ、そうなんですか」
この時の彼は、水班寺曰く「来て良かった」と顔に書いてあったらしい。
「さて、どうしたもんかな?」
翌日。私は水班寺の意見を聞かずには居られなかった。
田中田を含めて8人。下は5歳の幼稚園児から、上は80代のお爺さんまで。
誰も彼もが、口々に言うのはただ一つの症状だった。
「扉が怖い」
「そうですね~。確かに変ですけど……」
水班寺は腕組みしながら、さも考えているように見えるが、私は知っている。
コイツは絶対に考えていない。考えると言う動作を知らないのだ。
「アリなんじゃないですか? こういうのも。ホラ、世の中偶然って結構あるじゃないですか。こないだ読んだ雑誌にも、何度も死にそうな体験をしながら生きている、っていう人が載ってましたし」
やはり。尋ねた私が悪いのだが、彼女には深刻さが分かっていない。
「アリだったら困るから、頼りない君にまで相談してるんだよ」
『頼りない』というのは勝手に聞き飛ばしてくれたらしく、「何でアリだと困るんですか?」と言いたげに、首を地球の自転軸くらいに傾けて、思考を停止させている。
「もしこれが感染性だったら、大変なことになるだろう?」
それに反応して、いや反射的に、彼女は口を開いて声帯を震わせた。
「そんなことあるわけないじゃないですかっ!」
診察室中に響いた、さながらビッグバンのような大声は、待合室にも届いたに違いない。
それに気付いて声量を弱めた彼女の顔は、アドレナリンのせいだろう、いくらか紅潮していた。
「だって、そしたらウイルスとかが関わってるってことで、そしたらウイルスがヒトの脳に影響しているってことになって、そしたら、えっと……」
「ウイルスに人間が支配されることになる、と言えばいいかな」
「そうですよ。そんなことになったら大変じゃないですか!……って、もしかして、本当の本当にそんなことになっちゃってたり、しないですよね?」
もしそうだったら私も感染しちゃってるかもしれないじゃないですか、と言わんばかりの眼で、私に否定を求めてくるが、私は首をかしげて笑うしかなかった。
まさか、この時に何かしておけばと、後悔することになるとは思っていなかったが。
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