1.珍妙ナル来診
【扉】:一般に建物、部屋や家、自動車・鉄道車両・航空機などの乗り物の出入り口につけられる建具である。
【恐怖症】:特定のある一つのものに対して、他人には不可解な理由から、心理学的、および生理学的に異常な反応を起こす症状で、精神疾患の一種である。英語ではフォビア (phobia) と呼ばれ、古代ギリシア語の恐怖(ポボス、φόβος, phobos)がその語源である。接尾辞としての -phobia の前にはギリシャ語が用いられる。
(Wikipediaより引用)
その日も症例達が、大して数は多くないが、私の医院にやって来ていた。
鬱だとか、統合失調だとか、そんな病名を貼られ、薬を大事そうに抱えながら帰っていく。
もちろん、薬ばかり飲んだところで治るはずがない。薬は所詮、神経を騙しているだけなのだ。クスリとなんら変わりない。
ビートバンと同じだと、私はよく例えている。
ビートバンで泳ぐ練習をしたって、ビートバンでの泳ぎ方しか身につかないのと同じで、その人間が変わらなければ、精神病という奴は治らない。
「治る」という言葉さえ、使うのを躊躇われるほどだ。
別に悪徳商法をやっているのではない。
患者が来て、私はちゃんと薬を渡すのだから、私はちゃんと人並に仕事をしているのだ。
それでも「治らない」から、また来る。それだけだ。
患者の考え方を変えてやればいいじゃないか、と言う奴もいる。
そういう奴は、負のスパイラルから助け出すのだ、と眼を輝かせて訴えるのが常だ。
でも私には合わないし、キャラでもない。私は、他人に助けられることがこの世で一番嫌いなのだ。
「自分の力で立ち上がれ」
それが信条だ。
ビートバンを使わなかったせいで、小学校の頃は「泳ぐ」という経験が無かったが、そのおかげで運動というものと離れた道を選び、今の仕事に就くことに繋がった、とも言える。
己の欲せざるところ、人に施す勿れ。
私が患者だったらそんなことをされたくないから、患者が一人で立つのをじっと待っている。
ただ無言で見続ける。それが自然というものだ。
患者を見殺しにしていると、ある仲の良い外科医に言われたこともあったが、もうそんなことも言われなくなった。
諦めという人間のシステムに、感謝せねばなるまい。
その日に来た男も、他の患者とは一切変わりの無い、ただの精神病患者だった。
看護婦が先導しながら入ってきた症例は、楽しいことに、私の診察を受けるために目隠しをしてきた最初の患者だった。
「田中田です」
彼は周囲を確認するように、目隠しを恐る恐る外しながら名乗った。
初見の感想で悪いが、新人サラリーマンと言ってしまえばそれで描写が完了するような、世の中に大量生産されている人種だった。
街で見かけても記憶からすぐに消されてしまうくらいの平凡な顔に、短髪、スーツ、ネクタイの3点セット。
唯一平均から外れているのは、肩凝りの様に強張った表情くらいだろう。
「へぇ~。上から読んでも下から読んでも―」
「田中田、です」
それはもう何万回も聞いているとばかりに、苦笑いしながらタイミング良く被せて来た。
「え? おかしいですよ。下から読んだら『だかなた』さんじゃないですか」
そんな要らないツッコミを入れるのは、看護師の水班寺だ。
自称、容姿は中の中の上。それで謙遜しているつもりだが、私に言わせればそれで妥当だ。
一応の仕事はやってくれるが、それ以上はやらない。適当とマイペースをかけ合わせたような、そんな20代女子だった。
「漢字だ、漢字」
私がそう言って、やっと合点がいった、という顔をしている。
こういう時に恥じらいでも見せれば、もう少しマシに感じるのだが、こういう時だけ頭が活発になるようで、瞬時に記憶を無くしたかのように、スイッチが切り替わる。
「そうそう。私も名前でイジられるんですよ。中学の時は、水班寺だから『炊飯ジャー』ってアダ名だったんです。お仲間ですね」
あっさりと言うが、それが内心では深い傷になっているのではないかと、思わず勘ぐってしまう内容に、田中田は少々困りつつ「えぇ」と肯定した。
「さ、そんなことより本題に入りましょう。一体、どのような症状でしょうか?」
看護婦から手渡された、診察の前に簡単な症状を書いてもらった用紙の「具体的な症状」の項目へ、黒眼だけを向ける。
「暗い気分だ」「やる気が出ない」「イライラする」
見ているだけで、こちらが精神病に汚染されそうな語句が並んでいるが、残念なことに、私はもう慣れた。
一つ一つ、項目の脇の無機質な□に目を這わせるが、そこに「へ」の字を逆立ちさせた、テスト用紙では見たくない、あのチェックマークは見当たらない。
大抵の症例がひっかかる数多の問いをパスして、最後の□に唯一チェックが入っている。
まるで私の張り巡らせた設問にバツを付けられたような思いで、「その他(症状をご記入下さい)」の下に躍るボールペンの字を黙読する。
と同時に田中田の口からも、私の脳に送られた文字情報を読み上げるように、英語を直訳した感じの慣れない日本語が流れ出た。
「私は、ドアが怖いです」
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