前編
磨き上げられた大きな窓から、都会のきらびやかな喧噪が見える。
地上の明かりが濃紺の夜空を浸食しようとしている。
小さな、本当に小さな星の光が、その手から逃げようと、か弱い明滅を繰り返した。
私はシャワーを浴びたての火照った身体の上から、日本の着物と言われるガウンを羽織ると、胸の下あたりでゆったりと紐を結んだ。部屋のコーナーにあるスタンドの明かりをともすと、外からの青白い光に満たされていたリビングは、やっと暖かさを取り戻す。
私は再び窓をみやる。
そこには細い身体に異国のガウンを羽織った自分が、ものうげな表情で立っていた。
仮住まいのアパートメント。
すべてが仮しつらえで、すべてが中途半端。
とにかく広いリビングは、自宅にはないようなモダンな家具がおかれている。キッチンにはお気に入りのカップも、調理器具も何一つない。
部屋は汚れることもないけれど、毎日ピカピカに磨かれて、立ち入ることも躊躇するほどだ。
ここは自分の住まいではない。
どうしようもなく、落ち着かない毎日だった。
それもそのはず。
遠くこの地に滞在し、これから過酷な撮影が待っているのだ。
私に演じきれるだろうか。
人々からの期待の視線に笑顔を返しながらも、本当は泣き出したいほど不安でならなかった。
唯一の救いは、彼が、あのちいちゃかった彼が、私と一緒に出演すること。
彼が見事役を射止めたとき、彼に賛辞を送るとともに、神に感謝したのだ。
ありがとうございます。
私は一人きりじゃないんだわ。
そこにドアベルの鳴る音。
私は自然と笑みがこぼれた。
髪を右手で整えると、ドアの方へと赴き、ブルーの扉を静かに開いた。
そこには彼。
グレーのチェックのシャツをデニムに押し入れて、その上からコートを羽織っている。
若々しく、そしてエネルギーに溢れたその顔が、ぱっと光り輝いた。
「遅くなっちゃった。」はにかむように言うと、彼は部屋へと入って来た。
コートを脱ぎ、ソファーの背もたれにかける。
「何か飲む?」私が訊ねると、彼は「じゃあ紅茶を。」と答えた。
私はどこに何があるのかわからないキッチンで、どうにか暖かな紅茶を入れると、リビングのテーブルへと持っていく。
彼はソファに座り、手に持っていた台本を読み始めている。
「暗いわね。」私はそう言うと、テーブルの手元を照らすスタンドのスイッチを入れた。
私は彼の真向かいに座り、熱心に台本を読む彼をしばらく静かにみつめる。
くつろぐには少々スタイリッシュすぎるそのソファに座る彼は、私の知っている少年ではもはやなくなっていた。
自身の信念に基づき、努力し、成功を手にいれようとしている。
いつのまにかぐんと伸びた身長と、長い手足。
シャツの襟口からのぞく鎖骨から、繊細ではあるけれどがっしりとした首が伸びる。
褐色の肌は、内から溢れ出るエネルギーで、つややかに光っている。
彼は視線に気づいたのか、顔を上げて私をみた。
そして恥ずかしそうに、再び笑う。
その笑顔は、でも、昔と変わらなかった。
彼は落ち着かない様子だ。
「ねえ、ここ、あなたの考えを聞かせてくれない?」彼はごまかすように、私に台本を指し示す。
私は彼の側により、カーペットの上に座り込んだ。
ソファに座る彼を見上げると、彼はまた恥ずかしそうに視線をそらす。
私は彼の手元を覗き込む。
自然と彼の膝に手をおいた。
すると彼がびくっと緊張したのがわかった。
「どうしたの?」私は優しく問いかけた。
「・・・ううん、いや、なんでもないよ。」彼の視線は台本と私の手と、そして胸元を彷徨っているように感じられた。
「明日も早いのに、どうして来てくれたの?」私は言った。
「だって、あなたが来てほしいって言うから。それに撮影に入る前に、もう一度あなたとこの映画について話してみたいって、そうも思ったし。」彼は私の顔を見ない。
「ねえ、こちらを見て、話をしてよ。」私は彼の頬を触り、そっとこちらを向かせる。
こちらを見下ろす彼の顔は、困惑し、動揺し、そしてそれを恥じているかのようだった。
「あなたはどうしてぼくを呼んだの?」
「どうしてかしら・・・」私は彼の頬にあてていた指をそっと唇の方へとずらす。
彼がはっと、身体を離す。
「どうしてかしら・・・」私は中に浮いたままの私の指先を見つめた。
「ぼく、、帰ります。」彼は視線をそらし、立ち上がった。
「行ってしまうの?」私は例えようもない寂しさを感じて、思わず問いかけた。
スタンドの明かりは、戸惑う彼の背中を照らす。
「ねえ、どうして行ってしまうの?」私は再び問う。
「・・・あなたは、とても残酷だ。」彼は振り向き、とてもつらそうな顔を見せた。
スタンドの明かりが、彼の陰を壁にうつす。
ゆらゆらと、二人の間の空気をも、壁に投影しているかのように。
「あなたは残酷だ。ぼくの・・・ぼくの気持ちを知っているのに。」彼が悔しそうに言った。
責めるような目で見つめる。
「あなたはぼくの気持ちに応えるつもりなんかないのに、こうやってぼくを引き止める。」彼が再びうつむくと、私はしばらくその姿を見つめた。
何度も彼は私に愛を告白した。
少年に特有な、一途で、夢中で、ひたむきな、熱い思い。
彼の私に対する気持ちは、いつしか消え行くものだと思った。
いつまでも少年ではいられない。
大人になれば、私の存在が情熱の対象ではないということぐらい、わかるはずだった。
でも、彼は今、少年から青年へと成長しようとしている、その瞬間にさえも、私を必要だと言っているのだ。
私の身体全体が、理性とは別のものに突き動かされる。
愛なのか、情動なのか。
よくわからない。
けれど。
彼をこのまま帰したくはなかった。
私はテーブルのスタンドの明かりを消す。
彼がはっと、顔をあげる。
私はコーナースタンドの明かりも消した。
リビングは再び、窓からの青白い光に満たされる。
車のクラクションの音が、遠くで鳴っている。
私は彼の手をとって、キッチン脇の真っ白なスライドドアを開き、彼をベッドルームへと誘った。
彼の緊張がピークに達しているのがわかる。
ベッドルームもリビング同様、大都会の青白い光の終着点となっていた。
月光とは異なる。
でも神聖な光。
彼は扉のところで立ち尽くしている。
私は窓を背に、彼の方を向いた。
彼が私の姿をじっと見つめている。
身動き一つしない。
私は紐をほどくと、肩から着物を外し、床に落とした。
私は下着をつけていなかった。
彼が息をのむ音が聞こえた。
そしてあわてて目をそらす。
「ガウンを着て。だめだ、そんなこと。」彼は手で自分の顔を覆い、首を振った。
「こちらを見て。」私は言った。
「だめだよ。お願いだから。」
「見て欲しいの。私を全部。」私は彼に静かに歩みよる。
その気配を感じてか、彼が後ずさりした。
私は彼の手を取り、こちらを向かせる。
「目を開いて。さあ。」私がささやくと、彼は恐る恐る目を開き、私の顔をみる。
そして「ああ」と小さくため息をついた。
私はそんな彼の姿を見ると、身体中に血が巡るのを感じた。
「いいのよ、手を触れても。」私は彼の手をとると、自分の胸にそっともってゆく。
すると彼は手を振りほどいた。
「大丈夫。怖がらないで。」私は彼の両頬を手ではさみ、キスをした。
ゆっくりと、時間をかけ、彼の唇を開かせる。
すると彼は徐々に自制心を失っていく。
乱暴に私を抱きしめると、唇をむさぼりながら、ベッドへと倒れ込んだ。
けれど私を見下ろすと、とたんに我に返る。
「だめだ。いけないよ。手が・・・手が震えて・・・。」彼が私から身体を離し、枕に背を預けて、こちらを見上げる。
確かに手が震えている。
「怖いの?」私はその震える手をそっと握り、優しく問いかけた。
「ああ、だって。こんなの、できないよ。無理だよ、ぼくには。」彼は今にも泣き出しそうだ。
「ぼくにはできない。あなたに、そんなことできないよ。ひどいこと。」彼は再び手で顔を覆う。
「ひどいことなの?」
「そうだよ。ひどいことだ。恐ろしいことだよ。男女が何をするかは知っている。でもそんな必要はないだろう?そんなことしなくても、魂と魂は結びつけられるはずだよ。」
私はしばらく彼の手をなでる。
「怖がることではないわ。愛し合う男女なら、必ずすることよ。」
「でも女性は悲鳴をあげる。」彼は私にすがるような眼差しを向ける。
「大丈夫よ。そんなことないわ。」
「・・・ぼく、したことがないんだ。」彼が私から視線をそらす。
「わかってる。大丈夫よ。共にゆきましょう。」私は彼のおでこにキスをする。
「だからもっと、私にあなたを見せて。」私は彼のシャツのボタンに手をかけた。
<つづく>