遮相
【遮相】
私は、嘯くという行為に対して嫌悪感を感じ、それを嘯くという単語如きに収めることに嫌気が差している。古今東西、最近の世界には価値を語る者が多くいる。私は彼らを、この32年という年月を経て老いた視野が瞳を通して見ている。そして、遮相というのは私の造語である。私はこれに、人間が語る価値と美醜を否定し、遮断するという意味を込めた。遮相は、私の類義語でもある。樋波と古くから呼ばれていたこの土地では、近々急激な成長を遂げている。駅の前で現在尚、がちがちと金属音を耳鳴りのように常日頃聞かせている工事現場では大きなデパートを作るらしい。ある時、私はその前を通った。自転車がじゃりじゃり音を立て私の真横を通る。
「もう、あるじゃないか、すぐそこにさあ」
中年の男、私と似た年代の人間がそう嘯く。彼とは分かり合えないようだ。先ず私が、価値に関しての思考が他人との食い違いが起こるような人間だということは自覚している。ただ私は、価値に対しての価値を疑っているだけだ。男の言葉は昼暮の風に吹かれて凪いだ。彼は恐らく、新築のデパートができることにより土地の価値が上がり、自身の後の生活に何らかの潤いがもたらされることを幸福と確信しているのだろう。或いはブランドの看板を見て、知ったような顔で美醜を嘯くのかもしれない。無知という他ない。彼らのような者どもがどれほど熱を込めて語ろうと、その男が語るデパートが握る価値は、思い込みにラベリングされた虚妄に過ぎない。私は季節外れの黒のパーカーから顔を出す手で、背負うリュックに手を差し、仮面を確認する。穴のない薄っぺらで月の様に真っ白の、仮面を。
午前3時、夜が来ていた。樋波から嘯きが消え去り、ただ静まり返る時間になる。私は周囲に誰もいないことを確認し、仮面を取り出した。これは私が盗人となる合図のようなものでもある。私の盗人の姿はニュース番組では白い泥棒と意訳されている。4月上旬の今日はとある家の写真立てを盗む。写真は盗まない。私にはそれに嫌悪感を自然と感じてしまうからだ。敢えて言えば、嫌悪感を感じる自分が嫌いだからだ。私は窃盗行動を、得体の知れない空白感と虚実感のような、ただ何かを失い続けた感覚の埋め合わせのため6年間行なっている。その家は一人暮らしでアパートの2階にある。窓に鍵がかけられていないことは既に確認していた。磨り硝子を静かに開き、目の前にある写真立てを後ろから盗み取る。写真は裏返しのまま置いた。窓を颯爽と閉め、私は家への帰路を辿る。写真立ては木製で、濃茶を基調としたシンプルなものだった。だからいいのだ。私には派手な物や色や写真は不要だ。ふと溜息が漏れる。体の芯の重みが吐き捨てられる。上を見る。月がそこに浮いている。右半分が欠けている。昔から月になりたかったことを思い出す。月には知能がないが、やることもない。彼は広い宇宙の中で、地球という枷に縛られてしまい、公転しているだけだ。枷は決して壊せず、解放されるには他人からの隕石のような攻撃による他殺だけだ。不自由な者から見る自由はどれ程魅了され、価値があるのだろうか。私はこの月をいつか忘れてしまうのだろうか。そうしたら、私にとって月とは、価値がないものなのか?
5月になった。無職の私は、6年間盗んだ金のみで生きている。私はまた、駅前の工事現場を通っていた。
「昨日さあ、青夢っつー絵画が4億で落札されたらしいぜ」
「馬鹿じゃねえの?」
「そりゃあお前には分からない世界だからなあ」
嘯く者を見た。人間とは言葉の寄せ集めで作られたものだ。だが人が生きると自然と知能が混在する。それが仇となり、精神に傷をつけるナイフとなってしまう。「お前には分からない世界だ」みたいに自分を大きく見せ、不意に傷つけた人の心の姿を直接その目で見れないからといって只管人を侮辱する。その上犯した行為に対してすっとぼけ、知らぬ顔でまた口を窄め嘯く。逆にそれが人を人たらしめる闇のような存在なのだろう。闇は光を引き立てる。悪く言えば自身より下の存在に嘲笑し優越感に浸るようなものだ。彼が言った青夢という絵画はウェーバー・アロイスと呼ばれる西ドイツの絵画の1人だ。彼のことを別の絵画である橙蝶という作品に私は惹かれ知った。橙蝶という題名だが、神秘的な小川と木漏れ日が描かれている。蝶はいない。彼曰く「題名は必ずしも作品を指すとは限らない。題名というのは心の代弁でもある」らしい。森の姿と、ふと見えた空想の蝶の美しさ。その衝動を込めて彼は筆を動かしたらしい。橙蝶も盗もうとしたが、美しさに捻られ、手も足も、声すらも出なかった。
くそ、しくじった。今日は指輪を奪ったが、近くに交番があることを忘れていた。私は仮面を嵌めて警察から逃げている。20分以上も逃走を続け、息が切れ始めた。裏路地を駆け抜け、気づけば私は沿岸へと出ていた。
「止まれ」
唾を撒くように警察へ叫ぶ。彼らは従う。一呼吸置く。そこで気づく。この釣り場を埋め尽くす程の観客がいたのだ。私を呼ぶ声がする。声は反響し燐光のように残る。私はショーをしている気分だった。
「今日は何を盗んでやったんだ、白い泥棒」
私は可笑しくなり、盗んだ指輪を見せつける。歓声が湧く。だが、もう終わりだと悟った。私は月になりたかったが、水屑にもなりたかった。水屑はときに物を飾り、ときに物を汚す。気まぐれで、私に似合う。だがお前らは万物を美しいと崇め、またゴミだと貶める。自分が世界の価値を決めているつもりでいる。滑稽だ。お前たちが生きているのは純粋な”無値”の世界だ。そしてそれに気づきもしないお前たちを私は、”無知”と呼ぶ。
「お前ら、バンクシーを、知っているか」
釣り場は急に静まる。漣がそれに添えられる。
「彼は絵を描くが、それは風変わりな”絵”だ。絵に価値をつけるのは常に第三者のお前らだ。だが、第三者に価値をつける価値が在るという常識が在るのが可笑しいのだ。絵を描くがそれは犯罪だ。変動する感想をつける奴らに価値をつける価値は存在しない」
私は両手を広げ、呻き嘯く観衆を鼻で笑う。
「さようならだ、世界、そして、無値で無知たる人どもよ」
私は重心を後ろにする。水へ落ちる。表面が弾け、衝撃に気を配ることなく、海中へ溺れる。歓声が反響して聞こえる。人。価値。もううんざりだったのだ。月が離れていく。私はずっとあなたになりたかった。価値の存在に縛られ、私は息苦しかったのだ。泡が浮かぶ。それを掴もうとする。突き抜けて弾ける。月があった。遮る雲はもうなかった。
そして、水屑となった。
「樋波の怪盗こと”白い泥棒”、彼の穴のなき仮面”白鯨、満月”!さあ、500万から!」
地下ではオークションが開催されていた。私の仮面は白鯨と満月という勝手に着飾られた2つの名前で争われている。どうにも気に食わない。私は価値から逃れるため水屑となり溺死した。だが今はどうだ。価値のない美しさを貼られた無機質な物に価値をつけ財産で戦っている。価値をつける人を否定する私につけられた価値に嫌悪感を感じる。気づけば競り槌が鳴り、仮面は1880万で落札され、見るからに金のある肥えた男の手に渡った。「仮面の白さは彼の虚無の表れだ」「死を以て芸術を完成させた」彼は嘯く。しかし私の真意には誰も気づかない。理解した振りをして価値をつける、人を人たらしめる習性が招いた結果だ。後に男は特定した私の部屋を不躾に探り、私が盗みを始めるきっかけである6年前に家族を失ったこともバレてしまった。勝手に貼り付けた価値や美醜を否定して遮断したかったのに。私は遮相を目指していたのに。
遮相を目指した私は、いつしか価値に溺れていた。
お読みいただきありがとうございます。
まだ中学三年生なので足りないところは多いと思いますが、そこは多目に見てください




