地味令嬢は反論したい
春のシーズンは、恋の季節の始まりでもある。
今夜の舞踏会も、令嬢たちは華やかに、令息たちもまた精一杯紳士的に着飾って、あちらこちらで社交に勤しんでいた。
その片隅で。
「ロゼ様、ご覧になりました? あの方の今夜のドレス」
「わたし、うっかり目が離せなくなってしまいましたわ。あの古くさいお色に、野暮ったいデザイン。いったい何十年前のものなのかしら」
「まあ! ふたりとも、そんな風に言っては失礼だわ」
開いた扇に歪んだ口元は隠されているけれど、嘲りの声と視線はまっすぐこちらに向けられているのがわかった。
今まさに陰口を叩いているその相手がカーテンの裏にいることを知っていて、わざと聞かせているのだ。
「物持ちがよくていらっしゃるのよ。さすがはベルツ公爵家だわ、由緒だけは正しくていらっしゃるのだから。それに、ご自身によく似合う地味――いえ、落ち着いた色合いを選ばれているのも素晴らしいじゃない」
「ふふふ、本当に」
「ロゼ様ったら、お上手ですわね」
囀る令嬢たちの声は可愛らしいけれど、その内容はちっとも可愛らしくなんかない。
(気にしては駄目よ。いつものことじゃない。)
十五歳で社交界にデビューして、今年で二年。夜会の度に、あちらこちらで嗤われてきた。
だからもう慣れたものなのだ。いつものことだから。
胸の内で自分に言い聞かせるけれど、みじめな気持ちになってしまうのはどうしようもない。
栗色の髪も琥珀色の瞳も、金の髪や碧の瞳と比べたら地味なのは本当のことだから。
シェルリーヌ・ベルツはカーテンの陰に身を縮めるようにして、唇を噛んだ。
握りしめた扇が小さく軋む。
(フォンド伯爵家のロゼリア嬢に、お友達は子爵家の方々ね。)
彼女たちは先週の夜会でも同じようにシェルリーヌのドレスを嘲笑していた。
他人の装いを嗤うだけあって、新興の伯爵家のご令嬢とその友人たちは皆、流行のドレスに身を包み、煌びやかにその身を飾っている。
(『由緒だけは正しくて』なんて嫌味……身分ならわたくしの家のほうが……いえ、そんな風に考えるのははしたないわね……。)
家格だけで比べるならば、公爵家が伯爵家に劣るはずがない。
しかし現在のベルツ家は、公爵位でありながらも、この『公爵位』を理由に他家から軽んじられてしまっているのだ。
シェルリーヌ・ベルツは、ベルツ公爵家、百三十二代目当主の第一子長女として生まれた。
五歳下に弟がいるため嫁入りが決まっているのだが、それはともかく。
貴族家としての興りは古く建国時に遡るベルツ家だが、元々あまり欲のない性質の家系だったこともあって、代々権力の中枢から少々離れたところにある。
貴族にしては温和で、立場は常に中立。だからこそどこからも問題視されることはないが、重用されることもない。そんな家なのだと周知されていた。
であるからして、元からあまり力がない。
ついでに金もない。
何故ならば家訓が〝ノブレス・オブリージュ〟であるため。
(貴族たるもの、私利を貪って私腹を肥やすなんて見苦しいもの。余裕はすべて寄付にまわすのがわたくしたちの義務よ。)
その上さらに二代前に降嫁してきた王女が大層問題のある人物だったことが追い打ちをかけて、家の権威を大いに失墜させた。
ベルツ家を公爵という位へ押し上げた、本来ならば名誉あるはずの出来事なのだが……それこそが今、シェルリーヌに謂れなき屈辱を味わわせている〝理由〟である。
降嫁してきた王女は、名をアロガンテといった。
シェルリーヌの祖母にあたる人物だ。
彼女、アロガンテは絵に描いたように傲慢で強欲な女性で、ベルツ家に嫁いでくるまで数々のトラブルを巻き起こしてきたことが広く社交界に知れ渡っていた。
たとえば、自身の容貌を褒めなかったというだけの理由で、難癖をつけて古くからの忠臣であった宰相家を降爵したり。お気に入りの宝石が産出される鉱山を無理やり献上させたことで、とある伯爵家を没落に追い込んだり。
とはいえ、そんな人物でも王族は王族。嫁ぎ先はそれなりのところじゃないと……と頭を悩ませた当時の国王が閃いてしまったのだ。
そうだベルツ家があるじゃん! と。
そうして力がないゆえに断るという選択肢を持てなかったベルツ家は仕方なく王女の降嫁を受け入れ、以来、である。
〝あのアロガンテの嫁いだ家〟というレッテルが〝公爵〟という位を上回って各貴族家を遠ざけ、体のいい厄介払いを済ませた王家も同時に面倒ごとはご免だとでも言わんばかりにベルツ家から遠ざかった――ということになっているのであった。
表向きは。
(ほんとうは、わたくしがもっと毅然とできればいいのかもしれないけれど……。)
温かな家族や使用人たちによって大切に守られてきたシェルリーヌはベルツ家らしい穏やかな気質を生まれ持っており、おっとりのんびりした性格に育った。
髪や瞳の色に派手さはないが、垂れ目がちな瞳は親しみやすく、ふっくらした頬は愛らしい。
公爵令嬢として、黙って佇んでいても隠し切れない気品が滲み出てしまうし、手本になれるくらい所作も綺麗だ。
それでいて争いごとは苦手だし、自分が我慢することで丸く収まるならば、それでいいと思ってしまう。
だから初めて社交界に足を踏み入れて、キラキラしい令嬢たちに正面から嘲笑を投げかけられたときには驚きつつも、曖昧に微笑んで濁してしまったのだ。
たぶん、それがよくなかった。
最初にきっちり彼女たちと線引きができていたら、こんな風に夜会の度に絡まれ、侮辱されることもなかったろうと思う。
けれど、今さらだ。
同じ時に戻ってもきっとシェルリーヌは同じ対応をしてしまうだろうし、嗤われていることがわかっていても、苦言を呈するよりも隠れてやり過ごすことを選んでしまう。
辱められることを決して良しとしているわけではないが、どうしていいのかわからない。
もともと朗らかだったはずの彼女は、この二年の間にすっかり自信をなくして内気になってしまっていた。
(たしかにベルツ家にはお金がないけれど、でもこのドレスはとても素敵なのに。だって、おばあさまのドレスを手直ししてもらったアンティークドレスなのよ?)
今日のシェルリーヌが纏っているのは、大好きな祖母がシェルリーヌに似合うからと自らの娘時代に着ていたドレスを仕立て直してくれたアンティークドレスなのだ。古くさい色だの野暮ったいデザインだのと言われたが、そんなことはない。最近の流行とは少し違うスタイルではあるものの、伝統的で、きちんと公爵家に相応しい品位を感じさせるドレスだと思う。
ひとしきりシェルリーヌをこき下ろして満足したらしい令嬢たちがよそへ目を向けた隙にこそこそとカーテンの陰から滑り出たシェルリーヌは、そっとドレスの袖を撫でた。
多くの貴族たちが、その名を聞けば顔を顰める。けれど悪名高い祖母のアロガンテのことが、シェルリーヌは大好きなのである。
いつも背筋をピシッと伸ばし、顎をあげている祖母の威厳ある姿はとても美しいと思う。
髪も瞳も祖母と同じ色を受け継いでいることは、シェルリーヌの細やかな誇りだ。
(それなのに、わたくしは駄目ね……。)
しゅんと落ち込みながらも、早くも疲れてしまったシェルリーヌはうっそり溜息をひとつ。先に帰らせてもらおうと、共に夜会に参加している三歳年上の婚約者を探して歩きだした。
シルバーブロンドの髪に緑色の瞳をしたシェルリーヌの婚約者、トレイド・アンフィデイルは、端正な顔立ちと華やかな色彩も相まって人目を惹く。
人の少ない壁際から広間の中央へ向かうと、入場直後から別行動をしていた婚約者の姿はすぐに見つかった。案の定、多くの男女に取り囲まれている。
シェルリーヌですら彼が笑うところは見たことがないのに、折り目正しい態度が好感を持たれるのだろう。クールで近づき難い雰囲気にも関わらず、トレイドは不思議と交友関係が広い。
見目の良さに加えて、現宰相家であるアンフィデイル侯爵家、その嫡男という身分も魅力に映るのか。シェルリーヌという婚約者がいることを知りながらも、あわよくばと狙う令嬢もまだ多いらしい。
それにしても、トレイドを囲む人の壁が厚すぎる。これではこっそり声をかけることもできないなと困っているうちに、ふと、婚約者の右側にいる令嬢と彼との距離が妙に近いことに気がついた。
角度を変えて覗いてみると、どうやらその令嬢はトレイドの腕に手をかけているらしい。
その距離が許されるのは、婚約者か身内くらいのものなのだが。
(どなたかしら……?)
綺麗なピンクブロンドが目を惹く、愛らしいという表現が似合う可憐な令嬢だが、顔に見覚えはない。アンフィデイル家の縁戚の娘だろうか。
近すぎる距離感が少しばかり気にかかるが、親戚筋の者ならば特に問題はない。夜会の場で偶然出会ってそのとき限りのエスコートをすることは珍しいことでもないからだ。
(そんなことより、どうしましょう……。)
先に帰るには、トレイドに声をかけないわけにはいかない。
だけど、あの人垣に割って入る勇気はない。
いくらか離れた場所で足を止めて逡巡していると、気配を感じたのか、首を回らせたトレイドがシェルリーヌに気づいた。
周囲の人々に何事か声をかけ、優雅な足どりでこちらへ歩み寄ってくる。
「どうされました、シェルリーヌ嬢」
相変わらずにこりともしないし、声音も冷たい。けれどシェルリーヌに向けられる言葉遣いは、いつもとても丁寧だ。
「お話しのところをお邪魔してしまってごめんなさい。わたくし、少し疲れてしまったので先に帰らせていただこうかと思いましたの」
「それは気づかず、失礼しました。では馬車までお送りしましょう」
「ありがとうございます、トレイド様」
五年前の婚約が結ばれたばかりの頃は冷ややかな彼に戸惑いもしたが、笑みがないだけで、彼はいつもシェルリーヌを気遣い、婚約者としての義務をきちんと果たしてくれる。
だからシェルリーヌがトレイドに信頼を寄せるまで、そう時間はかからなかった。
どんなふうに嗤われたとしてもトレイドの顔を見れば安心できたし、夜会への参加は彼のためなのだと思えば辛くとも欠席しようという気持ちにはならなかった。
これまでは、そうだったのだ。けれど……。
「あの……申し訳ありません、トレイド様」
不意に口を衝いた謝罪の言葉に、傍らの気配が動いたのを感じる。
真っすぐ前を向いて歩いていたトレイドが、シェルリーヌを見下ろしたのだ。
「わたくし、ちっとも社交のお役に立てていなくて……」
彼の会話を中断させてしまったことも申し訳なかったし、夫人として未来の侯爵家を共に支えるための社交を満足にこなすことができない自分も情けない。
自然と俯きがちになるシェルリーヌに、淡々とした言葉が返される。
「シェルリーヌ嬢は、そのようなことはお気になさらず」
彼なりの気遣いのはずなのに、どうしてかこのときは突き放されている気がしてしまった。
自分でも知らぬうちに胸のうちに溜まった何かがあったのかもしれない。
二年前からずっと蟠っていた哀しみや辛さが、つい溢れてきてしまう。
「人脈を作るどころか、むしろその、あれこれ言われてしまって……わたくしの、あの、見た目が地味であることなどを……」
「ああ、色味のことですか」
「え、ええ……」
「色の与える印象は仕方ありません。聞き流しておかれればよろしいかと」
婚約者に対する侮辱だと、共に怒って欲しかったわけじゃない。
あなたの色も素敵だと、今まで一度も聞いたことがない褒め言葉を口にしてくれるかも、なんて浅ましいことを願ったわけでもない。
ただ、ほんの少しでいいから慰めて欲しかった。
それなのにあっさり「仕方ない」と片付けられてしまったことで、シェルリーヌの目元にじわりと涙が込み上げてくる。
「それに、わたくしのドレスのことも……あの、古くさいなどと……」
「ベルツ公爵家の名がそうさせるのです、仕方がないでしょう。シェルリーヌ嬢がお気になさることはありません」
「そう、ですわね……」
これ以上口を開いたら、なんとかギリギリのところで押し留めている涙がこぼれてしまいそうだ。淑女として、人前で涙を見せるなど、はしたない真似はできない。
シェルリーヌはきゅっと唇を閉じた。
それきり黙ったまま馬車までエスコートを受け、「お気をつけて」という短い言葉を残したきり馬車の出発を待つこともなく夜会の会場へと踵を返した婚約者の後姿を見送って、シェルリーヌは邸へと帰った。
それからもいくつかの夜会へ婚約者と共に出向き、合間にトレイドからの誘いでアンフィデイル家へお茶会に出向いたりしたが、会話はまったく弾まない。
今までどうしていたのだろうと思うくらい気づまりな時間が流れるばかりで、シェルリーヌはますます俯きがちになっていく。
しかしトレイドには気にする素振りもなかった。
(トレイド様は信頼できる方だと思っていたのだけど……この方の目に、わたくしは映っているのかしら……?)
丁寧だと感じていた言葉遣いは、よそよそしさに。
折り目正しい態度は、無礼な慇懃さに。
冷ややかな表情は、シェルリーヌへの関心のなさに。
一度疑問を抱いてしまえば、婚約者の言動すべて、シェルリーヌが良いように思い違いをしていただけなのではと感じられてしまう。
のびやかに育てられたシェルリーヌは素直な性質で、だけど決して頭が悪いわけではない。
(わたくし、ほんとうにトレイド様の妻になるのかしら……。これほど軽んじられているのに……?)
未来への疑いが芽生えてしまったら、社交の場はますます苦痛なだけになった。
何のために我慢をして、何を頼りに立てばいいのか。
思い悩みながらも季節は止まることなく過ぎていき、春の淡さが薄れ、緑に初夏が薫り始めるころだ。いくつめかの夜会に出席したシェルリーヌは、いつも通り会場に入ったところで別行動を切り出し離れていく婚約者の背中を、疑念を持って見つめていた。
(思えば、これもおかしいのではないかしら? トレイド様は、いつも入場すると同時に離れて行ってしまわれるけれど……。)
普通、婚約者同士ならば揃って社交に臨むものではなかったか?
最初に出席した夜会で別行動を切り出され、そんなものかと肯いてしまったがためそれ以降は同じようにしていたのだが。
(たしか、挨拶回りに付き合うのも疲れるでしょうから、と言われたのだったわ。でも、皆さまにご挨拶するのも社交よね?)
どうして今まで気づかなかったのだろう。
不慣れなシェルリーヌを気遣ってくれているのだとばかり思っていたけれど、そうではなく、体よく追い払われていただけなのかもしれない。
考えているうちに、トレイドの姿は着飾った人波のなかに呑まれていってしまった。
仕方がないからいつも通り壁の花になって過ごそうと会場の隅のほうへ向かいかけたところで、シェルリーヌは小さく呟いた。
「それでは駄目だわ」
このままではよくない。
いつもと同じことを繰り返していても、もやもやしたまま時間が過ぎるだけだ。
追いかけよう、と思った。
婚約者の挨拶回りに同行することは、義務でもあるし権利でもある。そのはずだ。
意を決したシェルリーヌはくるりと踵を返して、トレイドが歩み去ったほうへと足を向けた。
(それほど経っていないのに、すっかり見失ってしまったわね……。)
今夜の主催は、ベルツ家ほどではないものの歴史の長い侯爵家だ。おかげで王都に構える邸も広く立派なら、夜会のホールも驚くほど広い。その上、豊かな領地を基盤に手広く展開している事業の業績もまずまずだと評判で、参加者の人数もすごいことになっている。
(どこかしら……。)
いつもより多くの貴族たちが集まっていると、さすがのトレイドもそう目立ちはしない。
シェルリーヌはしばし、人込みの中を彷徨った。
ご婦人方の香水やアルコールの匂い、それに人いきれで気分が悪くなりそうだと思ったとき、バルコニーの近くに見慣れたシルバーブロンドの頭を見つける。
近づこうとして、思わず一歩引いたシェルリーヌは慌てて人の影に身を隠した。
トレイドを囲んでいたのが、苦手なロゼリアたちだったからだ。
顔を合わせる度にシェルリーヌをやり玉に挙げては嫌な笑い方をする令嬢たち。それに加えて、いつか見たピンクブロンドの可愛らしい令嬢が今日もまた、トレイドの腕に手をかけて寄り添っている。
「身の程知らずとは、このことですわね。あんな身なりでトレイド様の横に立とうだなんて」
「本当に厚かましいですわ」
「いくら由緒正しい公爵家でいらっしゃるとは言っても、あれでは、ねえ」
いつもの面々が口々に言えば、べったりと甘えるようにトレイドの腕につかまっているピンクブロンドの令嬢も続けた。
「トレイド様、お可哀そう」
媚びを含んだ声色は髪色と同じように甘く胸が焼けそうなほどなのに、ロゼリアたちは一斉に大きく頷いた。
「ええ、本当に。エスコートなさるのもお嫌でしょう?」
「ご立派ですわ。フルール様という真実の愛のお相手がいらっしゃるのに、ねえ」
「ええ、ええ。あんな方でも丁重に扱っておられるんだもの」
シェルリーヌは片手で口元を押さえてもう一歩、後ろへと下がった。
そうしないと思わず声を上げてしまいそうだった。
フルールという名を聞いて、誰なのかわかった。ピンクブロンドの令嬢はフルール・パルス、伯爵家の令嬢だ。
パルス家といえば、ベルツとは因縁がある。祖母、アロガンテの時代の因縁が。
それにしても真実の愛とは、いったいどういうことなのか。
「あれでも一応は王家の血が入っているのでね、我がアンフィデイル家のためには仕方ないんだ。堪えてくれ、フルール」
シェルリーヌは耳を疑った。
(今の、トレイド様がおっしゃったの……? まさか、嘘でしょう……?)
仕方がない、と言った。シェルリーヌとの婚姻を。
そしてシェルリーヌのことを『あれ』と呼んだ。『あれでも一応は』と。
衝撃に血の気が引きかけていた頬に、今度はカッと血がのぼった。
「もちろん、わかってますわトレイド様。わたし、第二夫人でも平気ですから」
殊勝な口ぶりでフルールが言うと、トレイドが柔らかく微笑んだ。
シェルリーヌの前では一度も頬を緩めたことのないトレイドが、だ。
「すまないな、フルール。おまえには甘えてばかりだ」
すかさずロザリアたちが声を上げる。
まるで悲恋の歌劇を眺めてでもいるみたいに、大袈裟に。
「ああ、おいたわしい!」
「健気に愛を貫こうとするお気持ち、素敵ですわ!」
「わたしたちはおふたりを応援しますから!」
シェルリーヌはそっと後退った。
頭の中も混乱しているし、気持ちはもっとぐちゃぐちゃだ。
悲しいのか、腹正しいのか、よくわからないままその場を後にしたシェルリーヌは、急ぎ足で馬車へと向かった。
今にも叫び出してしまいそうで、これ以上、ここにはいられなかった。
先に帰ると声をかけるマナーすら忘れて馬車に飛び乗ったシェルリーヌは、邸に帰り着くまでひとり、ぎゅっと両の拳を握り締めていた。
固く固く、爪の跡がくっきりと手のひらに刻まれてしまうほど、固く。
「しばらくひとりにしてくれる?」
邸に帰り着いたシェルリーヌは侍女にそう言い置き、部屋に引きこもった。
淑女としては少々はしたないが、ドレスのままボスンとベッドに倒れ込む。枕に顔を埋め、もう泣いても大丈夫よ、と心のうちで自分に声をかけるが、不思議と涙は出てこない。
ただただ曖昧な、なんとも嫌な気持ちだけがぐるぐると胸のうちを掻き乱していた。
(トレイド様は、言伝もなく先に帰ってしまったことを怒っていらっしゃるかしら? ……ああ、いえ、構わないのだったわ、別に怒っていらしたとしても。そんなことより……)
「仕方ない、のですって。わたくしとの婚姻は、仕方がない、のですって」
ふっと乾いた笑いが漏れた。
仕方ない。
思えばトレイドは、よくそう口にする。
だから気にするな、と。
「わたくしとの婚姻も〝その程度〟とお考えだということよね」
王家の血が入っている者をアンフィデイル家に迎え入れることが必要で、それは別にシェルリーヌじゃなくても構わない。
道理で関心がないはずだ。
彼は初めからシェルリーヌを〝人間〟として見てはいなかったのだから。
「だって他に好いた方がいらっしゃるのですものね」
フルール・パルス伯爵令嬢。
パルス家は、アンフィデイル家の親戚筋などではない。かつて祖母のアロガンテが排斥した宰相家の寄子だった家だ。
どういう経緯があって生き残ったのか詳しくは知らないが、いつだったか祖母が強かな家だと評していたのを聞いた憶えがある。
ピンクブロンドの可憐なあの令嬢も強かなのだろう。
だって彼女は『第二夫人でも平気』だと言っていた。
トレイドの口ぶりだと、実現させるつもりなのだろう。シェルリーヌと婚姻を結び、いくらか間を置いてフルールを迎える算段をしているに違いない。
それとも内密に事を進めるつもりだろうか。
わからない。
わからないけれど、シェルリーヌのことなどどうでもいいとトレイドが思っていることだけはよくわかった。
(そういえば……)
いつも嫌味を言ってくるロゼリアたちだが、彼らを応援すると言っていた。もしかしたら夜会の度にシェルリーヌに絡んで来ていたのは、そのせいだったのかもしれない。
「わたくしは、ほんとうに駄目ね……」
初めて正面から向けられた悪意に怯むばかりで、その背後に何か理由があるかもしれないことなど考えてもみなかった。
逃げるばかりで、立ち向かってみようとすらしなかった。そのツケが、今のこの状況だ。
なんだか虚しくて、長らく信頼を寄せていた婚約者の裏切りは、やっぱりとても悲しくて。
なのに何故だか涙は一滴もこぼれないまま、代わりにその夜から、シェルリーヌは熱を出した。
「お嬢さま、少しだけでも召し上がってくださいませ」
二晩経ってようやく熱は下がったが、食欲はまったく湧かなかった。
「お願いですから……!」
という侍女の涙ながらの懇願で、ようやく少しの果実とスープを流し込む。
心配して幾度も訪ねてきてくれた家族たちには、侍女を通して「大丈夫だから」とだけ伝えてもらった。
合わせる顔がなかった。
父も母も、それに弟のニコラスも、皆シェルリーヌの味方になってくれるのは間違いない。それが反対に申し訳なくて、自分が不甲斐なく思えてしまって。
(わたくしは、どうでもいいような無価値な人間なのかしら。トレイド様から、まるまる存在を無視されてしまうくらいに……。)
婚約者としての義務を果たすことに抜かりはないトレイドから三日に一度届く見舞いの花を二回受け取った頃、ようやく部屋から出たシェルリーヌのふっくらしていた頬は少しばかり萎んでしまっていた。
その数日後のことだ。
慌ただしくやってきた先触れの使者とほとんど同時に、大好きな祖母のアロガンテが王都へとやってきた。
「おばあさま!」
「まあ、なんて見苦しいこと! 地を這う虫でも、もう少し静かに動くものですよ。淑女がそのように大きな声を張り上げるなど、はしたない」
使用人たちが急いで玄関前に整列する間を縫って、馬車を降りた祖母へ駆け寄ったシェルリーヌへと厳しい叱責の声が飛ぶ。
けれど次の瞬間には大きく広げた両腕で危なげなくシェルリーヌを受け止め、アロガンテは相好を崩した。
「可愛いシェリー、会いたかったわ。おばあさまに顔を見せて?」
「走ってごめんなさい、おばあさま。大声を出したのも淑女らしくなかったわ」
「それを言うならわたくしも、早くあなたたちに会いたくて、先触れの使者と同時に到着してしまったわ。だから、はしたないのはお互い様ね」
「もう、おばあさまったら!」
真っすぐに伸びた背筋は老いを感じさせず、シェルリーヌを抱きとめた腕も力強い。アロガンテの凛とした美しさは、王女であった頃から少しも変わらないと聞いている。
元王族らしい厳粛な佇まいは見る者を圧倒する風格を感じさせるが、ベルツ家の面々にとっては愛する祖母であり、母であり、義母だ。敬意は払っても委縮はしない。
使用人たちにとっても、それは同じく。アロガンテの出迎えのために整列していた屋敷の者たちは皆、祖母と孫娘の久しぶりの再会を微笑ましく見守っていた。
「お父様は王宮で、お母様はお茶会にお出かけなの。だから今日は、わたくしと、ニコラスしかいないのよ」
「それは間が悪いこと。気が逸ってしまったのだもの、許してちょうだいね」
「おばあさまにお会いできるのは、いつでも嬉しいわ! みんなもそうよ。だから、そうね。きっとお父さまもお母さまも、今日は早く帰っていらっしゃると思うわ」
「あらまあ、嬉しいこと。だけど……」
シェルリーヌの頬をアロガンテの骨ばった手が優しく撫でる。
「少し痩せてしまったのではなくて、シェリー」
言葉にされずとも、慈しむような眼差しからアロガンテの心配が伝わってくる。
それで、わかってしまった。
「おばあさまは、わたくしのために来てくださったのね……?」
それには答えず、微笑んだアロガンテはシェルリーヌの左手を自らの右腕に置いた。
「さあシェリー、使用人に任せてもいいけれど。孫のエスコートを受ける栄誉を、おばあさまに与えてちょうだいな」
「あらおばあさま、エスコートするなら立つ場所が逆よ?」
「それなら、わたくしが可愛い可愛い孫娘のエスコートを任されてもよろしくて?」
「うふふ、もちろん! おばあさまのお部屋は、以前に使われていたときのままよ」
礼節は重んじるけれども堅苦しいばかりじゃない。アロガンテのそんなところも、シェルリーヌが祖母を好きな理由だ。
「まずは急いで旅装を解いてしまうから、その後で一緒にお茶をしてくださるかしら、シェリー?」
「よろこんで! 少し休憩なさらなくてよろしいの?」
「シェリーとお茶を飲むほうがよほど休まるもの」
同じ領地内でも離れた場所に屋敷を建てて暮らしているアロガンテと会うのは、およそ一年振りのこと。積もる話はたくさんある。
宣言通り最速で着替えを済ませたアロガンテをサロンに招き、王都で見つけたお菓子を添えてお茶をするシェルリーヌはしばらくぶりに忘れていた笑顔を取り戻した。
新しいものや珍しいものが好きな祖母のためにと大急ぎで用意した王都のお菓子を、予想通りに喜んでくれた祖母と、家族のこと、領地のこと、こちらで見つけたもの、気づいたことなど、取り留めもなくおしゃべりしながら楽しんで。
一息吐いたところで、カップを置いたアロガンテが背筋を正した。
頬に浮かぶ柔らかい微笑はそのままなのに、そうすると一気に威厳が滲み出る。
「さてシェルリーヌ。わたくしとお話をいたしましょう」
「はい、おばあさま」
とはいえ、シェルリーヌは慣れたもの。臆することなく自然に頷き、同じく姿勢を正して改めて祖母と向かい合った。
それを合図に、優秀な公爵家の使用人たちは静かに部屋を出ていく。
「何があったのか、お話しなさい」
「はい。最初は……そう、デビュタントの直後でした」
無言で耳を傾けているアロガンテに、シェルリーヌはすべてを話した。
熱で寝込んでいる間からずっとぐるぐる考えていたことだから、説明するのも難しくはない。顔を合わせる度に令嬢たちから侮辱されてきたことや、最後に出席した夜会で目撃したこと、そこでの彼らの会話の内容まで、包み隠さずに話す。
アロガンテは途中で目を瞑ってしまったけれど、シェルリーヌの話をしっかり聴いてくれていることはわかる。最後に、シェルリーヌは勇気を振り絞って告げた。
「我儘なのはわかっています。ですが、わたくしは、わたくしを軽んじている方に添いたくはありません。どうしても、あのような方とは……どうしても……ッ」
不意に、瞼が熱くなった。
あの夜以来、今まで一滴もこぼれることがなかった涙が込み上げてくる。
「ごめ、ごめんなさい……っ」
一度決まった婚約を覆したいと我儘を言うなんて公爵家の令嬢として失格だ。
なのに隣に移動してきたアロガンテにぎゅっと抱き締められたら、もう駄目だった。
「よくがんばりましたね、シェリー。存分にお泣きなさい」
「お、おばあさま……うぅ、うわーん!」
なんとか泣き止もうとするが、一度溢れてしまった涙はぽろぽろとこぼれるばかりで止まらない。シェルリーヌは声を上げて泣きじゃくった。
トレイドとは婚約者として五年も共に過ごしたのだ。心はまったく通っていなかったと知ってしまったけれど、嬉しかったことや、楽しかった思い出だって決して少なくはない。
「ねえシェリー。あなたの細やかな心遣いは、いつもわたくしを喜ばせてくれるわ。あなたの何事をも穏やかに受け入れる寛容な心は、どんな宝石よりも眩く尊いもの。愛しい孫娘がこれほど慈しみ深く育ったことを、わたくしはいつも天に感謝していてよ」
抱き締めたシェルリーヌの頭を撫でながら、アロガンテが柔らかな声で囁く。
その声を聞いているうちに、昂ったシェルリーヌの気持ちも落ち着いてきた。同時に、子どもみたいに泣いてしまったことへの気恥ずかしさも戻ってくる。
「わたくし、淑女としても失格だわ……」
「ここにいるのは、ただの老婆とただの少女。淑女の仮面は一時、忘れておしまいなさい」
「おばあさま、お怒りにならないの……?」
ぐす、と鼻を啜りながら顔を上げたシェルリーヌの目に映ったのは、予想していたのとは違う祖母の表情だった。思わずぎくりと身体が強張る。
「もちろん怒っていますとも」
静かに、けれど低い声でアロガンテが言う。
「わたくしの大事な孫をこうも侮辱されて、黙っておれますか」
「え、と……あの……わたくしのことは……?」
「まあシェリー。あなたのどこに悪いところがあって?」
これまで見たことのない、それはそれは迫力のある祖母の笑みに背筋がぞわっとする。
涙もスッと乾いた。
「それは、いろいろと……いえ、あの、特にない、のかしら……?」
「シェルリーヌ、あなたに落ち度はありません。むしろ、ごめんなさいね。わたくしの悪名があなたを苦しめてしまったわ」
「そんな……! 正しいことをなさっただけのおばあさまが悪いわけないわ」
シェルリーヌがいたらなかったせいで、アロガンテが自分を責めるなどあり得ない。
慌てて首を横に振るが、祖母はただ眉尻を下げた。
「だからね、シェルリーヌ。もういいでしょう。わたくし、決めました。そろそろ貸しを返していただきましょうね」
「おばあさま……?」
「あの頃は最善だと思う道を選んで、泥をかぶるのがわたくしだけなら問題なかったのだけれど。わたくしとしたことが、とんだ失策だったわ。大切な家族に咎が及ぶことを考えていなかったのだから」
「もしかして……悪女をおやめになるの?」
シェルリーヌは、頬に残る涙の跡を拭いた。
それが自分のためならば、申し訳ないとは思う。けれど同時に、祖母の名誉が回復するならば、これほど嬉しいことはない。
「お父さまもお母さまも、ニコラスも喜ぶわ。それに大叔父さまも、従叔父さまも、みんな。きっとよ!」
シェルリーヌのその予想は当たる。
アロガンテが王都にやってきて、二週間後の夜のことだ。
本格的な夏を迎える前に、多くの貴族たちは領地へと戻っていく。
春の社交シーズンは陽射しが肌を焼き始めるころ、王城で開かれる王家主催の大舞踏会で締め括られるのだ。
「従叔父さま、きっと驚かれるわね」
「こらシェリー。国王陛下と呼ばなくてはいけないよ」
「外では、でしょう? 大丈夫、わたくしだってそのくらいは弁えているわ」
父から窘められても、笑って躱す。久しぶりにトレイドではなく、家族と共に馬車に乗ったシェルリーヌの気持ちは晴れやかだ。
あの夜会を最後にトレイドとは顔を合わせていないし、この後、婚約の解消に向けて家同士での調整を行ってくれる予定になっている。
「ようやくシェリーの笑った顔が見られて、パパは嬉しいよ」
おっとりそう言った父だが、隠れて祖母を呼び寄せ、大好物の葉巻を断ってあれこれシェルリーヌのために奔走してくれたことは知っている。
「おばあさまは、王城へ行くのはどのくらい振りになるの?」
「さあ、二十年にはならないくらいかしら」
祖父が亡くなり父が爵位を継いでから、アロガンテは一切王都へ足を踏み入れていなかったのだという。
代が替われば臣下へ嫁いだ元王女の顔を知る者も少なくはなるが、それでも王都は目と鼻の先に王城がある。アロガンテに気づいてしまう者もいなくはないだろうとの配慮からだそうだ。
「飽きもせず手紙は届いているけれどねえ」
ベルツ家の面々もアロガンテのことが大好きだが、それよりもっと熱烈な信奉者が王城にいる。
アロガンテの弟であった先代国王と、その息子たち、つまりは現国王陛下と王弟殿下だ。並びに、その奥方たちも。
彼らはアロガンテが何を成したのかを最も正確に知る者たちであり、その恩恵を最も受けて現在の地位にいる者たちでもある。
ベルツの家に嫁いでからは領地に引きこもり、滅多に王都に顔を出さなかったせいもあると、祖母本人が少々うんざりした口ぶりで言っていたことがある。だから余計に心酔してしまったのだろうと。
実は、貴族たちに流されたアロガンテの噂はほとんどが当人の仕込みによるものだったとか。シェルリーヌは、幼い頃に父からそう聞かされた。
幼子と言えと、他家に出向けば祖母に関する心ない噂は耳に入る。その前にと、教えられたのだ。
「宰相家が厄介だったのだよ。当時は力が強くてね、だから正面から挑むわけにはいかなかった。それを王女の我儘を装って少しずつ力を削ぎ、中央から離して行った。母上の手腕は見事だったと叔父上、いや先王陛下は未だにおっしゃるからね」
とは父の談だが。
先王陛下は姉であるアロガンテに深く感謝していて、それが今代の国王一家にもしっかり伝わっているのだという。
他家からは侮られることも多いベルツ家だが、こと王城内において公爵家の家紋は寵遇の印である。丁重に迎え入れられ、専用の待合室へと通された。
爵位の低い順に会場入りする王城の舞踏会では、公爵家の入場は王家の直前となる。やがて順番が来たと案内の侍従に呼ばれ、シェルリーヌはデビュタントの夜会以来の華やいだ気持ちで広間へと向かった。
なにせ大好きな祖母のアロガンテがエスコートしてくれるのだ。心弾まないわけがない。
父は母をエスコートするし、まだ成人前のニコラスは夜会には参加しない。トレイドとはもう同行できないし、となったところで祖母が名乗りを上げてくれたのだ。
マナーとしてはあまり褒められたことではないのだけれど、「構わないでしょう」というアロガンテの鶴の一声でそうと決まった。
「陛下は驚かれるかしら」
「あまり見苦しい真似はしないと願いたいところだけれど」
アロガンテにしては歯切れが悪い。シェルリーヌとしても、概ね同意だ。
上手に隠されているが、王家の男性は総じて心優しい。気が弱い、とも言う。
(従叔父さまは特に涙もろくていらっしゃるから、驚きすぎて泣いてしまったりして。)
面倒だから、という身も蓋もない理由で、今夜のアロガンテの登城は王家に連絡されていない。従って、王家の方々は会場ではじめてアロガンテの参内を知るのだ。
(やっぱり事前にお知らせしておいたほうがよかったのではないかしら……?)
少しばかり不安になってきたところで、広間に着く。
公爵家の名を呼ばれ、アロガンテと共に入場すると一斉に貴族たちの視線が集まった。
ほとんどが疑問の眼差しだ。祖母の素性を訝しみ、シェルリーヌのエスコートがトレイドではないどころか、男性ですらないことに首を傾げている。
自然と割れる人波の中を、母をエスコートする父の後に続いていく。
隣を歩く祖母を意識すれば、シェルリーヌの背筋もピンと伸びた。
前をいく父が足を止め、ちらりとこちらを振り向く。視線で促されて気づけば、トレイドが歩み寄ってくるところだった。
「公爵閣下にご挨拶申し上げます」
いつものように折り目正しく礼を執るトレイドの姿を見ても、シェルリーヌの気持ちはもう揺らがない。
厚顔にも、彼がピンクブロンドの令嬢を傍らに侍らせているとしても、だ。
「久しいな、アンフィデイル次期侯爵。娘への見舞いをありがとう」
これまでは「トレイドくん」と呼んでいた父の変化に気づいたのか、トレイドの生真面目な表情が僅かに崩れた。
「いえ、婚約者として当然のことです。シェルリーヌ嬢と少しお話しさせていただいても?」
「ふむ。ところで、そちらのご令嬢はどなたかな?」
「失礼いたしました。こちらはフルール・パルス伯爵令嬢、私の学園時代の友人です」
父の視線を受けても、微笑むフルールに動じる様子はない。
トレイドもだ。
ふたりして、平然としたものである。知られているはずがないと高を括っているのだろう。
「そうか、いいご友人のようだな。自ら第二夫人を志願してくれるとは」
「は……⁈ いえ、そ、そのようなことは……」
ぎょっとした顔で慌てるトレイドの隣で、フルールのほうは眉ひとつ動かさない。
どころか、小首を傾げて嗤ってみせた。
「わたしは第一夫人でも構わないのですけど。公爵閣下、お譲りくださらない?」
たかが伯爵令嬢が公爵家の当主に向けて放ったとは思えない、あまりに不遜な物言いにも父の顔色は変わらなかった。
「ああ、そうしよう。アンフィデイル侯爵には、近くその話をするつもりだった」
「なん……っ! 閣下、それはいったいどういう……っ⁈」
「まあ、ではシェルリーヌ様は第二夫人をご希望なのね。よかったわ」
「バカなッ! フルール、そんなはずがないだろうッ!」
顔色を失くしたトレイドは、一応わかってはいるようだ。
対してフルールは、心底ベルツ家を侮っているのだろう。
「あら、どうして? ベルツ公爵家の方ですもの、そのくらいがちょうどよろしいとご理解なさったんでしょう?」
「もういい、黙れフルール!」
シェルリーヌの前では泰然とした態度しか見せたことのなかったトレイドが、面白いくらいに狼狽えている。すっかり白くなった顔色で、お愛想の笑みすら消した父、母、シェルリーヌを見回して、最後にシェルリーヌをエスコートするアロガンテへと目を留めた。
隣に立つシェルリーヌと見比べて、髪色からそれが誰かを理解したのだろう。一気に絶望的な表情になった。
「公爵閣下、これは、あの何かの間違いで……」
「ちょっとトレイド様、どういうこと⁈」
縋ろうとするトレイドに、食ってかかるフルール。
彼らが共に舞踏会へ参加していることも予想外だったけれど、この展開も予想外だ。
なんだかおかしなことになったわねとシェルリーヌが困惑していると、王家の入場を報せるラッパが鳴った。
「国王陛下、お成り!」
儀仗兵による奏上の後、普段ならば静かに開く入場扉が大きく音を立て、勢いよく開いた。
一斉に首を垂れて迎えるはずの貴族たちは、思わず途中で動きを止めて中途半端な姿勢でそちらを見やる。
「へ、陛下⁈」
目を丸くする儀仗兵の前を足早にすり抜け、国王が壇上へと姿を現す。
亜麻色の髪にシェルリーヌと同じ琥珀色の瞳をした国王、オーギュストは、急いた様子で壇上を中央へと進み、ぐるりと広間を見回した。
誰かを探すようにしばし彷徨った王の視線が、ある一点で止まる。
「伯母上!」
叫んだかと思えば、あろうことかオーギュストが壇上から駆け下りてきた。
戸惑いにざわめく貴族たちには目もくれず、一直線にこちらへ向かって走ってくる。
隣でアロガンテが呟いた。
「あとで叱っておきましょう」
「使用人たちから伝わってしまったのね、おばあさまがいらしてること」
「まったく、あの子は」
やれやれと息を吐くアロガンテが、くっと顎を上げた。
ただそれだけで、彼女の纏う雰囲気が変わる。
「伯母上! お会いしたかった!」
とはいえ、相手は現役の国王陛下だ。アロガンテの威厳に怯むこともない。
満面の笑みで、まるで子どもみたいな勢いで、アロガンテの前へと突進してきた。
「お久しゅうございます、オーギュスト陛下。幾度ものお召しを預かりながら、本日まで参内が叶いませんでしたこと、深くお詫び申し上げます」
「おやめください! 高潔な伯母上のお心を知りながら、お会いしたい一心で我儘を言っていたのはこちらのほうだ」
そう言うとアロガンテの手を取り、両手でぶんぶんと振り回した。
「ああ、本当に、シーズンの終わりにこんな嬉しいことはない。今年はよい年だ。皆も喜んでくれ! 今のこの国の礎を築いてくださったアロガンテ伯母が、ようやく登城してくださった!」
当時の事情を正確に知る高位貴族たちは微笑まし気に、大多数の知らない者たちは戸惑った顔で。それでも王の言葉だ。パラパラと起きた拍手は、瞬く間に大きくなる。
シェルリーヌの予想とは裏腹に、涙もろい従叔父は泣きはしなかった。代わりに、驚くほど真っすぐに喜んでいる。
(なんだかわたくしも嬉しくなるけれど、わたくし、お邪魔かしら……?)
オーギュストがアロガンテへ向ける眼差しが熱すぎて、隣にいるのが少々憚られてくる。
それでふと、シェルリーヌは思い出した。
うっかり忘れていたけれど、もうすぐ〝元〟がつくことになる婚約者とその恋人がまだ近くにいたことを。
見れば、トレイドはもはや倒れそうな顔色をしているし、さすがのフルールも頬を引き攣らせている。
「ちょっと、どういうこと? なんで国王陛下があんなに親しげなの⁈」
「だから言っただろう! ベルツ家には王家の血が入っているんだ!」
こそこそとやり取りする、そんな声が微かに聞こえてくるが気にしないことにした。
一歩下がろうかと迷っていると、祖母の腕にかけた手がポンポンと叩かれる。そのままでよい、という合図だ。
「いや、すまない。あまりの喜びに我を忘れてしまった。多くの者は誤解しているだろうが、『悪女アロガンテ』という呼び名は完全なる偽りだ。いずれ伯母上の功績については正式に公表しよう。――伯母上もどうか、今宵を楽しんでください。積もる話は、また後ほど」
「ええ、陛下。ありがたく」
名残惜し気にアロガンテの手を離し、オーギュストが声を張る。
「春の宴の締め括りに相応しい夜だ。諸卿らも、この数ヶ月の交流を良き糧とせよ。今宵ばかりは憂いを忘れ、存分に楽しむがいい。さあ、音楽を!」
楽団の演奏が始まると、舞踏会の雰囲気もなんとか持ち直してくる。
チラチラと王の動向を気にしつつも、皆、あちらこちらで会話や食事を楽しみ始めた。
「伯母上、私とファーストダンスを踊ってはいただけませんか?」
「生憎ですが、陛下。わたくし本日は孫娘のエスコート役を承っておりますの」
「おや? シェリー、きみは婚約者が……ふむ」
言いかけて、傍らにいたトレイドたちに気がついた。
さすがは王だ。なにかあると察したらしく、そこで口を噤む。
「では、伯母上は私と。シェリーは我が息子の手を取っていただくのは、いかがか?」
諦めきれないらしく食い下がるオーギュストに、アロガンテも苦笑いだ。
「シェリー?」
「お受けしましょう、おばあさま」
「ええ。では、そのように」
パッと顔を輝かせた王がアロガンテの手を取ると、すかさず近寄ってきた王子がシェルリーヌに向かって手を差し出した。
「よろしく、はとこ殿」
「お久しゅうございます、殿下」
「綺麗になったな、シェリー。見違えたよ」
「まあ、ありがとうございます殿下。それはきっと、このドレスのおかげだわ」
「うん、たしかによく似合っている。上品な色合いも、流行を追うだけではないスタイルもいいね」
「これ、おばあさまの昔のドレスを仕立て直していただいたものなの」
できればこんな風に、婚約者に褒めてもらいたかったなという思いがちらりと湧く。
「だから、お褒めいただけてとても嬉しいですわ」
「お世辞ではなく、よく似合っているからね。さあ行こう。ワルツは得意だったろう?」
「ええ!」
はとこ王子の手を取って、中央で踊る祖母たちのほうへと向かう。
後ろからシェルリーヌの名前を呼ぶ掠れた声が聞こえた気がしたけれど、振り向きはしなかった。
今夜、アロガンテの名誉が回復したとしても、多くの者たちの見る目がすぐに変わることはないだろうと思う。
今までみたいに侮ってくる者だっているはずだ。
だから結局は、シェルリーヌがしっかりしなくてはならないのだ。
でも、きっと頑張れる。
もう一度デビュタントからやり直すくらいのつもりで、誇り高いアロガンテの血と、その色を受け継いだことに胸を張りたい。
今度こそ、とシェルリーヌは思うのだ。
わたくしのドレスは、古くさくも野暮ったくもない。
国王陛下がでれでれに敬愛しているアロガンテ元王女のドレスを仕立て直した、この世に一着しかない特別なものなのよ、と。
今度こそ、そう全力で言い返したい!
Fin.




