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第9話 予選会場の熱気と、勘違い



 十月。東京の街から半袖姿が消え、金木犀の香りが漂い始めると、お笑いファンたちの目つきが変わる。

 漫才師たちの頂点を決める、あの巨大な賞レース。その予選が本格化する季節だ。

 僕たちは、竹芝にあるホールの列に並んでいた。

 普段の和やかなライブとは違い、予選会場には独特のピリついた空気が流れている。客席も「審査してやるぞ」という緊張感に包まれているが、僕の隣にいる西野さんは、もっと緊張していた。

「どうしよう原田さん、私、お腹痛くなってきました」

「大丈夫ですよ。今の彼らなら、絶対ウケますって」

「でも、今日の予選二回戦って『鬼門』って言われてて……ここで落ちるコンビがいっぱいいるんです」

 彼女は祈るように両手を組んでいる。

 僕たちは今日、有給休暇を取ってここに来ていた。

 あの『スニーカーズ』の応援だ。彼らは一回戦を順当に勝ち上がり、今日の大一番に挑む。彼らのライブに通い詰めた僕らは、『スニーカーズ』のファンとして認知されていた。

 会場に入り、パイプ椅子に座る。

 次々と現れる無名のコンビたち。爆笑をとる者、静まり返る会場で冷や汗をかく者。残酷なほどの明暗が、数分おきに繰り返される。

 そして、いよいよ彼らの出番が来た。

「エントリーナンバー1205番、スニーカーズ」

 二人が舞台袖から走り出てくる。

 緊張しているのがわかった。マイクの前に立つ二人の表情が硬い。

 僕は思わず、膝の上で拳を握りしめた。

 隣の西野さんは、息を止めて見守っている。

 ――頼む、笑ってくれ。

 

 僕の祈りが通じたのか、あるいは彼らの積み重ねた努力が実ったのか。

 第一声のツカミで、会場の空気がフッと緩んだ。

 そこからは怒涛だった。ボケがハマり、ツッコミが炸裂するたびに、重たい予選会場の空気がドッ、ドッと揺れる。

 

 持ち時間の三分間が終わった瞬間、今日一番の拍手が起きた。

 舞台上の二人が、安堵したように顔を見合わせるのが見えた。

「……よかったぁ」

 隣で、西野さんが深く息を吐き出した。

 見ると、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「ウケてましたね、原田さん! すごかったですね!」

「ええ、完璧でしたよ!」

 興奮のあまり、彼女が僕の腕をバシバシと叩く。

 その痛みすら心地よかった。僕たちはまるで、我が子の運動会を見守る両親のように、顔を見合わせて笑い合った。

             *

 結果は、合格だった。

 掲示板に『スニーカーズ』の名前を見つけた瞬間、僕たちはガッツポーズをした。

 会場を出て、興奮冷めやらぬまま近くのカフェに入った。

 コーヒーとケーキを注文し、今日の「勝因」について語り合う。

「やっぱり、後半の畳み掛けを変えたのが良かったんですよ!」

「そうですね。あそこで間を詰めたのが効いてました」

 ひとしきり盛り上がった後、ふと会話が途切れた。

 店員が水を注ぎに来て、去り際に微笑ましそうに声をかけてきた。

「仲が良いですねえ。ご夫婦で観戦ですか?」

 その言葉に、時が止まった。

 ご夫婦。

 僕と西野さんが。

「あ、いえ、その……」

 僕がしどろもどろになっていると、西野さんも顔を赤くしてブンブンと手を振った。

「ち、違います! ただの……友達、です!」

「あ、失礼しました! あまりにお似合いだったもので」

 店員が苦笑して去っていく。

 残された僕たちの間には、微妙な、しかし決して不快ではない沈黙が流れた。

 夫婦、か。

 もし、彼女と一緒になって、休日にこうして共通の趣味を楽しんで、帰りにスーパーで夕飯の買い物をして帰るような生活があったとしたら。

 それは、僕がとっくに諦めて捨て去ったはずの「幸福な未来」そのものだった。

 チラリと彼女を見る。

 西野さんはストローを回しながら、俯いて少し照れくさそうにしている。

 その横顔を見て、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。

 言いたい。

 ただの友達じゃなくて、本当のパートナーになりたいと。

 この関係に名前をつけたいと。

「……西野さん」

「はい?」

 彼女が顔を上げる。

 その瞳に僕が映っている。

 喉まで出かかった言葉は、しかし、三十代特有のブレーキによって押し留められた。

(……いや、まだだ)

 今のこの関係は、完璧なバランスで成り立っている。

 もし告白して、関係がギクシャクしたら? もし断られて、この楽しい週末を失うことになったら?

 僕は失うことへの恐怖に勝てなかった。

「……あ、いや。来月の三回戦も、一緒に応援に行きましょうね」

「あ、はい! もちろんです!」

 彼女はパッと笑顔になった。

 でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ「期待外れ」のような色が混じったのを、僕は見逃さなかった気がした。

 外に出ると、空には鰯雲が広がっていた。

 秋晴れの気持ちいい午後。

 僕たちは並んで歩く。肩が触れそうな距離で、でも手は繋がないまま。

 

 『スニーカーズ』は勝ち進んだ。

 でも、勝ち進めば進むほど、戦いは厳しくなる。

 そして僕たちの関係もまた、「ただ楽しいだけ」の季節から、決断を迫られる季節へと向かっているような気がしてならなかった。


(第10話へ続く)




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