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第8話 聖地巡礼と、肯定してくれた人



 九月。夜風に少しだけ涼しさが混じり始めた頃。

 僕たちは、下北沢の路地裏にある一軒の定食屋『キッチン・マコト』の暖簾をくぐった。

 ここは、多くの若手芸人が下積み時代に通い詰めたという、いわゆる「お笑いの聖地」だ。

 店内に入ると、油と出汁の懐かしい匂いが鼻をくすぐる。そして何より圧巻なのは、壁一面に貼られた色紙の数々だ。今やテレビで見ない日はない大御所から、まだ無名の若手まで、びっしりとサインが並んでいる。

「うわあ、すごい……! あ、あそこにスニーカーズのサインもありますよ!」

 西野さんは少女のようにはしゃいで壁を指差した。

 僕たちは、芸人たちが愛したという名物「唐揚げ生姜焼き定食」を注文した。運ばれてきたのは、皿からはみ出しそうなほどの茶色い山だった。

「いただきます!」

「いただきます。……これ、食べ切れるかな」

 一口食べると、濃いめの味付けが疲れた体に染み渡る。

 美味しい。けれど、箸を進める僕の手は少し重かった。

 実は今日、仕事で大きなミスがあった。

 僕のミスではない。営業が発注数を一桁間違えたのだ。しかし、工場に頭を下げ、配送業者に怒鳴られ、尻拭いをしたのは僕だった。

 「お前がもっと早くチェックしていれば」と、理不尽な叱責も受けた。

「……原田さん? どうしました、箸止まってますよ」

 西野さんの声で我に返る。

 心配そうな顔で、彼女が覗き込んでいた。

「あ、すみません。ちょっと、仕事のことを思い出してて」

「今日、大変だったんですか?」

「まあ、いつも通りですよ。他人のミスをカバーして、頭を下げて……」

 壁のサインを見上げる。

 ここにある名前の主たちは、自分の才能一つで世の中を笑わせ、輝いている。

 それに比べて、自分は何なんだろう。

「ここに来た芸人さんたちは、夢を追って、叶えていったんですよね」

 ポツリと、言葉が漏れた。

「僕は十年間、何をしてたのかなって。毎日同じ場所で、マイナスをゼロに戻すだけの仕事をして。誰かを笑わせるわけでもなく、ただ磨り減って……空っぽなおじさんになっちゃいましたよ」

 せっかくのデートなのに、最悪だ。

 こんな卑屈な愚痴、聞かされる方はたまったものじゃない。

 慌てて「なんちゃって、今の忘れてください」と笑って誤魔化そうとした。

 でも、西野さんは笑わなかった。

 箸を置いて、真っ直ぐに僕の目を見た。眼鏡の奥の瞳が、静かに揺れている。

「マイナスをゼロに戻すって、すごいことですよ」

 彼女の声は、真剣だった。

「私、総務だからわかります。電球が切れてないこと、備品があること、給料がちゃんと振り込まれること。みんな『当たり前』だと思ってますけど、誰かが裏で必死に動いてるから、その『当たり前』があるんですよね」

「それは、まあ……」

「原田さんが頭を下げて走ってくれるから、商品が届いて、お客さんが喜ぶんです。それって、ステージで笑いを取るのと同じくらい、かっこいい仕事だと私は思います」

 彼女はそこで一息つくと、少し照れくさそうに付け加えた。

「少なくとも、私は原田さんのそういう仕事への姿勢、尊敬してます。……空っぽなんかじゃ、ないですよ」

 胸の奥が、熱くなった。

 十年間の社会人生活で、誰かにこんな風に言ってもらえたことがあっただろうか。

 上司からは「やって当然」、営業からは「細かい」と疎まれ続けてきた僕の仕事を、彼女は「かっこいい」と言ってくれた。

 視界が少し滲むのを誤魔化すために、僕は大急ぎで唐揚げを口に運んだ。

 塩っぱい味がした。

「……ありがとうございます。西野さんにそう言われると、なんか、明日も頑張れそうです」

「ふふ、ならよかったです。ほら、冷めないうちに食べましょ!」

 彼女はまた、いつもの屈託のない笑顔に戻って、生姜焼きを頬張った。

 帰り道。

 駅までの夜道を並んで歩く。手は繋いでいない。

 けれど、僕の彼女への思いは、来る時とは明らかに変わっていた。

 ただの「お笑い友達」という枠組みでは、もう収まりきらない。

 僕の弱くて情けない部分も肯定してくれる、かけがえのない人。



 横断歩道で信号待ちをしている時、彼女の袖が僕のスーツの袖に少しだけ触れた。

 僕は身を引かなかった。

 触れ合う布越しの微かな体温だけが、言葉にできない僕たちの今の距離だった。

 このまま時間が止まればいいのに。

 そう願いながら、僕は青に変わった信号へと足を踏み出した。


(第9話へ続く)




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