第6話 二度目の乾杯は、仕事の話から
ビルのエントランスで待つこと十分。
エレベーターから降りてきた西野さんは、先ほどとは少し雰囲気が変わっていた。
きっちりとまとめられていた髪は下ろされ、肩のあたりでふわりと揺れている。仕事用のシルバーの眼鏡も外され、いつもの柔らかな瞳がそこにあった。
トレンチコートを羽織り、小走りで駆け寄ってくる姿は、さっきの「鉄壁の総務」ではなく、待ち合わせに遅れた普通の女性そのものだった。
「お待たせしました! 着替えるのに手間取っちゃって」
「いえ、僕も今メールを一本返したところです。……行きましょうか」
案内されたのは、オフィス街の裏路地にある小洒落た和食ダイニングだった。
前回のようなガヤガヤした赤提灯ではなく、落ち着いて話ができる半個室。
向かい合わせに座り、とりあえず生ビールを二つ注文する。
「お疲れ様でした」
グラスが触れ合う音が、静かに響く。
一口飲むと、張り詰めていた神経が解けていくのがわかった。
「……改めて、今日は驚かせてすみませんでした。あんな空気の読めない発言して」
僕が頭をかくと、彼女は箸を置き、真剣な顔で首を振った。
「ううん、むしろスカッとしました。うちのディレクター陣、数字を作るのは得意なんですけど、現場の負担を軽視するところがあって。原田さんが『無理だ』ってピシャリと言ってくれた時、心の中で拍手してましたよ」
「そう言ってもらえると救われます。……結局、嫌われ役なんでね、僕の仕事は」
「わかります。私も総務だから」
彼女は少し自嘲気味に笑った。
「電球を変えたり、備品を発注したり、コピー機の紙詰まりを直したり。やって当たり前、やらないと怒られる。誰も褒めてくれない仕事です。だから……」
彼女は僕の目をまっすぐに見た。
「原田さんが必死に『当たり前』を守ろうとして戦ってる姿を見て、あ、この人は同志だなって思ったんです」
同志。
その言葉は、どんなお世辞よりも僕の胸に響いた。
「お笑い好き」という趣味の共通点以上に、社会人として背負っている「重荷」を共有できた気がした。
この人は、僕のうだつの上がらない部分も含めて、肯定してくれている。
「……ありがとう。西野さんにそう言われると、明日からもなんとかやっていけそうです」
「ふふ、お互い様ですよ。私だって、原田さんに会えて元気出ましたもん」
二杯目のハイボールが運ばれてくる頃には、僕たちの間から敬語の壁が少しだけ低くなっていた。
話題は自然と、あの空白の三ヶ月のことへ移った。
「正直、もう連絡来ないと思ってました」
彼女がグラスの縁を指でなぞりながら言う。
「あの後、やっぱり迷惑だったかなって。大人の距離感って難しいし、私がはしゃぎすぎたから引かれちゃったのかなって」
「逆です。逆」
僕は慌てて否定した。
「楽しすぎて、怖くなったんです。あんなキラキラした時間は自分には不釣り合いだと思って。……また連絡して、もし迷惑がられたらって思うと、指が動かなくて」
「えー、なんですかそれ! 考えすぎですよ」
彼女はケラケラと笑った。
その屈託のない笑顔を見ると、ひとりで部屋にこもって悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「ほんと、損な性格ですよね、僕たち」
「ですね。臆病な大人同士」
そう言って笑い合うと、三ヶ月の溝が嘘のように埋まっていく。
むしろ、一度離れて、お互いの「寂しさ」を確認した分、以前よりも心の距離は近くなっている気がした。
ひとしきり笑った後、彼女がバッグからスマホを取り出した。
「そういえば原田さん。来週の金曜日、空いてますか?」
「金曜? 今のところは大丈夫ですけど」
「実は、また『スニーカーズ』のライブがあるんです。今度は小さな劇場で、出番も増えてるみたいで。……もしよかったら、リベンジしませんか?」
「リベンジ?」
「はい。今回みたいな『偶然』じゃなくて、今度はちゃんと『約束』して行く、お笑いデート」
デート。
その響きに、心臓がトクンと跳ねた。
彼女は悪戯っぽく微笑んでいるけれど、その目は真剣だ。
前回の僕は、ただ流されるままについて行っただけだった。
でも今回は違う。僕の意思で、頷くことができる。
「……行きたいです。最近、笑ってなかったから」
「よかった! じゃあチケット、私が取っておきますね」
彼女が嬉しそうにスマホを操作する。
その横顔を見ながら、僕は確信していた。
僕の灰色の日常に、再び色が戻ってきたのだと。
そして今度は、その色を手放したくないと、強く思っていた。
店を出ると、夜風はずいぶんと温かくなっていた。
「じゃあ原田さん、また来週」
「ええ。来週」
駅の改札で別れる時、今度は「また機会があれば」という言葉は必要なかった。
確かな約束がある。
それだけで、明日からの退屈な仕事も、少しだけ頑張れる気がした。
(第7話へ続く)




