第5話 会議室の向こう側
七月。東京の夏は、アスファルトの照り返しで息をするのも苦しいほどの暑さだった。
港区にあるWeb広告代理店のオフィスは、僕が普段いる食品メーカーの事務所とは別世界だった。
壁はガラス張り、天井は配管むき出しのデザイン、あちこちに観葉植物が置かれ、社員たちはTシャツやジーンズでノートPCを叩いている。
汗ばんだシャツに、くたびれた量販店のスーツを着た僕は、完全に異物だった。
「――というわけで、今回のキャンペーンは『バズ』を最優先に設計しています」
通された会議室で、代理店の若い男性ディレクターが横文字を並べ立てていた。
僕は配られた資料を見ながら、小さく溜息をつく。
『爆発的な拡散』『想定リーチ数100万』。景気のいい言葉が踊っているが、僕が見ているのはその下の『ノベルティ発送フロー』の部分だ。
「あの、確認ですが」
僕は意を決して口を挟んだ。
「この想定数だと、初動で注文が集中した場合、今の倉庫の人員じゃ捌ききれません。発送遅延が起きたら『バズ』が『炎上』に変わりませんか?」
場の空気が少し冷めた。ディレクターが「また古い人間が水を差した」という顔をする。
「そこをなんとか調整していただくのが、原田さんのお仕事かと」
「調整といっても、物流の限界がありまして……」
孤独な戦いだった。
誰も裏方の苦労なんて想像しない。華やかな数字を作ることに夢中で、泥臭い足回りは「誰かがやるだろう」と思っている。
いつものことだ。僕はまた、誰にも理解されないまま頭を下げることになる。
その時だった。
「失礼します。追加の資料をお持ちしました」
会議室のドアが開き、女性が入ってきた。
トレイに人数分のペットボトルと、刷り上がったばかりの資料を載せている。
手際よくテーブルに物を並べていく所作は洗練されていて、無駄がない。
僕の前にも資料が置かれる。
「こちら、修正版のスケジュールです」
凛とした、聞き覚えのある声。
僕は顔を上げた。
「あ……」
声が出そうになるのを、喉の奥で寸前で飲み込んだ。
そこにいたのは、西野あかりさんだった。
しかし、僕の記憶にある彼女とはまるで違っていた。
ふんわりとしたニットではなく、パリッとした白のブラウスに、ネイビーのタイトスカート。
髪はバナナクリップで綺麗にまとめ上げられ、顔には知的なシルバーフレームの眼鏡がかかっている。
居酒屋で「ブラマヨの漫才が〜!」と手を叩いて笑っていた女性と同一人物とは、にわかには信じがたかった。
彼女もまた、資料を配り終えてふと僕の顔を見た瞬間、動きを止めた。
眼鏡の奥の目が、驚きに見開かれる。
(……原田さん?)
声には出さなかったけれど、唇がそう動いたのがわかった。
三ヶ月の空白を一瞬で飛び越え、僕たちは視線だけで会話をした。
――なんでここに?
――仕事です。そっちは?
――私も、ここで働いてるんです。
数秒の沈黙。しかし、すぐに彼女はプロの顔に戻った。
何事もなかったかのように軽く会釈をし、「失礼いたしました」と静かに部屋を出ていく。
ドアが閉まる瞬間、もう一度だけ、彼女がチラリとこちらを見た気がした。
その後の会議の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
ただ泥臭い仕事をおしつけられるはずだと思っていた今日のミーティングに、少しの光が差した気がした。
*
一時間後。会議が終わった。
結局、スケジュールの見直しを検討してもらうことで折り合いがついた。
疲労感を抱えて会議室を出る。
エレベーターホールに向かう廊下で、僕は誰かを探していた。
会える保証はない。総務の人なら、自分の席に戻っているだろう。
エレベーターのボタンを押す。
到着を待つ間、背後でコツ、コツ、とヒールの音がした。
「……お疲れ様です、原田さん」
振り返ると、彼女が立っていた。
手には空になったトレイを持っている。わざわざ、僕が来るのを待っていてくれたのだろうか。
「西野さん……驚きました。ここで働いていたんですね」
「はい。私も、取引先の方があの原田さんだなんて思わなくて。……会議、大変そうでしたね」
彼女は少し眉を下げて、苦笑した。
その表情は、さっきの「鉄壁の総務担当」から、少しだけあの夜の「あかりさん」に戻っていた。
「聞こえてました?」
「ええ、少しだけ。……『発送遅延が起きたら炎上する』って。かっこよかったです。誰も言えない正論、ちゃんと言ってくれて」
予想外の言葉に、僕は耳が熱くなるのを感じた。
面倒なことを言うおじさんだと思われていたんじゃなくて、肯定してくれていたなんて。
「かっこいいなんて、そんな。ただの心配性な小役人ですよ」
「ふふ、またそうやって謙遜する。……あの」
彼女が一歩、近づいた。
エレベーターが到着し、「チン」という音が廊下に響く。
扉が開く。でも、僕たちは乗らなかった。
「この後、会社に戻られますか?」
「いえ、今日はこれで直帰です。もう十八時ですし」
「じゃあ……」
彼女は少し迷うように視線を泳がせ、それから意を決したように僕の目を見た。
「もしお時間あったら、少しだけご飯食べませんか? ……仕事の愚痴、聞きますよ」
三ヶ月前。僕が躊躇して、飲み込んで、手放してしまった「次」の機会。
それが今、奇跡のように目の前に差し出されている。
今度は逃がしてはいけない。そう本能が告げていた。
「喜んで。……僕も、西野さんと話したいことがたくさんあります」
僕が答えると、彼女は眼鏡の位置を人差し指でクイッと直し、ほっとしたように、花が咲くように笑った。
「じゃあ、着替えてきますね。下で待っててください!」
彼女が小走りでオフィスへ戻っていく。
その背中を見送りながら、僕は大きく息を吐いた。
モノクロだった視界に、再び鮮やかな色が戻ってくるのがわかった。
(第6話へ続く)




