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第4話 灰色のリバウンド



 ゴールデンウィークが明けると、世界は急速に色を失った。

 五月病という言葉があるが、僕の場合は病ですらない。ただ、元の設定に戻っただけだ。

 朝六時半に起き、満員電車に揺られ、会社に行き、頭を下げる。

 連休明けの物流は混乱していた。地方の配送センターで誤出荷があり、僕はその火消しのために一日中電話にかじりついていた。

「申し訳ございません。ええ、すぐに代替品を……はい、こちらの不手際です」

 受話器越しに怒声を浴びながら、僕は無意識にPCの画面の隅にある時計を見ていた。

 二十一時。今日もコンビニ弁当確定だ。

 以前なら、これは「日常」だった。

 感情を殺し、ただ淡々とタスクをこなす。それに痛みを感じることはなかった。

 けれど、今は違った。

 

 ――ふと、あの夜の笑い声が耳の奥で蘇る。

 隣で「M-1のあのネタが!」と目を輝かせて語っていた、西野あかりさんの笑顔。

 ジョッキを合わせた時の音。

 

 あの鮮やかな時間を知ってしまったせいで、今の灰色の時間が、以前よりもずっと重く、息苦しく感じられるのだ。

 ダイエットのリバウンドと同じだ。一度贅沢な時間を摂取してしまった心は、飢餓状態に敏感になっている。

             *

 会社を出て、駅前のロータリーを通る。

 四月に『スニーカーズ』が立っていた植え込みのそばには、今日は誰もいない。

 彼らはあれから、SNSで細々と活動報告をしているのを見つけた。僕のアカウントの、数少ないフォローリストに彼らが加わった。

 

『今日のライブ、お客さん三人! でも笑ってくれたから勝ち!』

 そんな強がりのツイートを見て、僕は歩きながら少しだけ口角を上げる。彼らも泥水をすすっている。僕だけじゃない。

 ふと指が滑って、LINEのアプリを開いてしまう。

 トーク履歴の下の方に沈んでしまった『あかり』という名前。

 アイコンの彼女は、変わらず可愛らしいイラストのままだ。

(……元気にしてるのかな)

 送ろうと思えば、送れる。

 『最近、面白いライブありましたか?』

 たったそれだけの一文が、どうしても打てない。

 

 もし、「誰ですか?」という空気を出されたら。

 もし、既読がつかないまま放置されたら。

 あるいは、もう新しいパートナーを見つけて、幸せに笑っていたら。

 

 三十代の恋愛(あるいはその手前の感情)において、もっとも恐ろしいのは「痛い奴だと思われること」だ。

 傷つくことへの防御本能が、行動力を上回ってしまう。

 僕は画面を閉じ、スマホをポケットにねじ込んだ。

             *

 六月に入り、梅雨が始まった。

 湿気を含んだ空気は、僕の憂鬱をさらに加速させた。

 家のテレビでバラエティ番組を見ても、以前のように笑えない。

 MCがゲストを弄り、スタジオがドッと湧く。画面の中は楽しそうだ。でも、ひとりぼっちの部屋で缶ビール片手に見るそれは、どこか遠い国の出来事のようで、虚しさが増すだけだった。

「……ひとりは、寂しいか」

 彼女が言っていた言葉を、無意識に反芻する。

 あの時は「そんなものだ」と流していたけれど、今は痛いほどわかる。

 誰かと――いや、彼女と、「今の面白かったね」と言い合えるだけで、この部屋の温度は何度上がるだろうか。

 そんなある日、上司に呼び出された。

 七月に行う夏の新商品キャンペーンの件だった。

「原田、悪いんだけど今度の打ち合わせ、お前も出てくれ」

「僕ですか? 営業企画の案件ですよね」

「ああ。でも今回のWebキャンペーン、ノベルティの発送が絡むから、物流面のリスク管理が必要なんだよ。代理店側にも細かいこと詰められる人間がいてほしいって言われてさ」

 面倒な仕事が増えた。

 Web広告代理店なんて、カタカナ語を操る華やかな人種が集まる場所だ。僕のような地味な人間が行っても、場の空気を悪くするだけだろう。

「……わかりました。スケジュール調整しておきます」

 断る理由もなく、僕は承諾した。

 どうせ、仕事だ。感情を無にして、淡々と役割を果たすだけ。

 そう思っていた。


(第5話へ続く)




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