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第3話 ライブ終わりの飲み会





 駅前の大衆居酒屋は、週末の喧騒に包まれていた。

 僕たちのテーブルには、空になったビールジョッキと、半分ほど減ったハイボール、そして食べかけの唐揚げが並んでいる。

「でね、スニーカーズの凄いところは、ボケの彼が『噛む』ことすら笑いに変える回収能力なんですよ!」

 目の前の彼女――西野あかり(にしの あかり)さんは、ジョッキを片手に熱弁を振るっていた。

 ライブ会場での凛とした雰囲気はどこへやら、アルコールが入った彼女は、よく喋り、よく笑う「ただのお笑いオタク」に変貌していた。

「なるほど……回収能力、かあ」

「そうなんです! あそこで焦らずにツッコミを待つが絶妙で……って、ごめんなさい。私ばっかり喋って。原田さん、退屈ですよね?」

 彼女はハッとしたように口元を押さえる。僕は慌てて首を振った。

「いえ、全然。むしろ同感です。最近の若手って、設定が凝ったコント漫才が多いじゃないですか。でも彼らは、立ち話一本で勝負してる」

「……え?」

「あの感じ、ちょっと懐かしいなって。M-1の初期……ブラマヨとか、チュートリアルが優勝してた頃の、あの熱量を思い出しました。僕、あの頃の『しゃべくり漫才』が一番好きなんで」

 僕がそう言うと、あかりさんは目を丸くし、次の瞬間、今日一番の笑顔で身を乗り出してきた。

「わあ、わかります! 2005年とか2006年あたりですよね! あの頃の『熱』って特別ですよね!」

「ですよね。作り込んでない、人間性同士のぶつかり合いというか」

「そう! それです! 原田さん、ただ付き合いで来ただけかと思ってましたけど……意外と『ガチ』なんですね?」

「あはは、ただのテレビっ子だったおじさんですよ」

 意外な共通言語が見つかり、会話のテンポが一気に加速する。

 ただの相槌係ではなく、対等な「お笑い好き」として会話が弾む。それが心地よかったのか、彼女のピッチも早くなり、頬がほんのり朱に染まっていく。

「はあー……楽しい。こんなにお笑いの話が通じる人と飲めるなんて、久しぶりかも」

 彼女はハイボールを一口飲むと、とろんとした目で僕を見た。

「原田さんって、聞き上手だし、ツボもわかってるし……絶対モテますよね。奥さんに怒られませんか? こんなところで飲んでて」

 不意に投げられた球に、僕は苦笑いしながら左手を軽く挙げた。

「いやいや、いないですよ。独り身です」

「えっ、そうなんですか? 意外……」

「仕事して、寝て、たまにこうやって漫才見て……気付いたら三十過ぎてました。もう手遅れですよ」

 自虐混じりに言うと、彼女は「そんなことないですよ」と笑おうとして、ふと真顔になった。

 視線が、僕の左手から、自分の左手へと落ちる。

 テーブルに置かれた彼女の白く細い指。そこには指輪はおろか、アクセサリーの類もついていなかった。

「……あかりさんも、その」

 僕が視線の意味を察して尋ねると、彼女は少し自嘲気味に笑って、ハイボールのグラスを揺らした。

「私も、今はひとりです。……というより、もう諦めちゃったんですよね」

「諦めた?」

「はい。二十代の頃は必死でしたけど、三十路の扉を開けた瞬間、ふっと力が抜けちゃって。『ああ、もう無理して誰かに選ばれようとしなくていいや』って」

 彼女は遠くを見るような目をした。

 明るくて華やかに見える彼女もまた、僕と同じような「三十代の曲がり角」特有の乾いた風を感じているのだ。

「仕事して、好きなお笑い見て笑って。それで十分幸せじゃんって自分に言い聞かせてるんです。……でも」

 彼女は言葉を切ると、悪戯っぽく僕を見上げた。

「たまに今日みたいに誰かと笑い合えると、やっぱり『ひとり』って寂しいなって、思っちゃいますね」

 その言葉は、僕の心の柔らかい部分をじわりと刺した。

(……住む世界が違うと思ってたけど、意外と近くにいる人なのかもな)

 親近感と、淡い期待。

 けれど、楽しい時間であればあるほど、終わりが近づくのが怖い。

 

「……そろそろ、行きましょうか」

 僕は名残惜しさを断ち切るように席を立った。これ以上ここにいると、本当に勘違いしてしまいそうだったから。

 店を出て、駅の改札前。

 ここでお別れですね、と言おうとした時、彼女がスマホを取り出したのは自然な流れだった。

「あの、もしよかったら……連絡先、交換しませんか? また『あの頃のM-1』の話、したいです」

「え……あ、はい。僕でよければ」

 社交辞令ではない、確かな熱を含んだ誘い。

 僕たちはLINEを交換した。画面に表示された『あかり』という名前を見つめながら、彼女は小さく手を振った。

「じゃあ、原田さん。また」

 その背中を見送りながら、僕は数年ぶりに「次」を期待している自分に気づいていた。


   翌日、日曜日。

 目が覚めると昼の十二時を回っていた。

 カーテンの隙間から差し込む陽の光が、埃の舞う部屋を照らし出している。

 頭が重い。昨日の高揚感は嘘のように消え失せ、いつも通りの気怠い休日が始まっていた。

 枕元のスマホを見る。

 LINEの通知バッジが一つ。昨日の夜、帰り道に届いたものだ。

『今日はありがとうございました! 原田さんとお話しできて楽しかったです。また機会があればぜひ! おやすみなさい(スタンプ)』

 社交辞令のお手本のような、完璧なメッセージ。

 僕はそれに、

 『こちらこそありがとうございました。ゆっくり休んでください』

とだけ返信し、会話を終わらせていた。

 画面を見つめる。

 指先が「また行きましょう」と打ち込みかけるが、すぐにバックスペースで消去する。

 

 ――また機会があれば。

 

 大人の世界において、この言葉は「もう会うことはないでしょう」と同義だ。

 昨日はライブの熱気とお酒の勢いがあった。でも、冷静になった休日の昼下がりに、三十路の男から連絡が来たらどう思うだろう。

 迷惑じゃないか。重くないか。

 考えれば考えるほど、指が動かなくなる。

「……ま、そんなもんだよな」

 僕はスマホを放り投げ、布団を頭まで被った。

 たった数時間の彩り。夢を見ていただけだ。

 

 そうして日曜日が終わり、月曜日が来た。

 再び満員電車に揺られ、会社へ向かう。

 LINEのトークルームは、あの日以来動いていない。

 僕たちの関係は、たった一回のやりとりで途切れた。

 僕の日常は、再び何事もなかったかのように、静かな灰色へと戻っていった。

 ただ一つ、通勤路で駅前で呼び込みをする若者を見るたびに、スニーカーズを思い出して、胸の奥がチクリと痛むこと以外は。


(第4話へ続く)




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