第2話 隣の席の観覧者
翌土曜日の午後一時半。僕は市民ホールの長い廊下を歩きながら、すでに少し後悔していた。
会場の「小会議室2」の前には、手書きの模造紙が貼られているだけ。中を覗くと、長机が撤去され、パイプ椅子が三十脚ほど並べられている。
客入りは半分ほど。客層はお笑いが好きそうな若い女性や、学生カップルがまばらにいる程度だ。そのうちの何人かは出演者の知り合いなのだろう、あからさまに興味がない様子で手元のスマホを眺めている。
僕はといえば、結局仕事用のスーツで来てしまった。私服なんて数えるほどしか持っていないし、何を着ていけばいいのか悩んでいるうちに時間が過ぎて、一番「考えなくていい服」を選んだ結果だ。
休日出勤のついでに迷い込んだサラリーマン。完全に浮いている。
「あ! いらっしゃいませ!」
入り口で受付をしていたのは、昨日チラシを配っていた背の高い方の男だった。僕の顔を見ると、パッと表情を明るくした。
「昨日の! 本当に来てくれたんですね!」
「あ、ええ。まあ……」
「ありがとうございます! あの、せっかくなんで良い席で見てください! こっちです!」
遠慮する間もなく、半ば強引に誘導されたのは、最前列のど真ん中の席だった。
近すぎる。演者の唾が飛んできそうな距離だ。
居心地の悪さに身を縮こまらせて座る。ふと気配を感じて右隣を見ると、一つ席を空けて、女性が座っていた。
柔らかそうなベージュのニットに、ロングスカート。膝の上には小さなハンドバッグ。
仕事ができそうな綺麗な女性だが、少し度数の強そうな眼鏡をかけて、真剣な顔で舞台を見つめている。
彼女もまた、この殺風景な会議室には不釣り合いなほど、きちんとした雰囲気を纏っていた。
(……この人も、昨日の手売り組かな)
そんなことをぼんやり考えていると、会場の照明が落ちず、そのまま出囃子の音楽がラジカセから流れた。
「どーもー! スニーカーズでーす!」
勢いよく二人が飛び出してくる。
拍手はまばらだが、温かい。
漫才が始まった。正直、期待値は低かった。けれど、始まってみると意外なほどしっかりしていた。
奇抜な設定やキャラに頼らない、言葉の掛け合いだけで笑わせる正統派のしゃべくり漫才。最近のテレビでみるお笑いはついていけないものが多いが、この二人の漫才は子供のころ見た漫才のようで、心から楽しめた。
ボケの小柄な男が熱弁し、ツッコミの長身男がそれを冷静にいなす。そのテンポが心地いい。
「ふッ……」
気がつくと、僕は声を漏らして笑っていた。
強張っていた肩の力が抜け、眉間の皺が伸びていくのがわかる。
そして中盤、ネタの合間のMCに入った時だった。
ボケ担当の男が、急に客席を指差した。
「いやー、でも嬉しいですよ。今日はお客さんいっぱい来てくれて」
「半分くらい空席ですけどね」
「うるさいわ! でも見てよ、この最前列のお兄さん!」
ビクッとした。完全に僕を指差している。
「昨日ね、駅前で誰も立ち止まってくれない中、このお兄さんが颯爽と現れてチケット買ってくれたんですよ! しかもスーツで! 仕事の鬼か!」
「言い方やめろ。お忙しい中来てくれたんでしょ」
「あと、そこのお姉さんも!」
今度は、僕の隣の女性が指された。
「お姉さんも昨日、寒い中立ち止まって買ってくれた女神様です! つまりこの最前列は、僕らの命の恩人シートとなっております!」
会場からドッと笑いが起き、拍手が送られる。
僕は顔から火が出るほど恥ずかしかった。穴があったら入りたいとはこのことだ。
恐る恐る隣を見ると、彼女も口元を手で押さえ、顔を真っ赤にしながら、それでも楽しそうに笑っていた。
目が合った。
彼女は恥ずかしそうに眉を下げ、僕に向かってペコリと会釈をした。
僕もつられて、慌てて頭を下げる。
言葉は交わさなかったけれど、その一瞬で通じ合った気がした。
一時間のライブはあっという間だった。
久しぶりに心の底から笑った。こんなに頬の筋肉を使ったのはいつぶりだろう。
満足感とともに席を立ち、会場を出る。
外の空気は春にしては少し冷たかったが、火照った体には心地よかった。
「あの」
背後から、凛とした声がした。
振り返ると、さっきの彼女が立っていた。眼鏡を外し、少し柔らかな表情になっている。
「さっきは、災難でしたね」
「あ……ええ、驚きました。まさかネタにされるとは」
「ふふ、でも、面白かったですね」
彼女は花が咲くように笑った。
その笑顔があまりに眩しくて、僕は一瞬言葉に詰まる。
彼女は僕のスーツ姿と、自分の服装を見比べて、少し悪戯っぽく言った。
「いじられたものどうし、もしこの後ご予定がなければ……ご飯でもいきませんか?」
普段の僕なら、間違いなく断っていたはずだ。
初対面の、しかもあんな綺麗な女性と二人で飲むなんて、ハードルが高すぎる。
でも、今日の僕は「スニーカーズ」のおかげで、少しだけガードが下がっていた。
それに、もう少しだけ、この「笑いの余韻」に浸っていたいと思ってしまったのだ。
「……いいですね。行きましょうか」
僕の答えに、彼女は「やった」と小さくガッツポーズをした。
駅前の赤提灯が灯り始めた雑踏へ、僕たちは二人で歩き出した。
まだ名前も知らない、チケットだけの繋がりの二人。
それが、僕のモノクロの日常が色づき始める、最初の瞬間だった。
(第3話へ続く)




