エピローグ
東京の空は、今日もよく晴れている。
都内の、少し広めの3LDKマンション。独身時代の殺風景な1LDKとは違い、今の僕たちの部屋は「生活の音」と「思い出」で溢れている。
リビングの白い壁には、コルクボードに貼られた写真が、年輪のように増え続けている。 福岡空港での見送りの写真。 結局、「やっぱり寂しくて無理でした!」と言って、予定を一年早めて二年で東京に戻ってきた日の、照れくさそうなあかりの写真。結婚式の写真。そして、産まれたばかりの息子を抱いた写真。
中でも一番のお気に入りは、額縁に入れて飾ってある一枚だ。 僕とあかり、そして三歳になった息子。その真ん中で、満面の笑みでダブルピースをしている『スニーカーズ』の二人との記念写真だ。
「懐かしいな」
コーヒーを淹れながら、つい口元が緩む。 彼らは今や、テレビで見ない日はないほどの国民的スターになった。 それでも、彼らは僕たちのことを忘れていなかった。「あの日、一番前で見てくれてたスーツのお兄さんと、美人のお姉さんですよね!?」と、楽屋で再会した時は向こうから声をかけてくれた。 今ではすっかり、ファンの間でも「伝説の古参夫婦」として認知されてしまっているのが、どうにもこそばゆい。
「たーだいまー!」
玄関から、元気な声が弾けた。 ドタドタという足音と共に、ランドセルを背負った男の子がリビングに飛び込んでくる。
「おかえり、晴也。クラブどうだった?」
「楽しかった! あのね、今日ドッジボールで最後まで残ったんだよ!」
「おっ、すごいな。父さん似で逃げるのが上手いのか?」
「もう、そこは勇敢って言ってあげてよ」
苦笑しながらリビングに入ってきたのは、あかりだ。 三十代から四十代へ。目尻の笑い皺は少し増えたかもしれないが、柔らかい雰囲気は出会った頃よりも増している。
「さあ、晴也。急いで着替えて。今日は大事な日だよ」
「うん! スニーカーズのおじちゃんたちに会えるんでしょ?」
「そうよ。晴也が産まれた時にお祝いもらったんだから、ちゃんとお礼言うのよ」
あかりがテキパキと準備を進める中、僕は机の上に置かれた封筒を手に取った。 中から出てきたのは、金色の箔押しがされたプレミアムなチケット。
『スニーカーズ結成10周年記念ツアー 〜靴底すりへらして〜』 ご招待券:3名様
彼らが直々に送ってくれたそのチケットの座席番号を見て、僕は思わず吹き出した。
『最前列 中央』
「……またここかよ」
「どうしたの、健人さん?」
「いや、席の場所。……これ、また演者の唾が飛んできそうな距離だよ」
僕が言うと、あかりもチケットを覗き込み、「あはは!」と声を上げて笑った。
「懐かしいですね。あの日も、そうでした」
「ああ。君が隣にいて、僕がいて」
一〇年前の春。 僕たちは他人同士として、一つ空席を挟んで座っていた。
でも、今日は違う。
「行きましょうか、健人さん」
「おーい、父さん早くー!」
玄関で二人が呼んでいる。 僕はジャケットを羽織り、壁の写真をもう一度だけ見やってから、部屋を出た。
*
巨大なアリーナ会場は、熱気で埋め尽くされていた。 一万人の観客。その最前列。 パイプ椅子に座る。 左に僕。右にあかり。 そしてあの日、空席だった真ん中の席には今、晴也が座り、目を輝かせてステージを見つめている。
「すごいねえ! 広いねえ!」 「しーっ。もう始まるよ」
あかりが晴也の頭を撫でる。 僕たちの間にあった隙間は、この十年の間に、愛おしい温もりで埋められた。
照明が落ちる。 地響きのような歓声と共に、あの日と同じ出囃子が流れる。 ステージに二人が飛び出してくる。 十年分の貫禄と、変わらない泥臭さを纏った僕たちのヒーロー。
会場がドッと沸く。 晴也が手を叩いて笑う。 僕も笑う。 そしてふと横を見ると、あかりもまた、お腹を抱えて涙を流して笑っていた。
その横顔は、駅前の居酒屋で見た時よりも、公園で泣き笑いした時よりも、ずっとずっと魅力的だった。 この十年、いろいろなことがあった。 仕事の辛い日も、喧嘩した夜も、遠距離の寂しさもあった。 けれど、振り返ればそこにはいつも、君の笑顔があった。 君が笑ってくれるから、僕も笑えた。
舞台の照明が、客席の僕たちを照らす。 目が合った気がして、スニーカーズの二人がニヤリと笑った。
横に目をやる。舞台の上の『スニーカーズ』を見る君は10年前と変わらず魅力的だった。
――お笑い好きな、君が好き。
心の中でそう呟いて、僕は今日一番の拍手を送った。 満席の笑い声に包まれて、僕たちの「普通で、最高に幸福な日常」は、これからも続いていく。
(エピローグ:完)




