第17話 満席の笑い声
公園の時計台の鐘が鳴り止むと、辺りはまた静寂に包まれた。 西野さんは、身じろぎもせず、ベンチの上で固まっていた。
夕日が彼女の長い睫毛に影を落としている。表情が読み取れない。
沈黙が怖い。 一世一代の告白をした直後だ。もし「気持ちは嬉しいけど、やっぱり現実は……」と断られたら、僕はもう立ち上がれないかもしれない。 心臓の音がうるさくて、耳を塞ぎたくなる。
やがて、西野さんの肩が小さく震え始めた。 最初は微かに。次第に小刻みに。
「……ずるい」
掠れた声が聞こえた。
「え?」 「ずるいです、原田さん」
彼女が顔を上げた。 その顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。 眼鏡のレンズが曇るのも構わず、彼女は子供のように鼻をすすり、ポロポロと涙を流していた。
「あんなに……あんなに待ってたのに。三ヶ月も放置して。もうダメなんだって諦めさせておいて……最後の最後に、そんなこと言うなんて」
彼女はハンドバッグで顔を覆った。
「一番欲しい言葉を、一番欲しいタイミングで言ってくるなんて……回収能力が高すぎますよ……」
お笑い用語を混ぜながら泣く彼女を見て、僕は胸が締め付けられると同時に、どうしようもない愛おしさが込み上げてきた。
「……ごめんなさい。回収するのが遅くなって」
「本当に……遅すぎます」
僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女に手渡した。 彼女はそれを受け取り、眼鏡を外して目を拭った。
「……でも、私、福岡に行くんですよ?」
涙声のまま、彼女は現実を突きつけた。
「三年間です。最低でも三年。飛行機じゃないと会えない距離です。原田さんは東京で仕事があるし、会えても月に一回とかですよ? ……寂しいですよ? それでもいいんですか?」
それは、僕がずっと恐れていた問いかけだった。 でも、不思議なくらい今の僕には迷いがなかった。
「いいえ。よくないです」
僕は即答した。彼女が驚いた顔をする。
「寂しいのは嫌です。だから、会いに行きます」
「えっ」
「月に一回でも、二回でも。チケットを取って、飛行機に乗って、会いに行きます」
僕は彼女の手元にある、今日のライブの半券を指差した。
「今日、僕は自分でチケットを買って、ここまで来ました。……福岡行きのチケットだって同じです。あなたに会うためなら、僕は何度だってチケットを買います」
キザなセリフだ。 交通費と移動時間を考えれば、三十代の会社員にはバカにならない負担だ。 でも、この三ヶ月の漆黒の孤独に比べれば、そんなものは「経費」ですらない。
「僕の仕事は『調整』ですから。スケジュールの調整くらい、なんとでもしてみせます。……だから」
僕は震える手を伸ばし、彼女の手をそっと包み込んだ。 冷たくなっていた彼女の指先が、僕の手の中で少しずつ温まっていく。
「離れていても、僕と付き合ってください」
西野さんは、涙で濡れた目で僕を見つめ返した。 そして、ふっと息を吐き出すと、今日一番の、満開の花のような笑顔を見せた。
「……はい。喜んで」
彼女の手が、僕の手を強く握り返してきた。
「私、ボケてばっかりの人生だから……隣でちゃんとツッコミを入れてくれる人がいないと、困るんです」
「任せてください。一生、ツッコミ続けますから」
その言葉に、彼女は「ふふっ」と吹き出し、また泣き笑いの顔になった。
*
日が沈み、公園の街灯が灯り始めた。 僕たちはベンチを立ち、駅へと向かって歩き出した。今度は、自然と手が繋がれていた。一年前、チケットを買って誘導されただけの他人だった二人が、今はしっかりと体温を確かめ合いながら、同じ歩幅で歩いている。
「ねえ、原田さん」
「はい」
「福岡って、お笑いの劇場あるのかな」
「あると思いますよ。吉本も進出してますし」
「じゃあ、初デートはそこの劇場ですね」
「……観光地とかじゃなくて?」
「だってお笑いデートが一番楽しいじゃないですか。あ、でもその前に、美味しい明太子も食べたいな」
弾むような彼女の声を聞きながら、僕は空を見上げた。 夜空には星が見える。 明日からはまた、離れ離れの準備期間が始まる。そして五月になれば、物理的な距離も生まれる。
でも、もう怖くなかった。 僕たちの手には、未来へのチケットが握られている。 どんなに離れていても、笑い合える場所がある限り、僕たちは大丈夫だ。
繋いだ手のひらから伝わる温もりが、僕の灰色の世界を、鮮やかな桜色に染め上げていった。
(最終話へ続く)




