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第16話 僕が選んだ席


 終演のアナウンスが流れても、会場の拍手はしばらく鳴り止まなかった。  『スニーカーズ』の二人は、何度も何度も頭を下げ、最後にはお互いの肩を叩き合って袖へと消えていった。  素晴らしいライブだった。彼らはもう、駅前で声を張り上げていた名もなき若者ではない。誰もが認めるプロの漫才師だ。

 客電が点き、魔法の時間が終わる。  観客たちが余韻に浸りながら、出口へと向かい始める。  

「……面白かったですね、原田さん」

 隣で西野さんが呟いた。  彼女の目は潤み、頬は紅潮していた。マスクを外して涙を拭うその顔は、一年前のあの日、居酒屋で見せた笑顔と同じだった。  いや、あの時よりも少しだけ、切なさを孕んでいるように見えた。

「ええ。最高のステージでした」

 僕は立ち上がった。  

ライブは終わった。これでもう、「お笑いを見る」という今日の目的は達成された。  このまま流れ解散して、「じゃあ、元気で」と手を振れば、僕たちは綺麗な思い出のままお別れできる。でも、僕の足は出口には向かわなかった。

「西野さん。……少し、歩きませんか?」

 人波に逆らうように、僕は言った。  西野さんは一瞬驚いた顔をして、それから静かに頷いた。


             *

 会場を出て、駅とは反対方向にある公園のベンチに座った。  夕暮れ時の公園は、少しずつ静寂が満ちようとしていた。  自販機で買った缶コーヒーの温かさが、震える指先を少しだけ落ち着かせてくれた。

「……一年前、私たちが会ったのも、こんな夕暮れでしたね」

 西野さんが、空を見上げながら言った。

「あの時は、無理やり最前列に座らされて。……今日は、原田さんが取ってくれた席でしたね。すごく見やすかったです」

「……そうですか。よかったです」

 会話が途切れる。  彼女は缶コーヒーを両手で包み込むように持ち、少しの間を置いて、静かに切り出した。

「原田さん。……私、五月のゴールデンウィーク明けに発ちます」

 ついに、その言葉が出た。  

 具体的な期日。別れのカウントダウン。

「向こうに行ったら、きっとバタバタして……なかなか東京には戻って来られないと思います。だから、今日が最後かもしれません」

 彼女は膝の上で手を重ね、僕の方を向いて深々と頭を下げた。

「今まで、ありがとうございました。原田さんと出会えて、本当に楽しかったです。……私、原田さんと笑い合った時間のこと、一生忘れません」

 完璧な「さよなら」だった。  

 大人の分別と、感謝と、優しさに満ちた、綺麗な幕引き。彼女は、僕が何も言わないことを受け入れている。僕がそういう「事なかれ主義」の人間だと知っているから、困らせないように、自分から線を引いてくれたのだ。

 その優しさが、今の僕には痛かった。  ここで「元気でね」と言ってはいけない。それだけは、してはいけない。


「……待ってください」

 僕は缶コーヒーをベンチに置いた。  カツン、という音が静寂に響いた。

「さよならを言う前に……謝らせてください」

 西野さんが、驚いて顔を上げる。

「謝る? 何をですか?」

「年末のことです。……あの頃、西野さんは僕に、何度もサインを出してくれていましたよね」

 僕は膝の上で拳を握りしめ、地面を見つめながら語り始めた。

「転勤の話を聞いた時も、忘年会の時も。西野さんは僕の言葉を待ってくれていた。不安そうな顔をして、何かを期待してくれていた。……僕はそれに気づいていました」

「……原田さん」

「気づいていたのに、僕は無視しました。『キャリアの邪魔をしちゃいけない』とか『遠距離なんて無責任だ』とか、もっともらしい大人の理屈を並べて、冷たい態度をとりました。……でも、そんなのは全部嘘です」

 格好悪くてもいい。全部吐き出さなきゃいけない。

「本当は、ただ自分が傷つくのが怖かっただけなんです。三ヶ月後に離れ離れになって、寂しい思いをするのが嫌だった。終わるのが怖くて、始まる前に逃げ出した。……自分の心を守るために、西野さんの気持ちを踏みにじりました。本当に、最低な男です」

 声が震えた。  

 三十三歳にもなって、こんな言い訳じみた懺悔をするなんて情けない。でも、これが僕の等身大の姿だ。  

「この三ヶ月、一人になって……痛いほど思い知らされました。傷つかないように守ったはずの日常は、ただ暗くて、寒くて、どうしようもなく退屈でした」

 僕は顔を上げた。  西野さんは、泣き出しそうな顔で僕を見ていた。

「僕は、ずっと何かに流されるように生きてきました。会社でも、プライベートでも、誰かに『ここなら安全だ』と言われた席に座って、波風立てずにやり過ごしてきた。……年末に逃げたのも、それが『安全な席』だと思ったからです」

 息を吸い込む。  春の風が、肺の奥まで入ってくる。

「でも、今日は違います。僕は自分でチケットを買って、自分でこの席を選びました」

 僕は真っ直ぐに彼女の目を見た。

「西野さんが笑っている、その隣です。……これからの人生、僕はそこ以外には、座りたくないんです」

 言ってしまった。  現状維持という名の殻を、粉々に砕く一言。    

 西野さんは、言葉を失っていた。  

 時が止まったような静寂の中、公園の時計台が十七時を告げる鐘を鳴らし始めた。


(第17話へ続く)




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