第15話 『スニーカーズ』からの招待状
四月十五日、土曜日。
天気予報は晴れ。最高気温は二十度。
桜前線はとうに北上し、東京の桜はすでに葉桜へと姿を変えていた。
僕は駅前のロータリーにある時計台の下に立っていた。
一年前の金曜日の夜、ここで『スニーカーズ』が声を枯らしてチケットを売っていた場所だ。
あの時は、くたびれたスーツに、コンビニの袋を提げた死んだ目の男だった。
今の僕はどうだろう。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。
新調したばかりのジャケットに、プレスされたシャツ。髪も昨日、美容院で少し整えてもらった。
三十三歳のおじさんが色気付いて、と笑われるかもしれない。
でも、今日はただの「お笑い鑑賞」じゃない。僕の人生の分岐点になるかもしれない一日だ。これくらいの武装は許されるだろう。
スマホを見る。十三時三十分。開場時間だ。
西野さんとは、二月のLINE以来、連絡を取っていない。
「元気ですか」とか「引越しはどうですか」という雑談LINEは、あえてしなかった。中途半端な言葉で、今日のこの緊張感を薄めたくなかったからだ。
「……原田さん」
不意に、背後から声をかけられた。
心臓が跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、人混みの中に彼女が立っていた。
春らしいパステルイエローのカーディガンに、ふわりとした白いスカート。
髪を少し切っただろうか。以前よりも軽やかな印象を受ける。
けれど、その表情には、どこか少しだけ緊張の色が混じっているように見えた。
「……お久しぶりです、西野さん」
「お久しぶりです。……待っててくれて、ありがとうございます」
彼女はペコリと頭を下げた。
三ヶ月の空白。
でも、顔を見た瞬間に、その時間が嘘のように縮まっていくのを感じた。ああ、やっぱりこの笑顔だ。僕が見たかったのは。
「行きましょうか。もう開場してます」
「はい!」
彼女の笑顔はやっぱり素敵だった。
*
会場となる市民ホールの大ホール前には、長蛇の列ができていた。
一年前、三十人しか入らなかった会議室とは雲泥の差だ。
ロビーには、テレビ局やお笑い事務所から贈られたフラワースタンドが並んでいる。
「すごい……! 本当に売れたんですね、彼ら」
「ええ。テレビにも出始めましたからね。もう僕らが心配する必要なんてないみたいです」
感慨深そうに見上げる西野さんの横顔を見ながら、僕はポケットからチケットを取り出した。
二枚。僕が自分の意思で、自分の金で買ったチケット。
「西野さん、これ」
「あ、ありがとうございます。チケット代、おいくらですか?」
財布を出そうとする彼女を、僕は手で制した。
「いりません。僕が誘ったんですから」
「えっ、でも……」
「その代わり、見終わったら少し付き合ってください。話したいことがあるんです」
喉が渇いた。
精一杯の虚勢だった。
彼女は一瞬きょとんとして、それから何かを察したように、少しだけ目を伏せて微笑んだ。
「……はい。喜んで」
その返事に、僕は小さく拳を握りしめた。
ホールに入る。
五百席ある客席は、ほぼ満席だった。
僕たちの席は中央の前から五列目。一年前、ガラガラの最前列に無理やり座らされた時とは大違いだ。
開演ブザーが鳴る。照明が落ちる。
地鳴りのような拍手と共に、出囃子が響き渡る。
「どーもー! スニーカーズでーす!」
舞台袖から二人が飛び出してくる。
スポットライトを浴びた彼らは、一年前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
漫才が始まる。
面白い。悔しいくらいに面白い。
予選敗退の挫折を乗り越え、彼らはさらに腕を上げていた。会場全体がドッカンドッカンと波打つように笑っている。
でも、僕の意識の半分は、隣に向けられていた。
暗闇の中、西野さんが笑っている。
体を折り曲げ、涙を拭いながら、心底楽しそうに笑っている。
(……ああ、これだ)
僕は確信する。
ステージ上の漫才も最高だ。でも、僕にとっての「最高」は、この光景だ。
彼女が隣で笑っている。その空気を共有している。
それがなければ、どんなに面白い漫才も、ただの「音」でしかない。
一年前、僕は偶然ここに座り、彼女と出会った。
あれから一年。
彼らは夢を叶え、大ホールの舞台に立っている。
彼女は昇進し、新しい土地へ飛び立とうとしている。
時間は流れている。誰もが前に進んでいる。
僕だけが立ち止まっていた。
でも、今日でそれも終わりだ。
二時間のライブが終盤に差し掛かる頃、僕は舞台を見つめながら、決意を固めていた。
このライブが終わったら、言うんだ。
事なかれ主義も、現状維持も、全部捨てる。
「離れたくない」
そのシンプルな本音だけを握りしめて、僕はエンディングの拍手を送った。
隣で手を叩く彼女の手が、少しだけ震えているように見えたのは、僕の気のせいだったろうか。
(第16話へ続く)




