第11話 辞令と、冬の足音
十二月。街はクリスマスのイルミネーションに彩られ、どこへ行っても山下達郎の歌声が聞こえてくる。
以前の僕なら、この浮かれた空気を「関係ない世界の話」としてノイズキャンセリングしていただろう。
けれど今年の冬は、街の灯りが少しだけ暖かく見えた。
予選敗退の悔し涙を共有した夜から、僕たちの距離は確実に縮まっていた。
週末の予定を合わせ、LINEのやり取りは毎日続く。
「付き合ってください」という決定的な一言こそないものの、それは時間の問題だと思っていた。大人の恋愛だ。焦らずとも、自然とそういう雰囲気になるだろう。
そんな甘い見通しを持っていた。
その日、僕たちは丸の内にある少し奮発したイタリアンで食事をしていた。
窓の外には、シャンパンゴールドに輝く並木道が見える。
「……でね、その時のディレクターの顔が真っ青で」
「あはは、それは自業自得ですね」
会話は弾んでいた。ワインも進み、雰囲気は完璧だった。
帰り道、この並木道を歩きながら、クリスマスの予定を聞こう。そこで何かプレゼントを渡して……。
僕の頭の中には、そんな幸福なシミュレーションが出来上がっていた。
デザートのティラミスが運ばれてきた時だった。
西野さんが、スプーンを持ったまま動きを止めた。
ふと見ると、彼女は少し躊躇うように視線を落とし、それから意を決したように顔を上げた。
「あの、原田さん。……話しておきたいことがあるんです」
声のトーンが、普段の明るいものとは違っていた。
胸の奥で、嫌な予感が警報を鳴らす。
「どうしましたか?」
落ち着いて切り返すが、内心ドキドキしていた。
「実は……昨日上司に呼ばれて、内示が出たんです」
「内示?」
「はい。……来年の四月から、福岡支社への異動を打診されました」
時が止まった気がした。
店内のBGMも、周囲の談笑も、すべてが遠のいていく。
「福岡……って、九州の?」
「はい。新設されるクリエイティブチームのリーダーとして行ってほしいって。……昇進、なんですけどね」
彼女は困ったように笑った。
福岡。飛行機で二時間。新幹線で五時間。
気軽に「今週末、ライブ行こうよ」と誘える距離ではない。
僕の頭の中で、先ほどまで組み立てていた幸福な未来予想図が、音を立てて崩れ落ちていった。
(……ああ、そうか。やっぱり、そうなるのか)
僕の中に染み付いた「諦めの癖」が、反射的に顔を出す。
もし今、僕たちが付き合い始めたとして、三ヶ月後には遠距離恋愛になる。
三十代同士の遠距離恋愛。結婚の約束もないまま、月に一度会えるかどうかの関係。
それはお互いにとって重荷じゃないか?
それに、彼女は栄転だ。新しい土地、新しい仕事、新しい出会い。
そこで心機一転、素敵な男性と出会う可能性だってある。
僕のような、東京でくすぶっている冴えない事務屋が、彼女の足を引っ張っていい理由なんてない。
――傷つきたくない。
――彼女の邪魔をしたくない。
――自然消滅するくらいなら、今の綺麗な思い出のまま終わらせたほうがいい。
瞬時にそこまで計算して、僕は「大人として正解の顔」を作った。
事なかれ主義の、いつもの仮面だ。
「……すごいじゃないですか。栄転ですね」
僕の声は、自分で思うよりも平坦だった。
「西野さんの仕事ぶりが評価されたんですよ。リーダーなんて大抜擢じゃないですか。……おめでとうございます」
彼女の目が、微かに揺れた。
彼女はきっと、僕に「行かないでほしい」とか「遠くても平気だ」と言って欲しかったのかもしれない。あるいは、寂しがって欲しかったのかもしれない。
でも、僕は綺麗に線を引いてしまった。
「……そう、ですね。チャンス、ですもんね」
西野さんは少し寂しそうに微笑んで、ティラミスを口に運んだ。
その味がどんなものだったか、僕にはもうわからなかった。
店を出ると、冷たい風が吹き抜けた。
イルミネーションは相変わらず綺麗だったが、今の僕には残酷なほど眩しかった。
「まだ、返事は保留にしてるんです」
駅へ向かう途中、彼女がポツリと言った。
「一週間、考えさせてくださいって言いました。……でも、断る理由もなくて」
それは、僕へのラストパスだったのかもしれない。
『行かないで』と言ってくれれば、断る理由ができるのに。そんな無言のメッセージが含まれていたのかもしれない。
でも、僕はポケットの中で拳を握りしめ、またしても安全な言葉を選んだ。
「……西野さんのキャリアにとって、大事な時期だと思います。後悔しない選択を、してくださいね」
優しさの皮を被った、ただの突き放しだ。
彼女は一瞬立ち止まり、僕の顔をじっと見て、それからふっと力を抜いて笑った。
「……そうですよね。原田さんらしいです。いつも冷静で、大人で」
その言葉が、皮肉ではなく諦めを含んでいることに気づかないふりをした。
駅の改札で別れる。
いつもなら「また連絡します」と言うところを、今夜は言葉が出なかった。
彼女の背中が人混みに消えていく。
福岡。
四月になれば、彼女はいなくなる。
この「色づいた日常」には、明確な期限が設定されてしまった。
引き止める権利なんて、僕にはない。
そう自分に言い聞かせるけれど、胸の奥には鉛を飲み込んだような重苦しさが残っていた。
(第12話へ続く)




