第10話 敗者の美学
十一月。木枯らしが吹き始め、街ゆく人々の装いがコートに変わる頃。
僕たちは、予選三回戦の会場であるホールのロビーに立っていた。
張り出された合格者リストの紙。
僕たちは上から下まで、何度も何度も目で追った。
けれど、何度見ても『スニーカーズ』の名前はそこにはなかった。
「……ない、ですね」
「ええ。……ないですね」
三回戦の壁は厚かった。
今日の彼らの漫才は、決して悪くはなかった。けれど、会場の空気と噛み合わず、勝負どころのボケで笑いが起きなかった。あの瞬間の、舞台上の二人の凍りついたような表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
ロビーの隅では、敗退した芸人たちが肩を落とし、中には壁に向かって泣いている者もいた。
一年間、いや、人生の全てを賭けて調整してきた四分間が、たった一つのミスや空気の綾で否定される。
勝負の世界だから仕方ない。わかっているけれど、その現実はあまりに残酷で、見ているこちらの胸が押し潰されそうだった。
「……行きましょうか」
西野さんが小さく呟いた。その声は震えていた。
僕たちは逃げるように会場を後にした。
*
冷えた体を温めるために、近くの小料理屋に入った。
湯気の立つおでんの鍋を挟んで向かい合う。
熱燗を頼んだけれど、二人ともグラスが進まなかった。
「……悔しいですね」
大根を箸で崩しながら、西野さんが言った。
「あんなに頑張ってたのに。あんなに面白かったのに。たった一回の審査で、全部『ダメ』って言われるなんて」
「そうですね……。でも、それが現実なんですよね」
僕の口から出た言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
お酒が回るにつれて、心の奥底に沈殿していた感情が溢れ出してくる。
「努力が必ず報われるなら、誰も苦労しない。……彼らを見てると、自分を見ているような気になるんです」
僕はグラスを煽り、自嘲気味に笑った。
「僕だって、十年間真面目にやってきました。遅刻もせず、嫌な仕事も引き受けて。でも、それで何か劇的な評価が得られるわけじゃない。ただ『ご苦労さん』で終わり。……結局、僕らみたいな人間は、主役にはなれないんですよ。華やかな舞台でスポットライトを浴びる人たちのために、舞台袖で照明を支えるだけの人生なんです」
酔いに任せて、ひどい言い草だった。
自分の人生への諦めを、彼らの敗北に重ねて正当化しようとしているだけだ。
こんな惨めな男、嫌われて当然だ。
そう思って、僕は視線を落とした。
けれど、西野さんからの軽蔑の言葉は飛んでこなかった。
代わりに聞こえたのは、鼻をすする音だった。
「……西野さん?」
顔を上げると、彼女は眼鏡を外し、ハンカチで目元を押さえていた。
ボロボロと、大粒の涙を流していた。
「……ごめんなさい。でも、悔しくて」
彼女は泣きながら、それでも力強い声で言った。
「原田さんは、主役になれないなんて言いますけど……私にとっては、彼らのおかげで原田さんに会えました。彼らが必死に手売りしてくれたから、私、こうして原田さんとご飯食べて、笑えるようになったんです」
彼女の手が、テーブル越しに僕の手に触れた。
温かかった。
「結果が出なくても、誰からも評価されなくても……誰かの人生を変えることって、あるんじゃないですか? スニーカーズも、原田さんも。……私にとっては、間違いなくヒーローですよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。
ずっと「自分は何者でもない」「代わりのきく歯車だ」と自分を卑下して生きてきた。
でも、目の前の女性は、そんな僕のために泣いてくれている。
僕の人生を、肯定してくれている。
胸が熱くて、痛かった。
敗者の美学なんていうとかっこいいけれど、ただ、誰かが自分の痛みを知ってくれているというだけで、こんなにも救われるものなのか。
「……ありがとう。……ごめんね、泣かせて」
僕は彼女の手を、そっと握り返した。
店を出ると、冷たい木枯らしが吹いていた。
でも、隣に彼女がいるだけで、不思議と寒くはなかった。
泣きはらした目で「明日は腫れちゃうなあ」と笑う彼女を見て、僕は強く思った。
この人を離してはいけない。
主役にはなれないかもしれない。でも、この人の隣で笑っていられるなら、脇役の人生も悪くない。
そう思えた夜だった。
しかし、季節は冬へと向かう。
深まる寒さと共に、僕たちの関係もまた、一度立ち止まることになる。
(第11話へ続く)




