第1話 1500円の衝動
金曜日の夜九時半。自動改札を抜ける時の「ピピッ」という電子音だけが、今日一日の終わりを告げていた。
原田健人は、いつものように重たい体を引きずるようにして駅前のロータリーに出た。
三十二歳。独身。中堅食品メーカーの営業管理部に所属して十年が経つ。
管理部といっても、聞こえはいいが実態は「尻拭い係」だ。営業が無理やりねじ込んできた短納期の注文を工場に頭を下げて頼み込み、物流トラブルが起きればドライバーに詫びを入れる。
僕の仕事は「プラス」を作ることじゃない。「マイナス」をゼロに戻すことだ。一日中、誰かに頭を下げ、心をすり減らし、その対価として給料をもらう。
今日もそうだった。配送ミスの処理で二時間残業し、くたくたになって帰ってきた。
ネクタイを緩めながら、駅前のコンビニの明かりを見る。
(……夕飯、どうするか)
考えるのも面倒くさい。いつものようにおにぎりと、ストロング系の缶チューハイを買って、家で動画でも見ながら寝落ちする。それが僕の金曜日の黄金パターンであり、唯一の救いだ。
そう思ってコンビニへ足を向けた時だった。
「漫才! 漫才やりまーす! チケット手売りしてまーす!」
ひび割れたような大声が、駅前の雑踏に響いた。
ミュージシャンの路上ライブなら珍しくない。けれど、「漫才」というのは聞き慣れなかった。
声の主を見ると、駅前の植え込みのそばに、男が二人立っていた。
年齢は二十代半ばだろうか。量販店の安っぽいスーツを着ている。一人は小柄で、もう一人はひょろりと背が高い。
足元にはダンボールで作った看板。『スニーカーズ単独ライブ 明日開催! チケット1500円』と、マジックで殴り書きされている。
「お願いします! 明日です! 絶対笑わせます!」
小柄な方の男が、帰宅を急ぐサラリーマンたちに必死にチラシを差し出している。
だが、金曜の夜だ。誰もが早く家に帰りたいか、飲みに行きたいかのどちらかだ。誰も足を止めない。視界にすら入れていない。
僕もその「誰も」の一人として通り過ぎるはずだった。
ふと、目が合った。
小柄な男の方だ。汗だくで、髪は乱れ、笑顔を張り付かせているが、その目は泣き出しそうに見えた。
──ああ、僕も昔、あんな顔をしていたな。
不意にそんな思考がよぎった。
新入社員の頃。無理難題を押し付けられ、それでも必死に食らいつこうとしていた頃の自分。
いつからだろう。期待することをやめ、諦めることを覚え、波風を立てないように「死んだ目」をして生きるようになったのは。
気がつくと、僕は足を止めていた。
自分でも驚くほど自然に、彼らの前まで歩いていた。
「……あ、あの!」
男が驚いたように声を裏返す。
僕は財布から千円札と五百円玉を取り出した。今日の夕飯代と晩酌代が消える金額だ。
「一枚、ください」
「えっ」
「明日のやつ。一枚」
「は、はい! ありがとうございます!」
男の手が震えていた。渡されたチケットは、家庭用プリンターで印刷されたようなペラペラの紙切れだった。
「あ、ありがとうございます! 俺ら、『スニーカーズ』って言います! 絶対、絶対後悔させないんで!」
「……うん。頑張って」
それしか言葉が出なかった。気の利いた応援なんて言えない。ただ、その必死さが少し羨ましくて、少し眩しかっただけだ。
チケットをスーツのポケットに突っ込み、僕は再び歩き出した。
コンビニで買うはずだった缶チューハイは、我慢することにした。
家に帰り、ひとり殺風景な部屋の電気をつける。
ポケットから、くしゃっとなったチケットを取り出し、テーブルの上に置いた。
『スニーカーズ単独ライブ 〜靴紐むすんで〜』
場所:駅前市民ホール・小会議室
開演:14:00
明日は土曜日。
いつもなら昼過ぎまで泥のように眠り、起きて自己嫌悪に陥るだけの日。
でも明日は、予定がある。
1500円で買ったのは、漫才のチケットというより、空白の休日を埋めるための「権利」だったのかもしれない。
「……ま、暇つぶしにはなるか」
独り言を呟いて、僕はシャワーを浴びるためにスーツを脱いだ。
鏡に映った自分の顔は相変わらず疲れ切っていたが、その目の奥には、いつもよりほんの少しだけ、微かな光が残っているような気がした。
(第2話へ続く)




