捨てる神あれば……
函館競馬場、検量裁決室。
最終レースが終わって、俺はこの部屋で先輩の川原騎手と共にJRA職員たちに囲まれていた。
「本当に、進路を故意に塞ぐ意思は無かったというんだな?」
「はい。失速した先行馬との接触を避けるためにとにかく必死だったので……申し訳ありません」
この日、何度目になるか分からない謝罪の言葉を並べてみても、職員たちは肩をすくめてやれやれといった表情を見合わせるばかりだ。
確かにその部屋に通されてから見たパトロールビデオでは、1頭分だけ空いた進路に川原さんが突っ込もうとした瞬間に俺が斜めに割って入る事で、川原さんは進路を失い急に失速する形になっている。それが無ければ1着で勝てていたであろう事も含めたら『悪質な進路妨害』と捉えられてもおかしくはない。でも……
「すいません、移動の時間が迫っているのですが……」
先に事情聴取を終え、事の成り行きを見つめていた川原さんが重い口を開く。
彼は『故意の妨害だとは思っていないが、内側が詰まった競馬になる事は予測して声も掛けていた。完全な読み違えで注意義務違反だ』と言葉少なに伝え、処分が重いものにならないように口添えしてくれていた。だがその後は腕を組んで仏頂面で黙ったまま、1時間とも思える時間が経過していた。
「あぁスミマセン、長らくお引止めして。おい君、我々は見送りのために一旦退出するがくれぐれもきちんと『反省』したまえよ」
そう言って立ち上がり、俺以外の全員が裁決室を出た廊下へ続々と向かう。
言われなくてもレース終了からずっと、反省も後悔も充分すぎる程にしていた。
思い通りに結果が出ない事への焦り、その為に冷静な判断を欠いてしまった事。それと、落馬負傷の苦しみなんて自分が一番知っているのに、何かが違っていたら自分がそれを誰かに味あわせる加害者になっていたかもしれない事。
本当に穴があったら入ってしまいたいぐらい、自分で自分が不甲斐無かった。
だけど、彼らの求める『反省』はそれではなくて『進路妨害のために斜行を行った』という自分たちの判断が正しい、と認めさせること。そんな筈がないじゃないか、と思ったけれど聴き入れてもらえる状況ではない事も、その時の俺の精神を追い詰めていた。
「あああああああくっそ! どうすれば良かったんだよっ!」
思わず口から叫び声が出て立ち上がった瞬間、思いのほか大きな音を立てて目の前の机を倒してしまい、職員たちが大慌てで戻ってきた。
「貴様! 裁定が不服だからと言って暴力行為とはもっと反省が必要なようだな! もはや話を聞く必要もない!」
採決委員の男が叫ぶと、大柄の警備員が2人で俺の両脇を取り押さえて俺を別室へと連行する。結果、俺は『悪質な進路妨害並びに採決室での器物破損』と見なされ、この函館競馬場に滞在する予定期間の1か月間、騎乗停止ならびに競走馬調教施設にも出入り禁止が申し渡された。
『聞いたよ友介。大変な大騒ぎだったそうじゃないか』
「いえ、あの……お騒がせしてすみません」
翌朝、行く当てもなく困っていた所に電話をくれたのは黒田馬主だった。夏の函館・札幌競馬の開催期間は基本的に馬も関係者も調整施設のある函館競馬場に滞在して調教・出走を行っている。俺はその【競走馬調教施設にも出入り禁止】となったわけで、居場所がなくなったのだ。
『まあ川原くんからも事情は聴いている。どうだね、ここは復帰以来ずっと取っていなかった休暇だと思って、牧場の方に来てみないか? そうだ。栗東(※滋賀県・関西の競走馬トレーニングセンターがある)の自宅でお子さんの世話をしてる奥さんも是非呼びなさい。気分転換になるだろうから』
それは居場所が無かった今の俺にとってまさしく渡りに船だった。黒野氏がオーナーブリーダーとして所有しているクロノスファーム空港牧場まではレンタカーを借りれば半日で到着する。
そして、そこで俺は新たな一頭の馬と出会いを果たす事になる。