彼女のラストラン
今回のエピソードは2021年の有馬記念を元にして書きました。クロノジェネシスのラストランもそうですが、勝ったエフフォーリアにディープボンドの2着も印象的なレースでしたね。
※ 馬主・調教師との会話部分はファン目線での推察であり、事実とは異なります。
3年前、年の瀬も迫った最後の日曜日。
5万人以上が詰めかけた中山競馬場、その中心であり騎手という職業にとって主戦場である芝コースでは無く、競馬関係者が出走する馬たちを見守るスタンドに、俺は居た。
有馬記念。最高の相棒だった彼女・クロノトリガーのラストラン。
半年前にはまったく動かなかった身体は、背骨に何本ものプレートを埋め込んでようやく日常的な行動が出来るくらいにはなった。けれど、騎手として馬と一緒に全力を出せるところまでには、まだまだ程遠いままだ。
「ついにラストランか。競馬に『たられば』の話はダメだって分かってるけれどそれでも、君が乗っていてくれればと今でも思うよ」
ただのリップサービスかもしれないけれど、そう言ってくれる黒野馬主に深々と頭を下げる。この有馬記念が終わった後に予定されている引退式、馬に跨る事は出来なくても勝負服を着て一緒に参加してほしいと言ってくれたのは彼だからだ。
「友介、例の話は考えてくれたか?」
「はい、正月明けには答えを出そうと思っています」
俺より幾つか上の才藤調教師が話すのは、先日お見舞いに来てくれた時、提案した件について。
『騎手として復帰を目指す事よりも、厩舎の仕事を手伝ってゆくゆくは調教師への転身も視野に入れてみないか?』
それは恐らく一緒に戦ってきた戦友として、最良のアドバイスのつもりだったのだろう。
鞭を置くという事、騎手という仕事を降りる事に正直、すごく抵抗はある。けれども、それと同じくらい「今まで通りに全力で馬を追えるようになるのか?」という自問自答を拭えてはいない。
身体が無事、元通りに動くのかも分からないし、事故をした時と同じような状況、そのスピード域や馬群の密集状態へ差し掛かった時にあの時の事を思い出さずに冷静でいられるのかどうか……と訊かれたら、自信は全く無い。
そんな状況を抱えながら命を落とす危険もある騎手という仕事に戻って、またもしもの事があったら……と考えれば、その提案を吞む方が現実的なのかもしれない。
『騎手』という立場でこの競馬場、G1の舞台に立つ事はもう二度と無いのかもな、とそんな事を考えながら、レースが始まるのをぼんやりと眺めていた。
【さあ第66回グランプリ有馬記念、スタートしました! 好スタートはタイトルコール、内からパンナコッタ逃げる! この2頭がペースを引っ張るか!?】
レースは逃げ馬がペースを引っ張って終始ハイペースの流れになる。
【グランプリ3連覇のクロノトリガーは中段馬群の内側、そしてそれを見るようにエフフォースがその外にピッタリと付けています】
その中でも彼女は集団に遅れることなく、飛び出しのタイミングを計りながらラストスパートに向けて精神を研ぎ澄ませているようだった。だけど……ずっと気にかかっていた。俺が乗っていたとしたら選ばないルートを通っている事だけが。
【向こう正面、中ほどを越えて残り800メートル。ここでクロノトリガーの外側を通ってエフフォースが前に出る!】
「クロノ!!」
その光景を見た瞬間、俺は思わず叫んでいた。どんなに強い彼女でも、加速するタイミングを外側の進路を塞がれて前が壁になっている状況ではその力を発揮する事は出来ない。3歳でその能力を買われながらもなかなか大きなタイトルに手が届かなくて苦汁を舐めていた時、散々それを知っていたからこそ、俺ならあのポジションは選ばなかったんだ。
このままでは、レースが終わる。終わってしまう。それも、引退レースで大惨敗という最悪の形で。
脳内にそのイメージが広がって思わず天を仰ぎそうになったその時――第3コーナーを回る彼女が一瞬、こちらの方を見たような、気がした。
そして次の瞬間。
【最後の直線、さあ先頭・タイトルコールに外側からエフフォース来ている! 内側からはグレートボンド! そしてこのままでは終われない後ろからクロノトリガー迫る!】
このまま馬群に呑まれて沈むと思っていた所を抜けて、先頭に抜けた馬へ猛然と迫っていく彼女。
その姿は『相棒、何を諦めた顔しているの? 私は絶対に最後まであきらめないわよ! あなたはどうする?』と訴えかけているように、俺には思えた。
「才藤調教師、黒野馬主……俺……やっぱり、騎手を続けたいです。何としても元通りの身体になって、クロノの忘れ物を、俺が取り返してみせなければ……」
結局、このレースを制したのは彼女の外側に張り付いて先に加速を始めたコンビだった。最後は追い上げてみせたものの、ラストランは3着という苦い結末だ。
俺が怪我などせずに乗れていたとしても、クリスみたいに人馬一体のラストスパートを発揮できていたかは分からないけれど。それでも……
こんな悔しさも、一瞬でも騎手としての生き方を降りる事を選ぼうと思った弱さも全部、もう一度ここに辿り着いてみせる事でしか、拭えないような気がした。そしてその事でしか、彼女にできる恩返しは無い、とも。
「友介のその気持ち、僕らには痛いほどよく分かるよ。とにかく涙を拭くんだ。引退式ぐらい、主戦が晴れ晴れした顔で見送ってやらないと」
そう言って肩を抱いてくれた才藤調教師の言葉に流れ落ちる涙を振り切り、俺は彼女の下へと向かった。
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