最高の相棒との別れ。
この物語は実話のエピソードには基づいていますがフィクションです。
したがって実在の人名・馬名などは全て架空のものに置き換えて描いております事をご了承ください。
落馬事故で背骨を8か所も折る大怪我を負ってからの2週間、俺は起き上がる事はおろか姿勢を変える事すら出来ず、病院の白い天井だけをただ見上げながら過ごした。
その日々の中でずっと考えていたのは、1頭の馬の事。
クロノトリガー。騎手生活13年目にして俺に初めてのG1勝利をプレゼントしてくれた馬で、なかなか第一線級の騎手と肩を並べるところまでたどり着けなかった俺を『現役最強馬の相棒』という位置まで、引き上げてくれた馬だ。
獲得したタイトルは一昨年の牝馬クラシック最後の1冠・秋華賞と去年の宝塚記念・有馬記念のグランプリ連覇。
特に、若い頃には気性・身体の使い方ともにまだ不安定な部分の多かった彼女が立派に成長し、並み居る牡馬強豪や上の世代を押し退けて6馬身差の圧勝で優勝を飾った去年の宝塚記念は今でもよく覚えている。
雨上がりの芝を力強く駆け抜けてゴールにたどり着いた時の感覚は、未だに脳裏に焼き付いて離れない。
このまま、彼女と一緒に何処までだって行けるような気がする。
その感覚の示す通り、年末の有馬記念も快勝して現役最強馬として揺るぎない立場を得た彼女は今年、世界最高峰のレース・凱旋門賞に挑む計画が持ち上がっていた。
そんなレースに海外で勝った事も無ければ騎乗した事も無い俺が一緒に挑んで良いのか? と俺は訊いたのだけど、馬主の黒野氏も才藤調教師も口を揃えてこう言ってくれた。
「新馬戦の後さ、友介は言ってくれただろ? 『この馬に乗るためだったら俺は何処へでも行きます』って。あの時から君以外にこの馬の主戦は考えていないんだ。凱旋門賞へは、君で行く」と。
それなのに……こんな事になってしまって。
「今後のレースについてだけど……去年までミスターフィエールの主戦を務めてくれていたクリス・ラ・メールに替わってもらう事になった。本当に……こんな状態になった君へこの決断を言い渡すのは、済まないと思っている」
そう言って言葉を詰まらせる馬主に、精一杯の笑顔を向けて『大丈夫ですよ、わかってますから』と告げる。俺が騎手に復帰できる日は1年後かそれよりもさらに先か……全く分からないのだ。全盛期の短い競走馬にその間、ずっと走らないで待っていてくれだなんて言えるわけが無い。仕方のない事だ。
そうしてクリスに手綱が替わった彼女は、それでもその強さは変わることなく宝塚記念を連覇。しかし凱旋門賞ではさすがに日本とは違う競馬に馴染めなかったのか7着と敗退し、帰国した彼女は今年の有馬記念を最後に引退する事が発表された。