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5話 ~亀~

 


「がっ………」


 思わず声が出た。今回は今までで一番強力だ。少し苦しくて、でも幸福で、まるで亀甲縛りで吊るし上げられたかのようだ。


「私達のことを助けると思って、ね?」


 脳が痺れる。呼吸が出来ず酸素が脳に行き渡らずに頭がぼーっとする。それが良い。


 今まで生きて来て辛いことも苦しいことも色々あった。だけど思う。もしかしたら僕はこのために生まれてきたのかもしれない。


「武士道は死ぬことと見つけたり」とは、佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝の言葉だが、今僕はそれを上書きする言葉を発明した。


「生きることは亀甲縛りと見つけたり」だ。山本常朝もきっと納得するだろう。


「ありがとう!」


 真っ白な深い靄の中に、向日葵のような笑顔の日向さんが見える。どうやら僕の体は勝手に頷いてしまったらしい。アルバイトを引き受けてしまった。


 だけど今はそんなことどうでもいい、とにかくこの幸福な苦痛を味わっていたかった。


 顔が近い、甘くてスパイシーな匂いがする、彼女の唇が動いた。


 もしかして、もしかして今ここでキスを………びちゃびちゃなキス?なんていやらしい、なんて最高だ。その後はもちろんホテルに直行で………。


「それでアルバイトの日時なんだけど………」


 パッと手を離した日向さんは手帳を見ながら淡々と話を進めていく。なんだか仕事のできるビジネスマンみたいだ。


 一応話は聞いているものの僕の脳みそはほとんどが煩悩に支配されていた。そして話が丁度終わったタイミングで日向さんのスマホが鳴った。


「ごめんなさい、急用ができたから私はこれで失礼するわ。アルバイトの件、よろしくお願いね」


 彼女は申し訳なさそうに手を合わせた後で、緋色のロングコートを翻し颯爽と去って行った。


 ひとりきりになったテーブルの上にあるのはカップの底が透けて見えるほどに少なくなった深煎りコーヒー。


「ホテル………」


 びちゃびちゃになるはずだった僕の唇が独り言をつぶやいた。怒涛のように話が展開したせいで、頭がオーバーヒートしている。


 彼女が置いていった皺ひとつない新札の一万円を見ながら茫然としていたら、ゆっくりゆっくり頭が回り始めた。


 思い返してみれば最初からおかしかったのだ。僕と日向さんが出会ったきっかけ、それは彼女が僕の目の前でハンカチを落とした事。


 そしてこの素敵な喫茶店に来ることとなり、僕は彼女の娘の相談相手をすることになった。ほんの一時間前には名前も知らなかったのに、あまりにも順調に知り合った。


「罠だった………」


 彼女はわざと僕の目の前でハンカチを落としたに違いない。多分そうだ。そうなれば拾った僕は声を掛け、それが出会いとなる。


 目的は何か?


 それは僕にアルバイトをさせること。


 だから家庭教師などできないと断っても引き下がず、相談相手へと内容を変えてきた。普通ではありえないほどの高給を提示し、僕が引き受けたらすぐに去って行った。


 何のために?


 それはわからない。理由も証拠も何も無い。だけど僕は自分の「勘」を信じている。


 さて、これから僕はどうするべきか?彼女の色気に惑わされ、まんまと罠に嵌められた哀れな道化はどうすべきか。


 賢い人なら彼女とは二度と会わないだろう。


 彼女はあまりにも怪しすぎる。それをするのは実に簡単なことだ。約束を無視してアルバイトになんか行かなければ良い。


 天井のシャンデリアが光を浴びてきらきらと輝いているのをしばらく眺めながら、カップの底に溜まっているコーヒーを飲み干した。


 すっかり冷めてしまっているし、喉の渇きが癒えたわけでもない。だけどほんの二、三滴のそのコーヒーが美味しい。


 アルバイトに行こう。


 僕は賢い人ではないのだから。




 こうして僕は出会う事になった。


 鹿島かしま 美佳みかと。





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