41話
「ここは野球場じゃないよ?」
「………少々痛い目に遭ってもらうぞ」
ぬるい風が二人の間をゆっくりと過ぎていった。
「断る」
男の目端がピクリと動く。
「僕は今とっても可愛い彼女を待たせているから、頭のおかしいオジサンと遊んでいる暇はないの。じゃあねぇー」
「ヒョォーーーー!」
手をひらひらと振って歩き去ろうとする鯰に対し、奇声と共にバットを水平にふった。
「おっと!危ないなぁ。ここは野球場じゃないって言ってるじゃない」
バックステップで軽々と躱してから、サングラスを指で押し上げながら言った。
「何者だお前?」
「それはこっちが聞きたい。馬鹿みたいな恰好でバットを振り回す頭のいかれたオジサン、あなたは何者ですか?」
「ヒャー!ヒャー!ヒョォーーー!」
苛立ったのか、虚を突いたつもりか。質問に答えること無く突進。しかも今度は一度では終わらなかった。距離を詰めながら二度、三度と連続でスウィングしてくる。
男の意に反して鯰は笑顔のままだった。
バットを振るう度に、いや、その前からもうすでに動き出していた。軽快なバックステップで蝶のようにひらひらと躱していく。まるで鬼ごっこ。表情にも身のこなしにも些かの緊張感も感じられない。
男が悪いわけでは無い。
身長は鯰よりも高く肩幅も広い。明らかに普段から運動をしている人間の体つきと動き。鋭いと言って良い。ただそれ以上に鯰の動きが軽やかなのだ。
「空振りばかりじゃないか。松田」
何度目かの空振りの直後、強調するように言われた最後の言葉に、男の動きがピタリと止まる。
「なんだと………?」
「聞こえなかったか?松田って言ったんだよ松田、お前の名前は松田だ」
ずり落ちたサングラスを上にあげ、目出し帽の目の奥を刺すように言った。
「………」
「その体格を見れば身長175㎝以上の大人の男だと分かる。そして殴りかかって来る時のその奇声は剣道だろ?美佳の身近にいる人物でその条件に当てはまるのは、クラス担任であり剣道部顧問でもある松田幸司、お前しかいない!」
「はっ、はっ、はっ………」
指を差された松田は息切れしたような声を発した。
「芦田鯰、いや、芦屋鯰か、俺の正体を当てたのがそんなに嬉しいのか?え?」
松田は目出し帽の下で笑顔らしきものを見せた。しかしながらそこに明るさは微塵も無く、その代わりにあったのは狂気。目尻が切れるのではないかと思うほど目を見開いている。
「お前はずいぶんと馬鹿なことをしたってことに気付いてないみたいだな。そうだよ、俺は松田幸司だ。けどなぁ、よく考えてみろよ芦屋鯰………」
曇天を仰ぎ見ながら大笑いした。しばらくして治まったのち、涎だらけの口を拭って再び鯰を見た。
「それを知られちまった以上、生かしておくわけにはいかなくなったんだぞ、分かるか?」
金属バットがアスファルトを叩く硬質な音が住宅街に鳴り響く。
「本当は腕の一本でも折ったら終わりにしてやるつもりだったんだ。それなのになあ、残念だなあ、お前の人生ここで終わりなんだ、わかるか?ああ?可哀そうになぁ可哀そうになぁ………」
「殺すつもりか?」
「俺の言ったことを考えたらわかるだろう?名探偵気取りが命取りになったな。命取り、そうまさしく命取りだ………」
クッカクッカと鳥の鳴き声のように笑う。
「お前に人を殺すような度胸があるのか?」
「度胸はあるかって?自分でも不思議だよ、ここに来るまではこんなことになるなんて想像もしてなかったのに、なったらなったで殺すことが当たり前だと思ってる」
空を埋め尽くす分厚い雲は動く様子を見せない。
「その割にはさっきから当たる気配すらないじゃないか」
「ふん!殺さないために手加減してたんだ。今度からは本気で行く。理解できてるか?今からお前の頭をかち割って殺す言ってんだ馬鹿野郎!」
「馬鹿野郎はどっちかな?」
尚も余裕の表情を浮かべる鯰がゆっくりと片手をポケットに入れた。
「?」
おかしい。
どうしてこの芦屋鯰というガキは恐れを見せないのか。俺は本気だ。本当に殺そうと思っている。
それが分からないほどの間抜けなのか?いや、そうは見えない。それならこの余裕の態度は何だ。
その時、松田の思考を破るほど強烈な防犯ブザーのけたたましい音が鳴りだした。
「なんだっ!?」
戸惑った声をあげたのとほぼ同時、鯰の後ろの脇道から銃を構えた3人の男が飛び出してきた。
「警察だ!武器を捨てろ松田幸司!」
「うそ、だろ………」
目の前から景色が消えていく。世界がひび割れていく。その中にただひとり余裕の表情で佇む憎きガキがいた。
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