1話 ~春のハンカチ~
今日の空は春の優しい色をしている。
ぽかぽか温かくて気分のいい日差しを浴びながら歩く僕の名は芦屋 鯰。
食べるの大好き勉強苦手運動得意という、どこにでもいる普通な人間だ。そんな僕が誇る事があるとすれば、それは「勘」の良さだろう。
今日もパチンコで5千円勝った。それだけ?なんて言われるかもしれない。だけどパチンコ三百戦無敗だと言ったらどうだろう?僕の「勘」はそれくらいだ。
それにしても東京というところはあまりにも空が狭い。目に映るのは建物ばかりで、人間はその隙間で生きているみたいだ。
そんなことを考えながら歩いていたら、目の前で真っ白なものが落ちるのが見えた。一瞬何だか分からなかったけど直ぐに気付いた。
「ハンカチ落しましたよ」
前を行く人の背中に声を掛けてからしゃがんで拾い上げた。ハンカチには繊細な刺繍が入っていて高価そうだ。もし気付かずに踏んづけていたらえらいことだ。
スローモーションのように振り返ったのは、緋色のロングコートに身を包んだ大人な女性だった。
まるで天使。
そう思ったのは、春の光を纏う金色のショートヘアがあまりにも美しかったから。
髪を染めている人なんかそこら中にいるわけだけど、彼女の髪には本物だけがもつ気品があった。
こっちに向かって歩いて来る。
恐らく西洋の血が入っているのだろう。微笑みを浮かべながらもキリッと整った目鼻立ちは彫刻作品のようで、美しさと同時に強さも感じる。
「どうぞ」
僕はハンカチを差し出した。
「ありがとう」
少し低音の声と共にやって来たのは柔らかな春の風。そして少し遅れて甘くてスパイシーな香りもやってきた。
彼女は手を伸ばしハンカチを受け取った。
「優しいのね」
「それほど大した事をしたわけでは無いですよ」
「そんなことないわ。気付いても声をあげない人も沢山いるのに、すごく立派だと思う」
面と向かって褒められるとやはり嬉しい。自分は良いことをしたのだという満足感も感じる。
「それで………」
少し言いずらそうに口ごもった。
「もし良かったら、お礼に一緒にお茶でもどう?近くに良い喫茶店があるの」
「え?」
上目遣いの彼女から発せられたのは、思いもよらない言葉だった。
「落ち着いた雰囲気でコーヒーにもこだわっている良いお店なの。その、もし良かったらだけど………」
信じられない。ただハンカチを拾っただけでこんな素敵なことがおきるなんて………金魚釣りをしていたらMacBookが釣れたみたいな気分だ。
「喜んで!」と居酒屋の店員みたいな返事をしようと思った。けれど声が出なかった。それだけじゃなくて体も動かない。
心臓の音がやたらと大きく聞こえた。
目に見えない「むわんっ」とする何かによって体が包まれている。まるで粘度の高いガスの手に握られたみたいだ。
「どう?」
彼女の問いかけに僕は頷いていた。催眠術にでもかかったみたいに体が勝手に動いた。
「それじゃあ行きましょうか」
彼女の瞳が少し青みが勝っている事に気が付いた。美しいな。そう思っているうちに僕の足は僕の意志を問うことなく勝手に女性の後ろを付いて行く。
超常現象だ、超常現象が起きている。上田次郎と山田奈緒子を呼べ!僕の脳内は現実逃避するくらい混乱していたが、とある考えがダイヤモンドのように煌めいた。
落ち着け芦屋鯰。
今これは紛れもなく勝負の時だ。ここでどういう立ち居振る舞いをするかによって、お前の人生は間違いなく変わる。
いま最も重要なことは何だ?
それは美しい女性からお茶に誘われているということじゃないのか?ただの都市伝説だと思っていた逆ナンパが実在したんだぞ。
もしここでみっともなく取り乱し「うわーーー!!」などと叫んでみろ。彼女はどう思う?「何こいつ気持ち悪い」と言って去っていくぞ。
それでいいのか?
冷静に今の自分の状況を分析してみろ。別に死にそうになっているわけでは無いだろう。声が出ない、体が動かない、だから何だ?
ただの金縛りじゃないか。昔からよく聞く話だ。ただそれが真昼間に起きただけのこと。それだけの事だ。慌てふためく必要がどこにある?
逆ナンパの最終地点はどこだ?それはーーー。
「大丈夫?」
振り返った彼女に僕は頷いた。
「そう………」
歩き出した彼女の後ろを僕は黙って付いていく。ビルの隙間にある小さな春の空を見ていると段々と心が落ち着いてきた。
彼女は背が高い。
こういう時は「あと20㎝身長があればなぁ」といつも思う。僕はあまり背が高くないのだ。
広くない道を一言もしゃべること無く彼女の後ろを付いて行く。逆ナンパってこういうものなのか?なんだかRPGをやっているような気分だ。
「ここよ、私の行きつけなの」
ピタリと立ち止まった彼女が指し示したのは、蔦の絡まったレンガ造りの建物。
喫茶ラファイエット。
中世ヨーロッパの感じというか、シャーロックホームズの世界に出てきそうではあるけれど、不思議と周囲の景色に溶け込んでいてボーっとしていたら見過ごしてしまいそうだ。
「入りましょうか」
これはきっとお茶だけでは済まないぞ、僕の「勘」がそう告げていた。
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