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東雲のある粉と水

作者: 犬神のしゅり

 東雲のある粉と水

 

 昨晩から早朝にかけての雪の残骸は足を遅らせた。少しでも心に焦りの灯火を灯すのならば、足元の薄い氷塊はたちまち凶器と化すところであった。


 此処ら辺の冬の厳しさというものはその北風の強さと相俟って実際の気温より何度か程厳しく感ずる。だが、その厳しい寒さの割にはあまり雪が降るような土地ではなかった故に、いつも忙しい此処らの人間は皆白い粉が舞うや否や何処か大人気無く心の奥底にて高揚するわけであるのだが、未だ冷たい朝露が残る時頃早くに道を歩くなり昨晩の奥底から湧く高ぶりは何処へやら、ただその虚しい寒さに凍えた残骸に失望をするのである。


 幾分かの心の高揚を取り保っている者も在るが、そのような者は一部の大人と無垢な子供達のみであった。私はというと昔は無邪気にそれを大事に心に取っておいたはずなのだが、今はというともう大半の大人と変わりがない。


 更にいうならば、既に白粉が舞い始めた昨晩の辺りからその虚しい予想がつく次第故に何処かの一瞬の垢を欠いた大人気なさといったものすらも存在が怪しかったように思える。


 私の職場である大学の門を通るのは一月振りのことであった。とういうのも、大学の学生達は先月一斉に大休暇へと入ったために、幾分かの申し訳なさを感じながら私も便乗し一月の休暇を頂いていたのである。長い期間にて教職と研究に努めていたために、体はとっくに疲労していた。


 最初は何処か温泉地でも良いから旅に出ようと考えていたのだが、実際休暇に入るなり迷惑が過ぎるその寒さに追いやられ家から出ることが出来なかった。だが、何もせずに丸い猫のように居座っていたわけではなく、研究に必要な資料を求め近くの本屋へと出掛けることもしばしあった。家には妻子も居り、暇故の無意味で、且つ普遍的幸福感を味わうことも多かった。


 だが休暇中の全てが普遍なわけではなかった。そしてそれは休暇中に生まれた大きな楽しみの一つでもあった。私は休暇中にある男性と本屋で知り合い、友人となり、彼との呑みをよく楽しんだ。彼の名前はさほど重要なものではないが、Nとだけしておく。彼はある地域の文化人類学に関する書籍の場所に居り、私は急に話を掛けたくなったのだ。初めの彼は怪しげな雰囲気を出している小説の冒頭にあるような一種の「ある男」の雰囲気を纏っており、近づき難い様子であった。だが、彼が居る場所を初めて認識したと同時に彼は私にとってある特別な人間に思えた。一種のくだらぬ帰属欲求のようなものであろう。それから私は低い姿勢で丁寧に声を掛け、同じ興味を持つ同志であるとの認識をさせようと努めた。彼とはその時以来の浅い仲であったが、お互い幸福的孤独を生きているらしく、仲は思うより深まったらしい。


 彼は私とは違い寒さに強いようで、呑み終わり肌を痛めるような鋭い風が吹きつけたとて肩をとんと窄めることのない男であった。また彼は無口、というよりは必要最低限の物事のみを話す奴であり、私が生業を聞いたとて身の上の話は一才答えることがなかった。だが、いざ学問の話となると彼は酒の力を借り、鷹のような目をして話し始めるのであった。私の研究内容は果たして誰が興味を持つのかと自らも疑い深いものであったのだが、彼はその目を鋭く輝かせながらまるで何か大勢のチュニックとトガを着た人間達に対し弁論をしているかの如く威勢を良くした。そして彼の弁論内においてもまた自らの内に対話を起こし異論を唱えては真の学問を始めるまでに至ることもしばしあった。そしてそれは実に論理的なものですらあった。


 鷹はしばらくして鳩になると無口になり熱燗を飲み干す。果たして彼は同業の類なのではともう一度聞くがやはり答えることはない。彼はただただ落ち着いた低い声で私は研究者のような優れた人間ではないとぼやくのみであった。諦めをつけようとした時、彼は一度だけ小さく云うのであった。


 「目指してはいたんですよ。かつて。」


 私はやはりと合点し慎重に聞いた。


 「では何故成らなかったんです。」


 「少し怖かったんですよ。生まれがああだと想像以上に難しく残酷なものですよ。」


 私は彼の言う事が分かったようで解らない故にその後も幾度か聞いたが、やはり彼はそれ以降身の上の話はしなかった。


 何にせよ、私は彼との最初の呑みで彼に何処か惹かれ、その後も彼との議論を楽しんだ。私にとって議論に付き合ってくれる人間など居なかった故に、彼との出会いは非常に喜ばしいものであった。


 その微弱でありながら大きな喜びからであろうか、妻との暇故の無意味な会話にはしばしば彼の話が出てきた。勿論、妻が呆れていることは重々承知を致していた故に、そろそろ妻も機嫌を損ねるだろうと休暇の最後は彼とは呑まずに妻子と共に自宅で過ごした。


 私は折角に頂いた一月の休暇をその様に穏やかに過ごした。毎晩夜になるなりこの休暇が長らく続けば良いと大人気無く星に願ってみたりすることもあった。


 今は過ぎ去った空の上、柔らかな朱と水が混ざる頃には、明日からはまた仕事だというその変わらぬ事実に心を全くにやられていた。


 その夜妻は、体が怠けている様だからと少しお節介な事を言いながら手拭で持った熱燗とあの柔らかな朱に似た鯛を出してきた。ちょうどその時頃であろう、外を見ると未だ積もりはしていないが暗い中白く輝き落ちる雪が在った。その白い輝きは驚く程に遅く、静かに、そして厳かに地を目指していた。妻の顔をふと見ると寒さで朱と変わらぬ美しさが頬に在り、それを輝かせながら微笑んでいた。そしてそれはただただ美しいばかりであった。妻はその雪に嬉しさを感じているのだと思ったのだが、その柔らかな視線を追うと雪に心遊ばせ踊る息子を見ていた。なるほど彼女も母親なのだと感心をした。熱燗はよく温まっていた故に体は火照る程に気持ちがよかった。息子が少し落ち着きすやすやとしたところで私はようやく目を閉じ、一月の休暇を終えた。


 東雲の頃、目を覚ますなりその寒さは体を縮ませた。最近の肩の凝りが尚更に痛む程である。足の指が自ら脚に触れるなり体は敏感に反応し、少し手を布団から出すなり未だ出ぬ陽の寂しさが刺激し堪え難かった故に怠け者さながらに数分の間引き篭もった。朝の陽は思うより早く、やっとの思いで布団から出たのは既に空が橙の時頃であった。そして何か細い糸で引っ張られる傀儡の様に籠城を諦め大学へと向かわせた。


 一月振りの大学の正門をくぐると、昨日の美しかった雪は私の予想通り無惨に固まっていた。少しでも油断し足を遅らせるや否や瞬く間に腰を落としそうになる程である。私は足を落ち着かせながら入口へと向かった。鋭い寒さが故に肩を縮め、顔は無惨な固形を見て落ち込んでいた。傀儡の糸は完全に緩みきっていたということである。


 だが、緩みきっていたその細い糸はある瞬間を境に少しばかり張りきった。目の前に何か気配を感じたのである。こんな時間に既に来ている人がいるのだろうかと疑いながら、地面からやや斜めに、完全には上げることなく顔を向けた先には限りなく黒に近いような青さを持つズボンを履いた者が在った。なんせ顔を上まで上げることはなかった故に顔までは窺うことが出来なかったが、おそらく警備員か何かであろうと考えた。服が擦れて冷たさを感じる故に少しも体を動かす気にはならなかったが、失礼のないようにとしっかり顔を上げた。男は黒い帽子を深く被っており顔をはっきりと窺うことは出来なかったが、ほんの僅か、一瞬間である、男の目が鮫の様に私を見た様に感じられたのである。それは誠に鋭い牙であった。失礼さの考慮からか、もしくは恐れからか凝視はしなかったが、何処かその人間の深い闇が垣間見えたのを感じた。自分自身で分かってはいるが、これはあくまでも勝手にといったところなのである。じきに私は建物内に入るだろうし、その際に男の横をすれ違うのだから、勝手な失礼が無いように一つ挨拶をしようと決心した。だが、だがである。一応言っておくが、もし、仮の話ではあるが、妻子と共に三人で買い物へ出掛けているその普遍的幸福な状況でその男に出遭うことがあるのであれば、その出逢いに感謝くらいはするものの、私は決して男に声を掛けはしないし、むしろ近づくこともしない。おそらく、妻子を一番反対の端に追いやり足を早めることであろう。私が遭遇した勝手に恐るるその男はそのような男であったのだ。


 「おはようございます。」


 それから数秒程が経った気がするのだが、氷が砕ける慎重な足音が聞こえるのみであった。そして私のその声は想像よりも遥かに微弱なものであったことに気がついた。発した声は自らも聞き取ることの難しいものであった程である。私はその固まった喉と暗い不安に支配された頭を精一杯に抱え込んでいた。何故か我が身も解らぬ、何処かが違う、ただそれだけの要素をこの時ばかりは必要以上に敏感に感じていたのである。私は前の声の倍はあろう声量にてもう一度挨拶をした。


 「おはようございます。」


 確実に男が聞き取れる大きさで言った、且つその距離的にも十分なものであったはずなのだが、男は何も返事をしなかった。


 私には挨拶を無視されたという遺憾など微塵もなく、ただただその暗い恐怖に慄くままであった。いや、どうしてそんなにも恐れようか。この男にも父母の在る一人の人間であろう。もしかしたらこの男は極度の人見知りなのであろう。いや、さすれば何故出くわす人間にその都度挨拶をする義務のあるこの仕事に就いているのだろうか、人と関わらぬ仕事などいくらでもあるはずだ。


 男の横をすれ違うまでほんの二、三秒の間に私はありとあらゆることを考え、ようやく横を通り過ぎた。そして私は何処からか来るその謎の暗闇に怯え、男の顔をとうとう見ることが出来なかった。

 だが、通り過ぎたその瞬間である。靴によって潰される氷の砕ける音が背後に迫ってきたのである。私のであろうかと思ったがどうも音が重複している。そしてその音は私の慎重さを兼ね備えたそれとは違う荒々しく慣れたようなそれであった。私は大きな失敗を犯した。完全に油断をしていたのである。緊張と恐怖の頂は男の横を通り過ぎるその時ではなかった。全く勘違いをしていた。その吹き荒れた頂は今、まさに男に背を向けているその状態であった。今の私は完全に怯え、震えるインパラであり、男は繁殖期さながらのハイエナであった。オアシスなどそこにはなく、灼熱の体を感じながら不安は遂に頂を悠に越し、生きるためなら人間特有の情け無さの感情の存在など忘れてしまえというばかりにその細い脚を跳ねるようにして建物の中へと逃げた。


 建物に入ると私の足音以外に聞こえるものは何も無かった。やっと研究室に入りやれ仕事をしようとすると続々と他の人間達が出勤してきたようだ。腰を下ろして初めの二十分程は奴がいつ何処から来るか分からぬその恐怖に支配され仕事が進む気がとんとしなかった。今日は読んでおかねばならないものが二、三程在った故に気が億劫になる。


 いざ仕事に本格的にのめり込むと、不思議と私の頭の中に居た巨大な男の影が粉のようにして舞い消えた。驚く程に恐縮していた心臓はこの頃には原型をとどめ直していた。


 私が再びその巨大な影を思い出したのは研究室を出て帰宅しようと腰を上げたその時であった。事実、その黒い粉は消えたのではなく床にただ散乱していただけであり、思い出す度に出るその冷や汗の水分を糧にし固まり、再び巨大な像を創り上げた。


 黒く輝く粉の残骸は足を遅らせた。もう既に外は黄昏であり、力強さを見せる幾つかの星は儚く褪せていた。私は東雲に経験したその恐怖をあまり思い出さないようにあれこれ関係のない事を頭に浮かばせた。だがいざ建物の出口から正門へ向かおうとすると寒さで上を向かないはずの顔が文楽の主遣いに動かされたように慎重に首を伸ばしてその先を探った。何かに夢中になって探したのだが遂に探し物は見つからなかった。だが、こんな探し物など見つからなくてもよかった。正門を抜けてもやはりあの男は居なかった。私はその後の帰り道でもあれこれ考えたために完全に頭を疲労させてしまっていた。


 帰り道にはまだ金色が黒く居残っており、帰宅を急ぐ疲れ果てたはずの人達が力強く歩いていた。私は帰宅途中にあるあの本屋で哲学の本を探そうと寄ることにした。哲学というと私の専門外であるのだが、かえってその専門外という居場所が落ち着ける読書の仕方であった。本屋の光は誠明るく歩道のみでなくその全体を照らしており、今の私には非常に暖かく、有り難く感じた。本屋に入り文学特集には目も向けず真っ直ぐ哲学の場所へと向かった。するとそこには本棚の前に立つNが居た。やはり少し離れて見るとやけに暗く近づき難いなりである。私は顔に少し緩みを持たせながら声を掛けた。


 「いやあNさん、どうも、仕事終わりですか。」


 「ああ、これはこれは、どうも。いやまあ今日も仕事してきました。貴方こそお疲れ様でございます。」

 彼の顔は少しばかり戸惑ったような面持ちであったが、実をいうと普段の顔もそこまで知っているわけではない。


 「今日も何かお探しなんですか。」


 「まあ、ロレンツォ・ヴァッラの本を探しているのですが、なかなか見つからないものですね。」


 「まあ、また随分とあまり此処ら辺では読まれない著者をお探しですね。」


 すると彼は軽く頷いて真っ直ぐに私の顔を見つめた。何か他に用でもあるのかと言わんばかりに無表情に見つめるのである。


 「そうだ、この後は何か用事でもありますかな。」


 彼は二、三秒間考え、もしくは悩んだのか分からないが、小さい声で特には無いと答えた。


 「いやあ、せっかくの偶然なので、少しだけ呑みに行きませんかと思いまして。」


 「分かりました。では少しだけ。熱燗でも呑みましょう。」


 彼の返事は少々渋々気味ではあったが、私の方は誰かに話したいことが大きな癌のように一つ在った故に気にしなかった。


 すると珍しく彼の口から別の誘いがあった。


 「前回は貴方のお薦めの店に連れて行って下さいましたから、今回は私が。」


 彼は無理矢理私に付き合っているのかと心配をしていたが、誘いを受けどうやらそれは違うらしいと安心をした。


 「いやいや、それはどうも楽しみですね。ではお誘いに乗って。」


 密林のように入り混じった居酒屋が立ち並ぶ狭い道は自転車と歩行者が当たりそうになる程であり、暗黒であるはずの暗い道を照らしていた。人混みをかき分けながら進むとその狭い路地通りには小さな踏切があり、その目先にある一軒の肩をすくめたように建っている飲み屋をNは指差した。飲み屋の名前は櫻庭屋というそうで、葉生姜の醤油漬けが人気だそうだ。彼はその飲み屋の関する情報は一つ二つのみに抑えて店の窓を開けた。中は外見のわりには綺麗であり、大勢の客で賑わっていた。私とNはカウンターに並んで座り、熱燗と店の看板商品を一人前ずつ頼んだ。


 「いやあ、なかなか良い飲み屋だね。よく来るのかい。」


 「まあ。」


 やはり彼は必要最低限の人間であることをつい忘れていたものである。だが、今日という日は私が主な話者である。熱燗の酌もかなり進んだところで私は急に我慢ができなくなり、あの癌を打ち消すように話し始めた。


 「そういえば今日、久し振りに出勤をしたんですけれども、警備員らしい人が居りまして。妙に怪しいというか、ものすごく異様な雰囲気を感じたんですよ。」


 「はあ。」


 「顔を見て挨拶をしようと思ったんですけれども、どうも顔は見れないし、何か恐れてしまいまいした。」


 「そうですか。でも気のせいでありませんかね。」


 「いいやそんなことはないですよ。私だってね、最初は自分の考え過ぎだと疑ってみたんですけれども、あまりにもおかしいんですよ、普通ではないことは確かです。」


 「まあ今日だけだったかもしれませんよ。誰にだってそういった暗い日が幾度かございますから。何か嫌なことなどあったのでしょう。」


 「そうですかね。」


 私はNのように冷静に考えることも出来たが、自分ではそのつもりであっただけなのだと今更に気がついた。彼のそのいつも通りの冷静さで客観視すると、改めて自分の創造上の恐れに気づき、心が少し楽になったような気がした。


 「Nさんはそのような人に出会ったことはありますかね。」


 「どうでしょうね、出会ったところで私は気にもしないでしょうし、そもそも私自身そう思われることが多いですからね。」


 私は彼と違い少しの微笑を浮かべた。頭にはNと出会ったあの時の外側の奇妙さが思い出され、あまり時が経っていないのにも関わらず少しばかり懐かしんだ。


 「まあ、でもその人の内を知るとなかなか興味深いもので、奇妙さなど何処に在ったのか思い出すことも忘れる程でありますよ。」


 「そんなことを言われましても、私は公私をはっきりと致しますから公で見るなら奇妙に思われることに違いはございません。」


 「そんなことを仰らないで下さい。公の場でも私のような友人であればNさんに気がつきますよ。もう貴方は私にとっては黒くないのですから。」


 「はあ。」


 「いやあ、Nさんと同じ職場でしたら今よりも少しばかり楽しげであったはずなんですけれどもね。」


 「まあ、でも私は絶対に公私を分けますからね。」


 「そうですか、まあそこまででなくとも良いではありませんか。」


 私はNの公の姿を見たことはないが、Nのような唯一の友人であれば気づく自信が大いにあった。結局、偉大な友人とその後もくだらぬ莫迦噺を周りの客が居なくなるまで散々とした。客がひき、静まり返った店の外を出ると人が居なくなった寂しい暗道があり、細い音の風が道を割るように強く吹いていた。 「いやあ、遅くまでお付き合い有難う御座います。」


 「いえいえ。」


 「ではまた呑みましょうね。どうかお気をつけてお帰りくださいね。」


 「では。」


 本来であれば、また創造上の何かに背後を憑依され、追われながら帰るはずだった自宅への寒い帰路も何かがふと軽くなった。そして私は当然ながら何事もなく子が寝静まった自宅へと着いた。中では妻が眠たそうな顔をして待っており、お風呂は沸いているから、私はもう寝るとだけ言って寝室へと首を入れた。私は冷えた体を熱いお湯へと入れ、皮膚に鳥肌を立たせた。そして同時に幸福を味わった。深夜、火照った身体を妻に寄せ目を閉じた。


 白々明けに目を覚ますと、外は昨日の雪景色が若干土色に果てたような様子であったが依然として残りはしていた。朝に本を読もうと思ったが、昨日の書店にて大事な買い物ということをすっかり忘れていたことに今更気がついた。昨日よりも早い時頃であったが、今家を出てしまい仕事を進めてしまおうと早速家を出た。自分の白い息が雲のように見える上を少し見ると、本来の雲は無く、天気がすこぶる良さそうである。呉須色の空の地には紅陽が昇りそうな瞬間が描かれていたが、身体はその存在を感じない程に厳しい寒さがそこに在った。私は相変わらずの昨日の慎重さを保った足つきで大学へと向かった。自宅から大学までは徒歩で四十分と少しかかるために、夏などには途中にある公園で体を涼ませるのだが、どうも最近は寒さに負けて体を動かしてしまう。公園には見向きもせずに道を進み、空がやっと明るんできた頃に到着した。


 それと同時に私はやはり昨日のあの粉をまた固めてしまった。あの悍ましいそれである。だが私自身本当に理解はしているつもりなのである。私が瞬間瞬間に身勝手に散乱している粉に水を掛け、自らに作ったその像が巨大化し過ぎて焦るのだ。事実、その男はその男であり、私のその男ではないのである。私は極めて無礼な創造者なのである。私の目に大学が入ってしばらくそれを考え続けてしまった。ただでさえ慎重な足は別の意味で更に慎重に、重くなり、何かに対して大きく身構えた。不幸なことに人間の足はどれだけの慎重さを保っていても未開の不可解な地に進み、いずれは辿り着くらしく、いつの間にか大学の正門前に近づいていた。もう後戻りなど出来そうにもなかった。私の体は既に水を得た粉のように硬直を成していた。寒さ故のそれではない。正門の角を曲がり、入口方面の正門を見ると、さっき造った大きな影が異様に現実にあった。幸い立ち止まったのは一瞬であるから目の前で勝手に怯える一匹のインパラの存在は気づかれずに済んだだろう。私はなんとか拒む全身を動かし正門を進んだ。この調子だとあと二十秒程しか残されていないだろう。私はその与えられた僅かな時間を有効に使わなければならなかった。なんとかして男を男のままにしてあげなければならなかった。どうにかして私は壊れた蛇口を治さなければいけなかった。だが、もう既に彼は水浸しであるはずなのに不憫さの懸念が全く浮かばぬ程に強く固まってしまっていた。蛇口を捻ったところで、もうすでに無意味なようだ。固まってしまったその像を壊すのは簡単そうで難しいものである。その唯一、簡単且つ難しい術は、ただその像に何かを突き刺せば良いだけのことであった。ただそれは精神に異常をきたしていない、恐怖に侵されていない人間にはとても現実に出来ることではない。と同時に、そうした考えを浮かばせている時点で既にもう私はそうした人間になりかけているのではないかと心配もした。たった二日間の出来事であるはずなのだが、あまりにも悩む期間が長いように思うのだ。インパラはもう既にハイエナの目の前に居た。そして私はハイエナに噛み付くように挨拶をした。


 「おはようございます。」


 期待はしていなかったが、やはり彼は何も言葉を発さなかった。ハイエナは目の前に獲物が在るにも関わらず顔を深く被す帽子のせいで暗闇で迷子になっているらしい。もしくわその暗闇で見えない牙に気付いてない自分が在るのかもしれない。もはやインパラは恐怖を忘れ、挑発するように目の前でじっと立ち止まっていた。


 「あの、昨日も早かったですよね。早くからご苦労様でございます。」


 私はこれ以上にない温かみを装った言葉を掛けた。インパラはその細いか弱い腕でハイエナを突くが、ハイエナはやはり微動だにしなかった。


 「あのう、昨日から何故そんなに私を無視するのです。おはようございます、くらいは返して頂いてもよろしいのではないのでしょうか。」


 するとハイエナの目が急に暗闇から現れ出し、あの普段丸い目など何処へ在るといった具合に鋭い、悍ましい目をぎらつかせた。


 私は咄嗟に目を逸らし後退りをしてしまった。まるでいつでも弱い草食動物なぞ仕留めることが出来ると言わんばかりの威圧でこちらに向かってくるのである。インパラは少しの間のみ背を向けずに後退りをしたが、いよいよ男の手が銀色に輝いたように見えたその瞬間に足を花火のように弾かせ建物の中へ逃げた。背後を振り向くことを忘れていることに気づき、すぐに振り返ると、追うことはしないがその暗い目のみが黒く輝き睨むように思われた。もしここで走って追ってくるようなことがあるとすればどうすればよいのだろう。それだけを考え、なるべく奥まで、離れるように身体を急かせた。


 段々と空に明るみが増してくると、他の人達で辺りが騒がしくなりようやく心は落ち着きを取り戻した。だが、その一日中はしばらく頭を悩ませてしまった。今まで動かなかったその砂の像が遂に動き始め、私を襲おうとした。私はこれまで単なる想像上の創造物にすぎないと思っていたが、もう単純視が出来なくなってしまった。そしてその午後私の体は重くなり、頭には何か鈍器で殴られたような激しい痛みが生まれた。そして私は早めの帰宅の許可を頂き、明るい安心した世界で帰宅をすることにした。あの癌のような物体は既に正門には居なかったが、常にその癌に冒されぬように逃げ続ける様子で帰路を急いだ。

 やっと解放された時には家の中で布団にくるまっていた。妻は心配そうな顔をして私を見つめている。私は自分が何かに怯えていることを悟られることのないようにただ風邪であると装った。身体、というよりはむしろ心のほうが完全に疲弊していたが、すぐに目を閉じた。


 目を覚ますと既に外は暗さを過ぎて明るみに出ていた。私は少し遅くなってしまったと焦りながら家を出た。いつもより人通りが多い道で一人悩み続けていた。もしまた正門にあの男が居たらどうすれば良いのだろう。完全に私の顔は覚えられているはずだ。だが、私に何か危害を加えることはないだろう、人通りは既に多いのだから。少し怯えながら正門を曲がるとやはり男はそこに在った。どうしたらこの恐怖から遠くへ逃げることが出来ようか。だがここを通らなければ建物の中へと入ることは出来ない。私は自分の勇敢さを捨て、声を掛けることなく走るように早く男の元を去ろうと決めた。そして私は昨日の事が無かったように威勢よく彼の正面まで来た。


 「おはようございます。」


 声を発したのは男の方であった。顔を上げると悍ましいながら影で隠したその顔をこちらへと向けていた。ただただその目の黒光が私を襲うように迫ってくる。私は横に大きく身体を避けて通ろうとした。すると男はその目をより一層黒くさせ私の後をつけてきた。私はこれまでに感じたことのないような恐ろしさに見舞われ心臓の鼓動をより一層急かせた。気づいた時には既に男が私の横に在り、私が歩みを止める、いや動けなくなってしまったと同時に男の足も動きを止めた。そしてその瞬間彼の口元が異様に曲がり、右手が銀色に輝いた。その口元の異様な曲がり方に腰が抜けそうになり、腹と足に力を入れたが、どうも腹に力が入らず痛む。激痛である。腹を見るとそこは輝く一筋の銀色と流れる真紅に染まっていた。そして視界に入るのはあの精神病に侵された画家が描いた夜の絵のような世界とそれが現実になった口元の歪みのみであった。


 目を覚ますと何も見えず季節の感じられない半宵であった。この時間帯は特に寒いはずなのに全身には少し粘りがある強い汗と熱が在った。脇腹を慎重に手で抱えるとその感じる冷たさの他何も無く、大いに安心の心持ちとなった。そしてまた眠りにつこうとするが、再びあの経験をしなければならなくなるのではないかと恐るるばかりで一向に眠る気にならない。もし今日、明け方出勤をしてあの男が居たらどうすれば良いのだろうか。あの事故は決して現実には起こらないだろう、そう願っているのだが、必然的なことはあるわけがなく、偶然の産物としてやってくる。そして残念なことに、今の私は先見の超能力を備えたようにその偶然の産物を予見することが出来そうなのである。もはや早朝や少し遅めの朝など、時間的なことは関係が無さそうに思えた。私が擬似的に襲われたあの事件は、他の人達が居る、奇妙にも朝の白昼堂々的な産物であった。


 私はいつもなら寒さで身体を布団の中にしまっているはずなのだが、あれこれ考えている間に常にその緊張を保ちながら上半身を起こしていた。不幸にも朝という絶望は想像以上に早足なものであり、部屋の中の物体は薄々ながらも光でしっかりと反射していた。そうして長い間気力も無くぼんやりとしていた。インパラが時折見せる、あの立ち止まって一点を見つめる様子はこうした鬱的原因から来るのだろうか、生物学的思考を一切排除した考えが頭を巡る。完全に頭は壊れていた。


 少し経つと遠くから心配そうな顔で覗く妻が見えた。


 「おはようございます。」


 心臓が大きく一回鼓動した。私は心底返答をしたかった。一人の大きな社会的動物として、おはようございます、と。だが今の私には到底口に出せる言葉ではなかった。この言葉を言わなくても良い時間帯で生きたいのである。だがどうしても一年で最低でも三六五回は言わなければいけないだろう。では私はこの世界で生きられるのだろうか。別に鬱で死にたいわけではない。妻子も在る。私は朝一切の他事をせずに考え続けた。


 「相当身体を悪くしているようだから大学の方へ今日は主人が休むと伝えておきましたからね。」


 私は目で妻に感謝をした。今日は職場にだけは行きたくない。昼もやや過ぎる頃、少し暖かい日を浴びながら穏やかに外を散歩した。だがその間も心の中何処かでは穏やかさを欠いていた。


 人の気配も家屋も無い緑の細道に、何処からか来る細い水の道が永遠と掛かる一本の木が在った。まだ若木を過ぎるか過ぎないかの力強いもので、一番太い枝は私の頭上を飛び越えそうな程であった。私はしばらく眺めながら耽っていた。気づくともう辺りは暗くなっていた。だが離れたくなかった。


 私は翌朝、腫れた目を抱えながら起きた。それでも流石に二日は逃げられないと重い足を動かそうとするがそれ以上に、想像以上に身体が重く動かない。ただでさえ時間のかかる通勤道であったが、あえて、もしくは身体が自然と昨日の中木のある道を通り遠回りをした。中木を過ぎた後も私はもうそこへ在りたいと願うばかりであった。


 あの夢は恐ろし過ぎた。あまりにも現実的で、予知的に感じられた。私は今も完全に悪い夢を見ている、そう思うのであったが一向に冷める気配の無いこの現実味の強い悪夢は渺茫たる湿った更地で追われる様を激しく映し出し、そしてその光景から目を覚ますためには自ら目を無理矢理に開けなければいけなかった。だが常に私の腫れた目はその悪夢で開かれており、逆説的に私の目を今すぐここで閉じ、現実夢へと戻らなければならなかった。


 いつもより遠く、そして早いその道筋はあっという間に絶たれ、目の前には悪夢の始まりを伝える大きな正門が在った。そして力無い目を無理矢理緊張させ、重い身体で正門を抜けるとやはりそこには男が在った。そしてひび割れ干からびていたはずの目の前の更地が急に湿り始めた。


 何処からか来るそのぬかるみは足を遅らせた。そしてそのぬかるみを作る太い水の道はたちまち粉を再び固め、ぬかるみにはまり動けない私を睨み続ける。だが、常に男は私を襲うことはしなかった。ただただ私に対して異様なのであり、その粉の細かな欠片が私の肺に入り込み咳き込ませるのだ。私はすぐさま足を引き抜き、来た道を戻り始めた。


 背後を振り返ると男は小走りのような速さで追ってくる気がした。現実なのか、それとも被害妄想で誇張されているのかは区別が出来なかった。ただただ私は広大な湿地を駆け巡った。なるべく遠くへと。


 私はその後も何も話さず、何も視界へ入れることなくただただ鬱であった。


 どれほどの日が経った、もしくは季節が過ぎたのかは分からないが、毎日見ていた中木はその分からぬ水源の無駄な豊富さで、いつの間にか一番太い枝が高く昇っていた。私はそろそろ目を閉じたかった。少し目を閉じながら、現実へと戻るために。


 私は帰り際、小さな雑貨屋であの枝と同じくらいの太さの縄を買った。翌日、私は成長が止まることのないその木に向かった。ゆっくりと、だが確実に成長するその太い枝は力強く、決して折れないことを約束していた。そして私の身体が風で吹き飛ばされることのないようにその枝と首元に縄を結んだ。枝はまだ手が届く高さだったが、これだと苦しくなってしまう。目が覚める前に息が出来なくなってしまう。目が覚めるまで、何処にも行かないようにするために、まだ腰元の高さにある、同じく高く成長を止めない太い枝に縄を結び直した。これで目を覚ますまでゆっくりと座っていられるだろう。日々日々高くなるその枝があまり高くなり過ぎないうちに目を覚ませるだろう。首と枝を結ぶ力強い縄は未だ弛んでいた。日に日にその弛みは緊張していったが、私は気にしなかった。


 茂った細道にある立派な高木に一つ、冬の東雲の様な冷たさを纏った身体が目を覚ますの待っていた。

            

              令和四年二月

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