人間は習慣の動物(三十と一夜の短篇第57回)
購買部はあったが学食の無かった高校から大学に入って、沙矢は学食というものを初めて目にして大いに心を動かされた。学生会館の二階にある喫茶店は朝七時半から開いているし、一階にある大食堂は午前十一時から夕方まで。それぞれの学部の棟にも購買部や喫茶店などが入っている。アパートでの自炊生活を送るのに不安を感じていたので安心した。実家で家族がしてくれたような衣食住のあれこれを自分一人、自分の為にどれくらいできるか時間配分が想像すらできない。掃除や洗濯はともかく、「食」に関する部分の手間暇が節約できれば、その分勉学に励めるのだから喜ばしい。
沙矢が大食堂で一人で昼ご飯を摂っていると、混んでいる所為か、「ここいい?」と向かいから声が掛かった。沙矢の返事を待たずにトレイが置かれた。沙矢が顔を上げると同じ学部の……、確か沙知といったっけ。姓が同じで名前も字面が似ているので、学生課でも学部での顔合わせでも、何度かフルネームを確認された。
だが似ているのは名前だけで外見は似ていない。
沙知は高校の制服から解放されて好きなファッションや化粧を楽しむ学生で、すっきりとスマートだ。沙矢もまた清潔でスマート、しかしお洒落とは言い難い。いつもブラウスかTシャツにジーンズだ。毎日沙知は違う恰好しているねえと気付くことは気付くのだが、沙矢は興味の方向というか、自分自身を演出したいという感覚が鋭くできていない。
大食堂が昼時で混んでいるとはいえ、沙矢は慌てない。そこは自分のペースでよく噛んで食べる。日替わり定食のミックスフライ、鰺フライとコロッケをゆっくりと味わいたい。しかし向かいの沙知は食べるのが早い。席に着いたのは沙矢よりも遅かったのに、沙矢よりも先に食べ終えた。「お先に」と沙知は席を立った。急いでいるのかな? と沙矢は思った。
午後の講義の教室に沙矢が入ると、後方の席はほぼ埋まっていた。前方はガラガラだ。文系の全学部共通の憲法学の講義なのだから、最前列に座っても教授から指される心配はない。沙矢は気にせず前に行こうとした。
「ここ空いているよ」
沙知から呼び止められた。沙矢は席が前で一向に構わなかったのだが、同学の折角の好意を無視するほどでもない。沙矢は有難う、と座った。
「もしかしてお昼を早く済ませたのは席取りの為なの?」
沙知は悪戯を見咎められた幼児のように肩をすくめた。
「いいえ。わたし、元から食べるのが早いの」
「そうなんだ。わたしはゆっくりしてる方だから」
講義開始にまだ余裕があるとみてか、場繋ぎのつもりか沙知が話し始めた。
「わたしも幼稚園までは食べるのが遅かったのよ。小学校に入ってから、給食の時間の時にさ、なかなか食べ終われなくて、でも先生がもうすぐ時間ですよなんて声を掛けるじゃない。給食を口の中に押し込むようにして食べたわよ。そのうちよく噛まないでパクパク口に入れるようになっちゃって。給食なんてものから卒業したんだからゆっくり食べたらいいのに、習慣って怖いわよね」
沙矢はふんふんと肯いた。
「癖になっちゃうと直すのには時間が掛かるらしいけど、沙知さんが気が付いているのなら心掛けているうちに直るわよ」
そう答えておくしかない。
沙矢は学内の一年次の身体測定で沙知が自分よりも服のサイズが一つ小さいのを知っている。
――7号はちょっと羨ましいかも。
沙知の早食いの件は、食事を共にした者は大概聞かされているらしい。学部内、学科の中でも周知になってきた。同じ学科、ゼミ、アルバイトなどで一緒の席で食事をする者は次第に気にしなくなる。先に食べ終わった沙知がお喋りをするのを聞きながら食べるのが常になる。
親元から離れての気ままな暮らしをしていると、生活が極端に走ってしまう例がある。
「美容と健康にはよく噛んでゆっくり食べるのが一番いいってことは判っているの」
そう言っている沙知の食べる速度は変わらなかった。ただ食べる量が増えているのでは、と誰もが想像できた。
――多分、もう7号は着られないんじゃないかしら、わたしと同じ9号になったかな?
年末年始に掛かる頃、沙矢は失礼と感じつつ、考えてしまう。
そうこうしているうちに歳月は流れ、二年が終わって春休みに入る頃に沙知の体型は13号っぽくなり、三年になり、そろそろ就職活動という時期、沙知は15号のスーツを買わなければと話しているのを、沙矢は学食の席で聞いた。相変わらず素敵なセンスのお洒落さんで早食いで、沙知は空のトレイを前にして両肘をついて喋り、沙矢は食事中で、入学式のスーツをまだ着られると言えず、相槌を打つのみだった。