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染音は広い庭を抜け、門を出る。
だが、帰ろうにも出来ない。馬車で寝てきたのだ。道を見ている筈も無い。たとえ起きていたとしても、初めての道を覚えることなど出来ない。染音は如何しようも無く、辺りをきょろきょろと見ていた。
「お一人で如何なさいましたか?」
「!・・・」
不意に聞こえた背後からの声に驚き、振り返る。門兵だった。
染音は中々言い出せなかった。先程の会話が頭から離れない。
「・・・道が・・」
か細い声で、答えた。
「でしたら、此方から左手数十米程先に軍の駐屯所がございますので、其方に行かれてはいかがでしょう。私は此処を離れる訳には参りませんので、お連れ致せませんが。」
「・・・」
染音は小さく礼をした。そして、言われた方向へと歩いて行く。
暫く歩くと、石の塀が続く様になり、木製の門が見えた。門の横には「駐屯所」の文字が有る。
門兵に、道を聞きたい、と何とか言った。門兵は数瞬の後、染音を中に通し、建物へ案内した。
染音が建物の中に入ると、一室に案内され、椅子に座るよう言われた。洋卓越しに一人の軍人が座る。其の斜め後ろには軍人が一人、立っていた。
「先ず、お名前を。」
「!・・・山城・・染音・・です・・・」
「山城染音様、山城准佐のご令嬢で。鹿鳴館からのお帰りですか。現在山城准佐は鹿鳴館に?」
「・・・」
染音は小さく頷いた。
「では、先ず連絡の方を。」
「!・・あの・・・」
「如何しました?」
「・・・出来れば・・知られずに・・・」
「しかし、其れではご心配なさいますよ。」
「・・お願いします・・・」
「・・分かりました。善処します。」
俯いた儘、染音は小さく頭を下げた。
「地図を。」
「はっ。」
座っていた軍人が然う言うと、立っていた軍人は棚から地図を取り、洋卓に広げる。結構な大きさで折り目の後が甚だしい。所々色が抜け落ち、使い古された地図である。
「山城准佐のお屋敷は此方です。」
「遠いな。」
「馬を走らせて四十分程度ですので、歩くとなるとかなりのご負担に・・」
「もう暗い。何よりご令嬢を歩かせる訳にはいかん。」
「しかし、其の様な衣装では馬にお乗せする訳にもいきません。やはり連絡を取り、お迎えをお呼びするしか・・・」
「馬車があっただろう。」
「馬車・・ですか。旧式でしたら・・しかし、ずっと使っていないので――」
「ならば、其れを整備し、準備を整えろ。今から向かっても十時を過ぎてしまう。急げ。」
「はっ!」
然うと決まると二人は勢いよく部屋を飛び出した。
其れ程経たないうちに、一人が戻ってきた。準備が出来た様だ。染音は其の人に連いて行き、門に行くと馬車が有った。支えられながら乗り、座ると、扉が閉められる。そして、直ぐに揺れを感じる様になった。
其の時だけは、染音は寂しく、其れよりも嬉しく感じた。差し込んでくる月の影が嫌に明るく感じ、窓掛を閉める。中の明かりを消していた為、うっすらと見える程度の暗闇になった。
幾度となく言われた言葉が、何度も何度も繰り返される。
〈恥を掻かせるつもりなのかしら〉
〈恥を掻かせないで〉
〈せいぜい恥を掻かせないようにして〉
結衣の言葉の重みが漸く分かった気がした。目を閉じると、其の時の結衣の表情、口調、仕草全てが思い出される。
「・・・ごめんなさい・・」
小さな声で呟く染音の頬に、涙が伝う。
屋敷に着くと、侍女の一人が対応した。深く頭を下げ、礼を言う。
軍人らが帰り、屋敷の中に入っても、染音は玄関広間から動かなかった。侍女が部屋に戻ることを勧めても動かない。
侍女が困っていると、中央階段を、足音を響かせ、結衣が降りてくる。軍服に身を包んだ其の姿は、全てを拒絶する冷淡さを具現化した様な物だった。口は堅く結ばれ、蔑みの眼を向ける。そんな結衣の姿に、染音は耐えられず、其の場にがくりと膝を突く。侍女達は直ぐに駆け寄り、両側から支える。
「染音お嬢様!」
「・・うぅ・・・」
侍女の言葉など聞こえていなかった。脳裏では鹿鳴館での出来事、独り隅で目前の光景を眺めていたこと、露台で独り、あの美しい飲み物を片手に外の世界を眺めていたこと、鷯という人に誘われ、踊ったこと、何度も足を引っ掛け、迷惑を掛けてしまったこと、あの二人の会話、さらには、軍人に助けてもらったこと、先程の全てが出鱈目に、音が、映像が渦巻き、反芻される。
「・・ぅ・・ぁ・・!」
「染音お嬢様! お気を確かに!」
「お部屋にお休みに・・!」
頭を抱え、悶え苦しむ中、絞り出した言葉が一つ。
「・・・ごめんなさい・・結衣・・・さん・・」
「染音お嬢様!」
「貴女達、もう何を言っても無駄よ。聞こえていないわ。こんな染音を見ているのは辛いでしょう。後は私に任せて。」
「しかし・・! 染音お嬢様を此の儘に・・!」
「お願い。此れから言うことを、貴女達に聴かれたくないの。」
「!・・・かしこまりました・・」
侍女達は厳しい表情を残し、染音から手を離し、其の場を去った。
残った結衣はもう一歩、染音に近づいた。
染音は大粒の涙を流し、嗚咽の混じった掠れた声で何度も、ごめんなさい、と呟く。
結衣は表情一つ変えず、其れを眺める。だが、組んでいる腕、手には力が入り、歯ぎしりする。
「ぅぁ・・ごめんなさい・・ごめん・・なさい・・・」
「顔を上げなさい!」
「!・・・」
結衣が思い切り叫ぶと、流石に届いたのだろう、染音は体を震わせ、其の顔を上げる。結衣を見ると、一層胸が詰まる思いは強くなり、涙が止めどなく溢れてしまう。
「・・ごめんなさ――」
「どの面下げて帰ってきたのよ!」
「!・・・」
「どうせ碌に出来なかったのでしょう! 相手に迷惑掛けて! 碌に出来なかったのでしょう!」
「!・・ぅ・・・」
「私が教えてあげたというのに! あれ程教えたでしょう! 何故出来ないの!?」
結衣の手にさらに力が入り、衣擦れの音が僅かに響く。
「恥を掻かせるなと! 山城家に恥を掻かせるなって! 何度も言ったでしょう! 此の恥晒し!」
結衣は其の儘屋敷を飛び出した。
「姉さん?」
俺は鹿鳴館を出て、庭に居た。そんな時、軍服姿の姉が、其処に居た。
「結城、如何して外に?」
「たった今少佐との話が終わった所だ。其れで、染音を捜しているのだが、見つからなくてな。」
「染音なら、さっき戻ってきたわ。さっきと言っても、何十分も前だけど。」
「然うか。無事なら良いのだが。染音は如何だ、平気だったか?」
「! ええ。今はもう寝ていると思うわ。」
其の返事に違和感を感じなくもないが、まぁ、良い。姉が居たのなら染音も大丈夫だろう。
「其れで、姉さんは何故此処に?」
「ふふ、結城を迎えに来たに決まっているでしょう。馬車では侍女の子達が大変だから、結城の馬で来たのよ。」
「然うか、悪いな。」
姉を前にして、俺も乗馬する。愛馬は合図をせずとも走り出した。あまり見られないように、と姉が一言だけ言った。
日付が変わった深夜。侍女は結衣の部屋に入った。
「結衣様! まだお眠りになっていなかったのですか・・?」
「ええ、今夜は少し、眠れなくて・・」
「申し訳ございません、何の言葉も無く・・・」
「いいえ、大丈夫よ。こんな時間まで起きているだなんて思わないわよね。」
侍女が頭を下げると、結衣は申し訳無さそうに微笑んだ。侍女が続けて、薪を持ってきたことを言うと、結衣は礼を言った。侍女はしゃがみ、暖炉の横に薪を置いていった。
「染音は如何だったの、あれから。」
「はい。其の後、染音お嬢様は気絶されてしまわれて・・直ぐに寝台の方へ・・」
「然う。気絶したのはある種の防衛本能かしらね。ただでさえ繊細な心で傷付き易いのにあんな事が有っては、耐えられず、自我が崩壊してもおかしくないもの。」
「・・・」
「結城は?」
「結城様もお仕事に備え、お早めに・・」
「然う。私も今日は軍に行くわ。暫く、染音はそっとしておいた方が良いでしょうし。だから、染音をお願い。」
「・・・承知致しました。」
結衣は、有難う、と言い、微笑んだ。
「・・あの・・・」
「如何したの?」
侍女は言い辛いのか、睫毛を伏せ、顔を逸らせる。
「・・先程の・・・染音お嬢様へのお言葉は・・」
「聞いていたの?」
「! 申し訳ございません・・! あの様に申し付けられたというのに・・・聞こえてしまって・・」
「あんな大きな声を出したのだから、仕方無いわ。貴女は悪くないわ。」
「・・・」
「染音はとても傷付いていた。其れなのに、慰めもせず、あんな事を言った私を、貴女は軽蔑する?」
「!・・其の様な・・・結衣様を――」
「私が華族で、貴女は其の侍女だから?」
「!・・・其れは・・」
「私の事が赦せない?」
「・・・」
「貴女の本音が聞きたいわ・・」
「・・・正直に申し上げさせていただきますと、確かに、結衣様への不信感や染音お嬢様への同情の気持ちがございます。」
侍女は先程までとは打って変わって小さな声で話す。
「しかし、私自身も分からないのです。私は市民の生まれでございますので、華族のご事情など、詳しくは・・ですから・・・結衣様のお言葉も。市民でしたら、あの様な事でしたら、慰め、励ませば良いのだと思いますが、華族は制約がございますし、評判も気を付けなければなりません。後継ぎの事もございますし、多々お考えにならなければならないこともございましょう。ですから、結衣様は正しいのではないかとも思うのです。私などが申し上げるのは、大変失礼ではございますが・・其れ程、評判や家督、鹿鳴館はお大事なのでしょうか・・・」
「・・・」
「! 申し訳ございません・・! ご無礼を・・!」
「私は正しくなんてない。貴女の疑問は最もよ。でも、ごめんなさい。」
「・・・?」
結衣は寂しそうに、微笑む。
「其れは、義務なのよ、華族の。大事に思っているか如何かではなくて、義務なの。鹿鳴館へは行かなければならないし、家督は継がなければならないの。評判も、落としてはいけないの。中には、華族に生まれ、嫌に思っている方もいらっしゃるわ。華族の男性は必ず入隊しなければならない。市民を羨む方も居るのよ。」
「・・・」
「其れでも、市民の方々は随分と苦労なさっていると思うわ。華族の私がこんな事を言うのは、失礼、よね。」
「・・いえ・・・」
「身分が無くなれば、皆、楽しいのかも、しれないわね。」
連載小説5本目をお読みいただき、ありがとうございます
今回で第1節が完結となり、第2節と続きます
次回の更新では、「『第1節 華の咲く場所』を振り返る」と題して、第1節のまとめをいたします
物語を読む上で、お読みにならなくても差し支えありません
久しぶりにお読みになる際など、忘れてしまった際に利用してくださればよいと思います
第2節は次々回から始まります
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お待ちしております