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単語の説明です。
・中将
軍の階級。本作品では上位から数えて3番目の階級。
・家督、嫡男
相続される権利、義務、地位その全て。嫡男はそれらを相続する者。長男。
結局染音の体調が回復したのは四日後だった。俺は相変わらずの仕事で共には居られなかった。其の間は歴史等の座学をやった、と姉から聞いた。
姉が以前から心配していた、鹿鳴館に行く日は直ぐに来た。今日、神無月の二十六日が其の日だ。此の日ばかりは軍の仕事は休みで、多くの華族が参加する。
朝食を済ませ、部屋で暫く読書をしていたが、様子が気になり、地下室に向かった。近づくにつれ、声や床を擦る音が聞こえてくる。
「今日もやっているのか。」
「あら、結城こそ如何かしたの?」
姉は腕組みをして立っていた。染音は少し距離をあけた所に居た。汗は掻いていない様だ。
「いや、少し様子を見に来ただけだ。」
「然う。」
「染音を連れて行きたい場所が有るのだが、駄目か。」
「いいえ、別に良いわ。今やってもあまり変わらない。」
「?・・然うか。」
「分かったら行きなさい。」
姉に違和感を覚えなくもなかった。理由は分からないが、何か有ったのだろうと思い、深くは考えなかった。
染音を連れて来たのは近くの喫茶店だった。喫茶店と言っても小さい訳ではない。身分関係無く――大人の華族が立ち寄ることは滅多にないが――誰もが使う人気の場所で、軽食は勿論、昼食、甘味も申し分ない。
「いらっしゃいませ・・あ、山城さん! お久し振りです!」
昔ながらの扉の鈴の音の後に出てきた女性は店長だ。俺が十代の頃からずっと此の店で働いている。あの頃は女給だったが、数年前に店長になったらしい。
「ええ、久方振りです。半年程ですか。」
「はい。あ、席はご自由にどうぞ。」
俺は昔からよく座っていた窓側の二人席に座った。染音も遅れて向かいに座る。
店内を見ると、時間も時間なのか、俺と染音しか居なかった。
「山城さんはご結婚されていたんですね。今日は娘さんも一緒で。」
「娘・・? 嗚呼、いえ、結婚している訳ではないのです。養子といいますか、引き取らせてもらったのです。」
「まぁ! ごめんなさい。早とちりしてしまって・・あの日も、鹿鳴館に行く日でしたから・・」
「ええ、然うでしたね・・」
返事に困り、苦笑する。
「あ、ご注文の方は・・ごめんなさい、ずっと話してしまって。」
「いえ。然うですね、餡蜜をお願いします。」
「餡蜜ですね。」
「染音は如何する。」
「!・・・私も・・其れを・・・」
店長は小さく礼をし、奥に入っていった。此の時も染音はずっと俯いていた。
餡蜜が届き、食べていると、数人の女性が入店してきた。だが、彼女らは店員なのだろう、奥の部屋へ行った。午前は来客が少ないということで、店長だけで店番をすることにしているのだろうか。
市民か。俺は別に見下している訳ではない。
華族にも士族にも良い人は居る。
市民にも、こんな俺にも気兼ねなく接してくれる人が多く居る。
市民の暮らしを軽視するつもりは無い。
ただ、其れでも、市民の方が気楽に、良い意味で楽に暮らせたのかもしれない。
鹿鳴館に行く必要も無ければ、無理に結婚する必要も無い。
したければ、好きな人と――身分の制約は有るが――結婚すれば良い。
社交術や礼節も此処まで厳しくやらなくて良いのだ。
染音には、普通の暮らしをさせてやりたかった。
実際、染音は如何思っているのか。
染音は嘗て市民で、其の暮らしを経験している。
「染音、辛いか?」
「・・・?」
俺は何の理由も無く然う聞いた。染音はよく分からないといった風に、少し顔をあげ、此方を見たが直ぐに俯いた。
答えなど、聞いて分かるものでもないのに、俺は何故聞いたのか。
「染音お嬢様、少々我慢なさってください。」
「!・・・」
染音の部屋では、染音が着替えていた。時刻は午後四時過ぎ、鹿鳴館へは六時頃行くことになっている。少し距離が有る為、準備を始めなければならなかった。
侍女が後ろの紐を締めると、染音は小さく声を漏らした。
「終わりました、染音お嬢様。」
「・・・ありがとう・・ございます・・・」
侍女は小さく礼をして、部屋を出た。
「貴女には、其れがお似合いね。」
「!・・・」
隅で見ていた結衣は然う呟いた。
「むしろ、貴女に其の衣装は勿体無いくらいだけれど、山城家の汚点になるよりは余程良いわ。」
「・・・」
「せいぜい、恥を掻かせないようにして。」
四時半頃屋敷を出て、馬車に揺られること何十分。
「起きたか。丁度良かった。鹿鳴館は目前だ。」
隣に座っていた染音はゆっくりと其の目を開けた。そして、口元に手をやり、小さく欠伸をする。
「毎日練習して疲れたか?」
「!・・・緊張して・・あまり、眠れなくて・・・」
「仕方無い。此れが初めてだろう。」
染音は小さく頷いた。
丁度其の時馬車が止まり、扉が開いた為、俺は刀を片手に馬車を降りる。次いで、染音の手を掴んで支えてやり、染音を降ろす。侍女は礼をして馬車を走らせた。
俺が歩き出すと染音は横にぴたりとついて、腕を掴んでいた。嫌な訳でも拒むことでもないということで、気にしなかった。
玄関の所には一組の男女が居た。御前中将と其の夫人だった。中将は白髪頭に立派な白髭をしている。何十年も軍に所属しており、信頼も厚い。俺の父親と面識が有り、俺も幾度か会ったことが有る。夫人も其の時に会っていた。
「おお、山城君! 久し振りじゃないか。」
「本日はお招きいただき誠に――」
「毎度毎度きっちりしすぎだ、山城君は。」
礼をしようとした俺を、中将は制止する。
「其れで、其の娘は如何したんだ。」
「此方は――」
「令嬢が居ったのか! 何故言ってくれなかった! もう鹿鳴館に来る様な齢にもなったというのに!」
中将は怒る様子も無く、むしろ愉し気に笑った。
「あの、此方は――」
「ん、という事は、山城君。もう十何年も前に結婚しておったのか! はっはっは! 何故誰にも言わなかったんだ! 逆によく誰にも知られなかったものだ! 知らせてくれれば楽しく祝いをしたというのに!」
中将がこうなっては止めるのは一苦労だ。とても良い人なのだが・・・
「貴方。」
「ん、如何した。」
「山城さんが。」
「おお、如何した。」
「申し訳ございません。実は、此方は養子でして、娘ではないのです。」
「然うだったのか。早とちりしてしまったな、済まん!」
中将は再び豪快に笑う。此の様なやり取りを午前もしたような・・・
其れから暫く話をして、染音と俺は奥へ行った。
染音は目前の光景に驚いた様だった。其れも無理は無い。男性は専用の軍服に身を包み、女性は華やかな衣装を着飾っている。彼らが居る大広間は数種類の色の大理石の床で、天井中央には巨大な装飾電灯が有る。黄色を含んだ光は、其の空間を豪華絢爛に彩り、しかし何処か上品な雰囲気を感じさせる。
染音は俯き、肩をすぼませている。
「失礼、其れを一ついただいても?」
「ええ、勿論でございます。」
通りかかった女給の盆から洋盃を一つ取った。女給は小さく礼をして歩いて行った。
「染音の分は後でな。あの服の女給が持っているのは酒だ。酒以外は別の服の女給が持っている。」
染音は何も反応を示さない。相変わらず俺の腕に抱き付いた儘だったが、俺は歩みを進めた。
そんな時、背中越しに声をかけられる。
「其の後ろ姿は、山城准佐か。」
振り返れば、其処には晴風少佐が居た。俺は慌てて礼をする。
「お前はやはり、軍服が似合う。」
「恐れ入ります。」
再び小さく頭を下げると、晴風は軽く笑った。
「お前は堅すぎだ。もっと気楽にして良いと、言っているだろう。」
「・・しかし・・」
「はは、まぁ良い。嗚呼、紹介が遅れたな。妻の雪奈だ。」
晴風少佐の隣に居る女性、雪菜さんはいかにも淑女という様な雰囲気をしていた。礼をする動きも上品其の物だ。
「山城結城と申します。軍では、晴風少佐に大変良くしていただき、恥ずかしながらご迷惑をお掛けしてしまいますことも屡々。」
「山城様の事は伺っております。大変、優秀なお方でいらっしゃると。」
其の様なことは・・・と言い淀みながらも、俺は頭を下げる。
続けて、晴風少佐が、俺の隣に居る――というより後ろに隠れていると言った方が良い――俯いている染音の方を見て、名を尋ねてくる。
「此方は一月程前、養子として引き取らせていただいたのです。染音、と申します。」
「染音さんか、可愛らしい子だ。」
「申し訳ございません。ご覧の通り、大層内向的な者でして、ご挨拶も儘なら――」
「気に掛けずとも良い。初めてで緊張しているのだろう。仕方無い。」
「其れは然うと、結衣さんは如何だ。近頃、軍の方に来ていないらしいが。」
晴風少佐は切り替える様に、少々早口で尋ねてきた。
「はい。染音の指導、と申しますか・・・」
「ほう、では結衣さん直伝の社交術か。結衣さんなら完璧だ。」
再び軽く笑う少佐に、俺は反応に困り、一先ず合わせておいた。
「嗚呼、然うだ。少し話したいことが有るのだが、良いか。」
俺が応じると、雪奈さんは一言だけ添えて、立ち去った。俺は染音の方へ体を向け、目を向ける。
「少し話してくる。一人になるが大丈夫か。」
「・・・」
染音は俯いた儘、何も言わなかった。
「俺は先に行っている。用が済んだら、来てくれれば良い。」
「申し訳ございません。」
姿勢を正し、頭を下げる。少佐は其の儘歩き去った。染音は相変わらず俯いているが、少佐が居なくなると、俺の袖を抓んだ。
「染音、心配するな。其処まで長くはならない。ゆっくりしていれば良い。大丈夫だ。」
「・・・・」
俺は優しく染音の頭を撫でてやった。すると、染音は抓んでいた手をそっと離した。
「・・悪い。」
「・・・早く・・戻って来て・・ください・・・」
「嗚呼、分かっている。」
染音を其の場に残し、俺は小走りに少佐の元へ向かった。
残された染音は大広間の端に行った。優雅な曲に合わせ、中央では何組か、踊っていた。染音は目前の景色が何処か別世界の様に思え、自分の居場所が有る様には思えなかった。其の場で、俯いていると、耳に入ってくる音楽は、哀し気に聞こえた。周囲の男女は洋盃や皿を片手に、楽し気に話している。
そんな中、向こう側から自前掛けを身に付け、盆を片手に女給が歩いて来ていた。染音が屡々其の女給を見ていると、不意に目が合ってしまい、染音は直ぐに俯く。女給はそっと染音の前で立ち止まる。そして、盆を取り易い高さまで下げてくれた。
「ご自由に、お好きな物をお取りくださいませ。」
染音は躊躇いながらも震える手で一番手前の洋盃を取った。女給は微笑んで其の場から歩いて行く。
手に取った洋盃を装飾電灯の光に当ててみると、洋盃には流れる様な模様が彫られていた。飲み物には氷が幾つか浮かべられており、又、透き通る様な薄い橙色をしていた。底にいくにつれ、徐々に其の色は濃くなっていき、光によって一層綺麗に見えた。
其の場でも良かったが、何となく別の場所で休みたいと思い、周囲を見渡すと、隅に通路が見えた。其の通路は短く、奥に階段が有った。手摺りには丁寧に装飾が施されている。其の階段を上ると、ちょっとした空間と露台が有った。其処からは先程まで居た大広間を見下ろせるようになっており、装飾電灯がより近くに見えた。
露台からは鹿鳴館の庭が一望出来た。時刻は七時を回った頃だったが、神無月の下浣ということも有り、既に暗くなっていた。月の影に照らされた西洋の庭は青白く光るが、漆黒とも言えた。露台の手摺りの元まで来ると、流石に少し冷えるが、其の時だけは漸く息が詰まる様な世界から抜け出せた様に感じ、楽になった。染音は洋盃を口まで運び、一口飲んだ。程良い甘さが口に広がり、落ち着く様な味であった。
其れから、どの程度時間が経ったのか分からない。其処に来てからというもの、染音はずっと景色を眺めているだけだった。
染音が深呼吸した丁度其の時、何やら足音が聞こえた。階段を上がる音だ。次第に其れは大きくなり、近づいてくる。染音は嬉しさのあまり、其の人の元へ駆け出そうとしたが、其の脚を止める。其処に居たのは結城ではなかったからだ。一度喜んでしまった為に、一層落胆の気持は大きかった。
「先客が居ましたか。」
「・・・・」
「初めまして、志布志家の者、鷯と申します。以後お見知りおきを。」
其の人、鷯はまるで手本の様な礼をした。染音は突然の事で、如何すれば良いのか分からず慌てて、習った通りの礼をした。鷯は優し気に微笑んだ。
「貴女は、山城家のご令嬢、染音様でいらっしゃいますね。」
「!・・・はい・・」
「鹿鳴館にお越しになるのは初めての様で。お一人だけ、纏う空気が違うものですから。」
「・・・」
「早速ですが、私にお付き合いいただけませんか。」
「!」
染音は直ぐに舞踏の事だと分かり、顔を背ける様に俯く。
「・・・でも・・私は・・」
「ご心配無く。」
鷯が染音の背に手を回し、誘導する為、染音は断ることも出来ず、其の儘従った。鷯は染音の手から洋盃を取った。まだ少し残っていたが、其れを女給の盆に乗せた。全て飲まずに少々残すのが作法らしいが、そんな事を染音が知る筈も無い。染音は少し寂しい気持ちがした。
踊る場所まで来ると、鷯は染音の手を取った。
「宜しいですか。」
「・・・はい・・」
「一、二、三。」
鷯が先導する形で始まった。染音は習った通りに出来るように、懸命に足を動かす。幸い、節奏は其れ程速くなかった為、何とか出来ていた。
「お上手ですね、染音様。」
「!・・・」
鷯が微笑むと、染音は頬を赤くした。
暫くすると、再び鷯が口を開いた。
「染音様はさぞご苦労なさるのでしょう。なにせ、山城家のご令嬢でございますから。」
「・・・?」
「数少ない永代華族なのです、山城家は。さらには市民からの信頼が厚く、支持者も少なくありません。他の華族、特にある一族に関しては、詳しくは分かりませんが。」
「・・・」
「隣國との戦争の開戦直前まで戦争に反対し、平和的解決を主張した少ない華族の一つです。開戦後は終結まで、市民の事を一番に考えられ、尽力されました。後に評価され、勲章をお受け取りになられています。そして――」
染音が鷯の足を踏み、体勢を崩してしまった。倒れそうになる所を鷯が支える。
「ご無事でしたか。」
「・・・ごめんなさい・・足を・・・」
「お気になさらずに。では、一、二、三。」
再び節奏を取ってから再開した。
鷯は時間をあけ、落ち着いてから続きを語った。
「其の様に信頼も有り、評判が宜しいので、誰もが婚約を狙う訳です。」
「・・・」
「又、現在は後継者である嫡男がいらっしゃらない訳でございますから、山城家の家督の危機である、ということでございます。少々宜しくないお話ですが・・・」
「・・・」
「山城家の家督は、価値が高いのです。」
鷯は声を潜めて言う。
「山城家のご令嬢と婚約ともなれば、安泰という訳です。」
「・・・」
「私は違います、然う言っては嘘になってしまいますが、事情がございますのは何方も変わりません。ですが――いえ、已めておきましょう。」
「・・・?」
鷯は其れ以上何も言わなかった。
染音はあの一回だけでなく幾度か足を引っ掛けてしまっていた。又、屡々本来とは逆方向に動こうとしてしまう時も有った。舞踏が終わると、鷯と染音は端の方へ寄った。
「・・あの・・ごめんなさい・・・」
「幾分緊張なさっているのでしょう。私は平気でございますから、お気になさらないでください。」
「・・・」
「僅かな時間ではございましたが、有難うございました。又の機会がございましたら是非。」
再び手本の様な礼をした鷯は微笑んで、其の場を去った。
「只今のご覧になりました?」
「ええ、勿論ですわ。」
其の場に佇んでいると、近くの二人の女性が何やら話し始めた。
「お相手は鷯様で居られるといういうのに。」
「あの程度の事も出来ないなんて・・何とお恥ずかしい。」
「俯いてばかりで礼節も。」
「品の無いことと申しましたら何と・・」
「山城結城様も折角ご養子としてお引き取りなさったというのに、当のご令嬢は・・・」
「結城様の姉で居られる結衣様も楽しみになさっていたでしょう。」
「学院にいらっしゃった際だけでなく軍でもお二人は大変優秀でいらっしゃいますし。」
「華族から、さらには市民からの信頼も厚くございますし。」
「何と言いましても家督でございますわ。大変高貴な家督ですのに・・」
「然うですわ、先程の舞踏や礼節は結衣様がお教えになったらしいですわよ。」
「まぁ、何と、あの結衣様が? 嗚呼、何と嘆かわしい事でございましょう。」
「結衣様がお教えになったというのに、お出来にならないなんて・・」
「お二人はご多忙でいらっしゃいますから、此の事にお気付きではございませんでしょうね。」
「随分と可愛がられていらっしゃるでしょうに。」
「此の事をお知りになった暁には、どれ程落胆されてしまわれるのでしょう・・・」
「お気の毒に・・・」
二人は小さく溜息を吐いた。だが、途端に調子を変え、言葉を続ける。
「あら、当のご本人がお近くに。」
「まぁ、其れは大変。今のお話を。」
「直ぐに離れないといけませんわね、ふふ。」
「ええ。」
染音に聞こえる程の声が徐々に遠ざかっていった。
染音は其の場に居たくなくなり、玄関まで小走りに向かう。途中、其の場の全員が染音自身を見ている様な錯覚とも言うべき感覚に襲われる。
逃げ出す様に、鹿鳴館を飛び出した。
連載小説4本目をお読みいただきありがとうございます
引き続き更新がありましたら、お読みくださると幸いです
意見等ありましたら、遠慮なくお声かけください
お待ちしております
また、今後は更新頻度が低下すると予想されます
しかし、最新の更新から1週間以内に新たに更新できるよう努めていきます
なにとぞ、よろしくお願いします