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単語の説明です
・蹠球
いわゆる肉球。
[前回のあらすじ]
体調が回復し、学院に復帰した染音。その登学中に侍女に、結城と染音との確執を明かしたのだった。
年が明けると、鷯との見合いがあり、ついに鷯と染音との結婚式の前夜となった。
結城は染音に想いを伝えるが、決して染音を見ようと、そして、その言葉を聞こうとはしなかった。
結城もまた落ち着きを失っていたようだった。
翌朝、染音は六時に屋敷を出て、式が執り行われる神社へと向かった。朝食を済ませた侍女と俺は染音の部屋の整理をしていた。式の準備の為、式の数時間前には、俺は神社に居なければならない。其れまでに、整理を終える必要が有る。
「結城様が態態お膝をお突きになって、なされなくとも良いのですが・・・」
「最後くらいは、やろうと思う。」
侍女を見れば、衣服などを素早く綺麗に畳んでいた。優れた手付きで、流石だと感心した。
途中ある物に手が止まる。百華堂の紙袋だ。中には何かが入っている。
「此れは・・」
「・・其れは、以前染音お嬢様が、結城様の為にお作りになった物です。」
「俺の為に・・?」
「はい。結城様がお戻りになり、長月の十四日を迎えたら渡すのだと、嬉しそうにお話になっていたのですが・・」
「・・然うか。」
俺は暫く其の袋を眺めていたが、そっと荷に詰めた。
「宜しいのですか。」
「・・嗚呼。礼を言えぬ今、受け取ることなど出来ない。」
懐中時計で時刻を確認する。そろそろ向かわなくてはならず、俺は立ち上がり、扉へ向かう。
「行ってらっしゃいませ。」
「・・染音の、見たかったか。」
「・・・若しも可能でしたら、参列させていただくのですが、侍女でありますから。」
「済まない。俺も共に行きたいが、世間が許してはくれない。」
「結城様がそんな・・」
「・・では、行ってくる。」
式場である神社の本殿にはまだ志布志家の者しか居なかった。其れから、徐々に招待客が集まり、式は十一時丁度に始まった。
其処で見た染音の姿は永遠に忘れないだろう。袴姿の鷯さんと並んで歩く染音は、白無垢に身を包み、顔は水化粧を施し、唇の真っ赤な紅が印象的であった。今までの何時の染音とも全く異なる。
綺麗しい。
然う思った。其の姿を見て、染音は既に嫁ぐ齢になっていたのだと改めて感じた。俺の前を通り過ぎる際、染音は顔を微かに俺の方へ向けてきた。瞬間、目が合ったが、染音は我に返る様に直ぐに前を向き直した。染音の眼は、澄んでいた。しっかりと、先を見つめている様であった。
鷯さんと染音とが、盃を交わす時、胸が詰まる思いがした。其の盃を終えれば、染音は真に俺の元を離れることになる。盃を口に運ぶ染音へ、俺は、左様なら、と呟いた――恐らく、聞こえてはいないだろうが――
「お手を。」
「・・有難うございます。」
染音は鷯の手を借り、馬車から降りた。式を終え、染音は志布志家の者として、志布志家の屋敷に来た。
侍女が扉を開け、鷯と共に屋敷に入る。
「――!」
突然低い吠え声が響き、染音は身体を震わせ、鷯の背に隠れた。其の吠え声の主は鷯の元へ駆けて来ると、もう一度吠える。
「良し良し。」
鷯は其の首に手を当て、頭を撫でてやった。
「以前はお見せしませんでしたね。此方は私の愛犬、樰です。敏捷犬という犬種で、此処から遥か北方の極寒の地が原産らしいのです。少々恐ろしいかもしれませんが、とても賢く、人懐こい性格ですから、直ぐに慣れますよ。」
「・・・」
敏捷犬は体高が八十五糎程、体重は四十瓩を超える大型犬である。狩猟犬であり、最大走行速度の大きさは毎時五十粁に達する。其れ故に敏捷犬とされた。又、垂れる長く、絹糸の様に真っ白な毛並みが美しい。身体はすらりとしており、其の美しさから高貴な犬として、彼の国の貴族に飼われていたという。
「では、染音さんのお部屋へ案内致しましょう。」
染音は鷯に体を寄せ、連いて行く。樰も蹠球の音を小さく立てながら連いて来た。
案内された部屋には机や寝台、染音の衣服等が既に揃えられていた。山城家の屋敷の部屋とあまり大差は無いが、家具等は遥かに高級な物であった。染音は見回しながら、ゆっくりと歩く。あまり遜色無いとはいえ、雰囲気は全く異なる様に感じられた。
其の時、突然背後から吠え声がし、染音は体を震えさせた。振り返ると、樰が鷯に身体を擦り、尾を頻りに振っている。
「然うでした。本日はまだ外へ連れていませんでした。」
「・・・?」
「樰は四歳ですから、毎日走らせなければならないのです。折角ですから、染音さんもいかがですか?」
「ぇ・・では・・・」
「行きましょう。」
鷯は微笑んだ。
外に出ると、樰は直ぐに駆け出し、姿が小さくなる。
「ぁ・・・」
「心配なさらずに。行先は分かっていますから、私達も向かいましょう。」
「!・・」
不意に横抱きされ、驚いた染音は鷯の服を掴んだ。鷯は雪の中走り出した。
向かった先は、東宮御所跡地であった。何百年も前の遷都に伴い、無用となった御所は管理もされず、松林が広がっていた。舗装されている場所も有る為、丁度良い。
鷯は流石に息が上がってしまっていた。
「・・数十分も雪道を走るのは、訓練を受けていたとはいえ、慣れないものです。馬を使えれば良かったのですが、私の馬は訓練を終えていないので、軍の敷地外は許されていませんから。」
鷯はそっと染音を降ろした。
「あの・・・重かったですか・・?」
「いいえ、決して其の様な事はございませんでした。寧ろ、少々軽いくらいです。」
「・・然うですか・・」
樰は二人に構わず、走り回っている。降る雪、積もる雪に、真っ白な樰は溶け込んでいた。倒木も難無く跳び越え、樰は満足気であった。
「明日からは、染音さんが此方へ連れて来ると良いでしょう。」
「・・私が、ですか・・?」
「確かに学院の為に外出はしますが、其れだけでは気が滅入ってしまいますよ。体を動かし、新鮮な空気を吸うことも大切です。」
「・・でも・・そんなに走れません・・・」
「樰も染音さんに合わせてくれますよ。」
「・・・」
午後六時頃、夕食となった。通常、鷯が軍から戻って来る時間に合わせ、此の時間にしているという。染音は鷯の隣に座り、洋卓越しに鷯の両親が座っている。
「山城家のご令嬢が来てくださって本当に嬉しいですわ。」
鷯の母は口元に手をやり、声を漏らす。
「ふふ、挨拶もなさらない程、大人しく、可愛らしい方ですこと。」
「!・・・」
「いかがですか?」
「・・・おいしいです・・」
「あら、ふふ。染音さんは面白い、いえ、面黒い方ですのね。侍女の料理などではなく、お部屋の事ですわ。素敵な家具でしょう。態態異国の地から取り寄せたのですよ。」
「・・有難うございます・・・」
染音さんには少々難しいお話でしたわね、と付け足し、鷯の母は咳払いをする。
「然ういえば、染音さんは此の年の卯月に学院中等科を卒業なさるのでしょう。ふふ、山城家のご令嬢ですから、首席で高等科へ進学なさるのでしょうね。」
「!・・そんな事は・・私なんて、全然出来なくて・・・」
「あら、違いましたの? 此の様な私でも首席だったというのに。鷯さんも首席でしたし、ねぇ。」
「お母様、今日は気分が優れませんので、夕食はもう結構です。染音さん、行きましょう。」
「鷯さん? 何方に――」
「放っておけ。」
鷯の母、そして其れを制止する鷯の父を置いて、鷯は染音の手を握り、其の場を去った。染音は突然の事で混乱していたが、引かれる儘に連いて行った。
鷯は外套を手に取り、染音を屋敷の外へと連れ出した。雪は深々と降り続いており、又、睦月の午後七時では真っ暗であった。瓦斯灯が点々と見えるだけだ。鷯は染音に外套をかけ、頭の雪をそっと払ってやった。
「申し訳ございません。繊細な染音さんを傷付けてしまいましたね。」
「・・・いいえ・・本当の事ですから・・・」
然う言う染音の目は潤んでいた。
「私の母の旧姓は香月というらしいのですが、香月家はかつて皇族を追放された華族らしいのです。其れでも後に、強引ではありますが、其の地位を確立した様で、少々矜持が高いといいますか・・・」
「・・・」
「今後も、母が染音さんを傷付けてしまうことが有るかもしれません。代わりと言っては少々失礼かもしれませんが、私が謝罪致しましょう。」
鷯は深く頭を下げた。
「・・鷯さんがそんな・・・大丈夫です、から・・」
32本目をお読みいただき、ありがとうございます
更新がありましたら、引き続きお読みくださると幸いに思います
失礼ながら、しばしば本作品へのアクセス情報を確認させていただいております
ぽつりぽつりとアクセスがされていることもあり、勝手な想像ながら、更新をお楽しみにされている方もいらっしゃるのでしょうか
お待たせして、大変申し訳ありません
決して手を抜いている訳ではなく、以前もお話しましたように、最後まで全力で執筆させていただくつもりでございます
是非とも、本作品を最後までお楽しみください
また、質問、意見、感想等ありましたら、遠慮なくお声かけください
執筆にあたり、参考とさせていただきたく思います
お待ちしております