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単語の説明です
・算術、博物、裁縫、歴史
科目。順に現在の数学、理科、家庭科、歴史に相当する。華族の女性は料理をしないため、裁縫のみ。書類上では、算、博、裁、史のように表記する。
次の月曜日の朝、結衣と染音は屋敷を出た。染音は角襟服に身を包み、学院の鞄を手にして、である。洋袴は丁度膝上までの長さで、革靴は純黒色、靴下は学院指定の物で、黒色をしており、膝上まで有る。特徴的なのは、濃紺色の角襟服に映える、胸元の紅色の絲帯だ。此の四月から学院に通うということで新調した角襟服である。
在籍は中等科肆年であるが、編入試験の結果から、算術、博物は参年の講義を受講することとなった。
此の日は、学院に通い始めて四日目。屋敷から学院までは幾分距離が有る為、結衣が同伴していた。
「今日も分かっているわね。」
「!・・はい・・・」
女子部の正門前に来ると、結衣は釘を刺して、其の場を立ち去る。染音は一人で本校舎に向かった。
皐月になり、連日長雨が続く。
一時限目が終了し、染音は自席で本を手にしていた。結衣が、学院で時間が有れば読むように言い、持たせた本である。
「もし。」
「・・?」
不意に話しかけられ、染音が訝し気に顔を上げると、二人の女学徒が目前に立っていた。
「読書の邪魔をしてしまいましたね、ごめんなさい。」
「・・いえ・・」
「少々お聞きしたいことがありまして。」
「山城さんは算術や博物の時限は何処に行っておりますの?」
「・・算術・・博物・・・」
「ええ、お荷物を持って、何方に?」
「気になりましてね。」
「!・・それは・・参年生のほうに・・・私は・・出来ないので・・」
「まぁ、然うでしたの。」
染音は気前悪そうに俯く。
「お気分を悪くしてしまったのなら、ごめんなさい。」
「本当に少々気になっただけでございますの。」
「・・大丈夫です・・ごめんなさい・・・」
其の二人は気不味そうに去った。染音は再び本を手に取り、休時間を独りで過ごした。
三時限目と四時限目は裁縫であった。卯月の下浣から浴衣を作っている。先生が初めに前回までのお浚いを口頭で済ませると、各々作業に入った。
「山城さん、一度宜しいですか。」
「!・・はい・・」
通りかかった先生は然う言うと、染音の浴衣を持ち、視線を少しずつ動かしていく。
「製作が随分と速いですね。縫い目がとても綺麗です。手縫いも然うですが、縫製機の使い方がお上手の様で。」
先生は微笑んで言う。染音は小さく、ありがとうございます、と答えた。
「何方かに習いました? 其れとも、ご自分で?」
「・・結衣さんに・・・」
「まぁ、山城結衣さんに。」
「・・・知っているんですか・・?」
「ええ、勿論です。私の教え子の一人でしたから。結衣さんは驚く程お上手でしたよ。私は裁縫しか見ていませんが、何でも出来た様ですね。学院を卒業してからは、女性ながら軍に入隊して、ご立派なものです。」
「・・・」
「途中で邪魔でしたね。続きの方を是非。」
「・・はい・・」
染音は浴衣を受け取り、作業を再開した。先程の会話を聞いていた周囲の視線が辛かった。
水無月の中浣、此の日は珍しく、曇天であるものの雨は降っていなかった。いつもの様に結衣は学院へ染音を迎えに行く。女学徒と挨拶を交わしつつ、下駄箱で待っていた。だが、染音は一向に現れなかった。
六時を過ぎ、校舎の照明は飛び飛びに消されていた。空は、先程よりも黒い雲に覆われ、鈍い音が響く。
結衣が溜息を吐いた時、染音が来た。其れに気付くと、結衣は体を向けた。
「如何したの。」
「!・・ごめんなさい・・・算術の補習が・・・」
結衣は再度溜息を吐いた。
「兎に角、傘を持っていないから急ぐわよ。」
「・・・はい・・」
染音は靴を履き替え終えると、結衣の背を追った。
だが、校舎を出た直後、雫が疎らに落ちてくる。徐々に其の数は増していった。
「全く・・」
結衣と染音は濡れぬよう、校舎に戻る。気付けば、白く靄が懸かる程に激しくなっており、酷く五月蠅かった。其の時、小さく複数の足音が響く。結衣が微かに其方に顔を向けると、二人の女学徒であった。其の女学徒等の姿を見ると、結衣は直ぐに姿勢を整え、礼をした。染音は結衣の其れに気付くと、其の女学徒が誰かも分からぬ儘、礼をする。女学徒の一人が顔を上げるよう言うと、結衣は姿勢を戻した。
「貴女方も馬車をお待ちになっておりますの?」
「恐縮でございますが、馬車の手配はしておりません。」
「まぁ、では、如何なさるおつもりで?」
「学院から屋敷の方へ連絡をさせていただこうかと考えておりましたが・・」
「其れでは、私がお送り致しましょう。直ぐに馬車が参ります。」
「!・・ご厚意に感謝致します。」
結衣は深く頭を下げた。
暫くすると、白靄の向こうに馬車が現れた。正門で止まると、女性が傘を差し、下駄箱に来る。其の女学徒の侍女であった。女学徒が侍女に説明すると、結衣と染音は馬車に乗せられた。遅れて女学徒等も乗り、程無くして、馬車は動き始める。
結衣は決して自ら何かを話すことはせず、其の女学徒の問い掛けに対し、慎重に、丁寧な口調で答えていた。
「結衣様は軍に所属なさって随分と経ちますでしょう。」
「二十年程でございます。」
「まぁ、では既にご立派な軍人でいらっしゃいますのね。」
結衣は小さく頭を下げる。
「女性は慎ましく振る舞うよう教えられたものですから、軍人など、考えられませんわ。」
「!・・・」
慌てつつも、落ち着きを伴い、結衣は答える。
「四十を境に、辞職させていただくつもりでございます。」
「まぁ、其れは残念ですわ。結衣様の様な優秀なお方がお辞めになってしまうなんて。」
言葉では然う言いつつも、其の女学徒の表情は変わらぬ儘であった。
屋敷に着くと、結衣は深く頭を下げ、礼を言った。其の女学徒が小さく礼をすると、馬車の扉が閉められた。屋敷に入るまで傘を差していた侍女にも礼を言い、屋敷の扉を閉める。もう一方の女学徒や染音は終始黙っていた。
結衣は一言挨拶をする。直ぐに侍女が駆け寄り、深く頭を下げた。結衣は事情を説明し、幾らか包むように言うと、直ぐに自室に向かった。
文月の十八日、夏季休業が始まる二日前。日差しが照り付ける中、結衣と染音は帰路に着く。学院に通い始めて四月目、毎日往復路を並んで歩いていたが、其の際二人が会話をすることは無かった。結衣は固く口を閉ざし、悠々と歩みを進める。
だが、此の日は違った。
「通知書は?」
「・・?」
「受け取ったでしょう。」
「・・いえ・・・受け取ってないです・・」
「そんな筈は無いわ。」
「・・・受け取ったのはこれだけで・・」
染音は鞄を軽く持ち上げ、細い茶封筒を取り出し、結衣に差し出す。封筒には『山城様』と綺麗な字で書かれていた。先生に屋敷の人に渡すよう言われた物である。結衣は受け取ると、三つ折りの紙を取り出し、広げた。
結衣は突然立ち止まる。染音も其れに気付き、立ち止まった。
「貴女は、学院で何をしていたの。」
「・・?・・変わったことは何も・・・」
「・・全く、貴女って人は・・」
「・・・?」
翌日、朝は変わらず共に学院へ向かった。着くと、染音は教室に向かうが、結衣は屋敷へは戻らずに、学院内の応接室に向かった。途中、すれ違う女学徒に挨拶を交わす。其の姿は気品に溢れ、淑女其の物である。女学徒は頬を薄く赤らめ、挨拶を返す。応接室では、先生等と懐談に花を咲かせる。だが、先生は何時までも其の場に居る訳にはいかず、短いものだった。
此の日は午前のみで終了だった。廊下に多くの足音が響く中、扉が開き、数名の先生と染音が入ってくる。結衣は一度立ち上がり、礼をした。座るよう促され、結衣と染音は先生等と洋卓越しに座った。其の先生等は中等科女子部長、第肆学年長、そして学院長である。軽く挨拶を済ませると、学院長は早速本題に入った。女子部長は黒の薄い冊子――表紙裏表紙は固い素材で製本された物――を結衣の前に差し出した。通知書である。結衣は促され、冊子を開いた。左頁には科目別評価一覧、右頁には其の他の情報が記載されている。
「此れは・・」
「はい、今期の染音さんの成績でございます。しかし・・」
科目別評価を見ていくと、裁は「甲」、史は「乙」、其れ以外は大方「丙」である。算術、博物に至っては「丁」であった。評価は最高評価の甲から順に下がり、乙、丙、丁の四段階であり、つまり、染音の其れは決して良いとは言えないものであった。市民であればまだしも、華族の令嬢の成績となれば、学院も対応せざるを得ない為、屋敷の者を呼んだのだ。
「単刀直入に申しますと、此の儘ですと、進級は厳しいかと・・」
「!・・・」
「然うでございますか。」
結衣は落ち込む様子を見せることも無く、静かに答えた。
「ですが、提出物等は全て揃えておりますし、何より一度中退されて――」
「其れが如何か致しましたか。」
「「!」」
結衣が言い放った瞬間、静まり返った。結衣は背筋を伸ばした儘動かなかった。
「・・私が女学徒であった際のご恩が有るにも関わらず、お心遣いを無下にしてしまう、私は其の様な人間でございます。時間割一つとっても多大なご苦労、ご迷惑を、お掛けしてしまったことでございましょう。全ては、私の、至らない所でございます。心より、お詫びを、申し上げます。」
結衣は静かに、ゆっくりと言った。そして立ち上がると、頭を深く下げた。
「結衣さん!」
「お手数お掛け致しますが、染音の講義を担当してくださっている全ての先生方に此の旨をお伝えくださいますよう、お願い申し上げます。本当に、申し訳ございません。」
頭を下げた儘続ける結衣に、女子部長は慌てて駆け寄り、頭を上げるよう説得する。
空気が一層重くなり、学院長は早めに其の面談を終わらせた。挨拶を済ませた後、女子部長は染音に浴衣を手渡した。皆は完成した物を今日持ち帰ったのだが、染音は被服室に忘れてしまったのだった。
二人は下駄箱で靴を履き替える。染音は上履きをしまい、革靴を取り出そうとした所で、手が止まった。
「・・ごめんなさい・・・」
「・・・」
結衣は染音に背を向けていた。ちらりと見える太腿、綺麗な背、髪、そして、脚を靴に入れ、爪先を軽く床に当てる動作は美しく、結衣を一段と大人に見せる。
「話は今夜よ。夕食後、一度私の部屋に来なさい。」
「・・・」
「返事は?」
「!・・はい・・」
通知書を染音に押し付けると、足早に正門へと向かう。染音は革靴を履き、小走りに其の背を追った。
葉月の中浣、此の日は仕事が早く終わり、自室に居た。姉に聞けば、染音は此れまで以上に勉強しているらしい。今までも大分していた様で、其れ以上となると食事や睡眠をしっかりとっているのか心配にもなる。だが、姉が把握しているだろうし、そっとしておくことにした。
ふと、姉が部屋に来る。珈琲を片手に。
「如何した。」
「・・此れを。」
姉は新聞を差し出してくる。受け取り、視線を紙面にやる。
「・・然うか。」
「染音が知ったらどう思うかしら・・」
「黙っておく。」
「!・・でも、若しも染音が――」
「上手くいっているのだろう、染音とは。」
「!・・然うね。上手くいっているわ。」
「ならば其れを壊すべきではない。」
「・・然うね。」
姉は神妙な面持ちで部屋を出て行った。
姉にも聞くべきだっただろうか。最も気に掛かるのは、あの日の新聞と日付が一致していることだ。俺は引出しから新聞を取り出し、並べた。劣化した紙に印刷されている掠れた文字と、交互に視線を向ける。
ただの偶然か、それとも――十何年も前の事だ。偶然だろう。
深く考え過ぎているだけだ。
連載小説11本目をお読みいただき、ありがとうございます
更新がありましたら、引き続きお読みくださると幸いに思います
また、前書きでは本文に新たに登場する単語の説明を行なってきました
しかし、「あらすじ」と題し、前回の内容の振り返りおよびその投稿回の内容に関する文章を追加しようと思っております
次回の投稿からの実現は厳しいですが、早期の実現を目指して活動いたしますので今後ともよろしくお願いいたします
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