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苦難の意味と成就による成長

 さて、ここでまた鳥居の話に戻ろう。かくも美しく、静かにして、かつ劇的な歌を詠むことができたのか?鳥居は確かに壮絶な人生を歩んできたが、鳥居の歌に聖書の預言文学のようなむき出しの激情や壮絶を見ることはない。むしろ静かに語りかける迫力がある。なぜ、他の歌人が凡庸な歌を詠む中で、鳥居にははるかに魅力的な歌が詠めたのか?一つには、短歌の技巧を強制されることがなく、角をたわめて牛を殺すような事をされなかった点が大きいだろう。聖書の中で傑作とされる「詩編」や「雅歌」「預言」「哀歌」などには目立つ技巧や修辞はない。アルファベットによる詩があるぐらいだ。むしろ、歌としては万葉集のような心情の率直な吐露とそれに的確に似合う情景描写がうまく組み合わさった作風と思う。




 鳥居は苦難に会うたびに、その苦難の心情と、その時に見た光景を記憶し、言語に表現する能力に優れていたものと思われる。私にも経験があるが、苦しんでいた時の光景ほど一番よく心に焼き付いているものである。だから、私は2013年に精神科病院の閉鎖病棟に入院していたことがあったが、この時のことを実によく記憶している。これについては、別にまとめて発表する。苦難が鳥居の歌のテーマになりやすいのと同時に、苦難が鳥居に秀作を詠ませる訓練を施したのではあるまいか?

「主の訓練を軽んじてはいけない」というが、実際は「『主の訓練を軽んじてはいけない』という言葉を軽んじてはいけない」だ。神の訓練は人域を超え、死の寸前まで追いつめる。多くの者がうめき、「なぜ殺してくれなかったのですか」と助命を呪うほどに。なお多くの者が「神はいなかった」と神を否むほどに。生きていることを憂い、「自ら」が在ることを疎ましく思うほどに。




 だが、それでも存在を感じる限り、神は人間を見捨ててはいない。なぜなら、神の名は「在る」を意味するからだ。在る限り生きている。神が見捨てたその刹那、死ぬ。




私は先に (伝道者の書 7:16,17) を引き、「自分の力で自分の生死を決めるのは適切ではないというのである」と書いた。自分の力だけではない、イエス・キリストとともに生きよ、というのが私の答えだ。私は先に (使徒の働き 16:27)を引いて「私たちはみなここにいる」と書いた。「私たち」とはだれか?その場に居合わせたパウロとシラス、そしてイエス・キリストではないか?




 そして、もう一つの答えが、苦難の後にそれを振り返ればそこに必ず意味を見出せるということだ。「自殺したい」が「自殺したかった」に変わり、後ろを振り返るとき、人は必ず大きく成長している。鳥居が「いじめられる子」から「歌人鳥居」になったように。イエス・キリストは死の後、3日後によみがえり、皆の前に現れた。彼を殺したローマ帝国はほろんだが、イエス・キリストの言動は今日まで生き、人を動かしているではないか。この文章を読んでいる人は、今は「自殺したい」のかもしれない。それがいつまで続くのかはわからない。人生は苦しみに満ちているが、特に苦しい時が必ずある。あが、いつかそれは「自殺したかった」に変わる。それを表現してみてはどうだろう。ことさらに文学芸術に仕立て上げなくてもよい。傍らの人に語るだけでもよい。そこには偉大な意味があるはずだ。




 「忍耐」などと軽々しく言う者は苦しみに対して無知である。神の訓練を耐えきれる罪ある人間など在りはしない。イエス・キリストは「在る」と思えば傍らに在る。今、そこで、自らが背負う重荷を想うことだ。人間が一人で背負える重さではない。神はこのように言っている。慈悲深い神は。


「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ書46:1-4)※新改訳ではない。後で修正する。


 イエスは苦しめる者を赦す。呪い、否み、憂う――すべて赦す。そのために、全能の神のひとり子であるイエス自身がわざわざに弱い人の子として降臨し、犠牲となって神への捧げものとなり、罪を濯いできたのだから。




 そして振り返るのだ。自らが流した血、汗、涙、の横に筋を描いてイエスの血、汗、涙が並行しているのが見える。苦しんでいた者は満足する。「完了した」後の復活をイエスとともに分かち合おうではないか。




 現代人の悪癖だろう。簡単に英会話ができるようになる本、食べても痩せるダイエット法、2時間でわかるハイデガー……。なべて苦難を避けたがり、安楽につこうとする。




 必要なのは、安楽をむさぼろうとするよりも、苦しみを引き受けることだ。最悪なのは苦しまないこと、悲しまないこと、苦悩しないこと、傷つかないこと…。平らに舗装されたアスファルトの道の上を自動車で安楽に進むがごときに平坦な時間をただ過ごし、生涯を漫然と閉じることの方にある。ここには苦しみの後にある、成就の喜びはない。従って、生きたなどとは言えないのだ。






「しかし、彼を砕いて病を負わせることは

主のみこころであった。

彼が自分のいのちを

代償のささげ物とするなら、

末永く子孫を見ることができ、

主のみこころは彼によって成し遂げられる。

彼は自分のたましいの

激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、

その知識によって多くの人を義とし、

彼らの咎を負う。

それゆえ、

わたしは多くの人を彼に分け与え、

彼は自分のいのちを死に明け渡し、

背いた者たちとともに数えられたからである。

彼は多くの人の罪を負い、

背いた者たちのために、とりなしをする」(イザヤ書53:10-12)。


文中にある通り、聖書の引用の一部が新改訳第4版に統一されていませんのでのちに修正します。

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