キリスト教の誕生
キリスト教はこうした、ユダヤ人たちの筆舌に尽くしがたい苦難の中から生まれた。ユダヤ人たちは、おおよそ考えられうる限りの苦しみを嘗め尽くした民族だといっても良いであろう。では、そのような民族はどのような思想を生み出しただろうか?
マックス・ウェーバーは『古代ユダヤ教』の中で、聖書の特徴を『賤民中心主義』と呼んでいる。パーリアというのは、インドのカーストで不可触賤民と位置付けられる最下層民のことである。もちろんこれは、当時ドイツで大いに流行っていたユダヤ人差別などとは無関係である。また、あらゆる意味での社会的差別とも関係はない。意味としては、最も弱い者、みすぼらしい者、虐げられたものこそが最も正当であり、正義であるということである。弱い者は虐げられるが、窮地にあればこそ、窮地にある者の苦しみを知る。そこで、「弱い者、苦しむ者、虐げられる者を中心とし、人の苦しみに共感できる者」が最も尊いという、一見奇抜な思想が出来上がったのである。だから、イエス・キリストは粗末な馬小屋に生まれ、決して贅沢などせずに過ごし、十字架刑という残虐刑によって死に、復活する。その生涯自体が「賤民」的である。
ナチスに抵抗して、収容所に入れられ、殺された牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーは「苦しむ神のみが救うことができる」という言葉を遺した。自らが弱い民族であるがために苦難をなめること、弱いがゆえに苦難をなめたものこそが真に正しく、この特徴を備えたものが、世の救い主となる。これが、イエス・キリストの本質である。
イエス・キリストは、単に神の子として父である神の右に座したまま、地上に啓示をもたらし、それによってのみこの世を救おうとはしなかった。自ら地上に降り、人間として考えうる最大級の苦しみを享け、それによって、人の弱さの全てを自ら知り、それを恵みに変えようとした。
神の子だが、受肉している。だから、人の子なれば、弱音も吐く。これから受ける自分の苦しみに不安を覚えるイエスを、私たちはゲッセマネの祈りに見ることができる。マルコの福音書14章の始めでイエスは愛する十二弟子とともに最後の晩餐をとる。そこで、これから自分がイスカリオテのユダに裏切られ、十字架につけられ、三日目によみがえることを告げる。その後、ゲッセマネという場所に行き、こう祈るのである。
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」(マルコの福音書14:36)。
だから、自分の弱さを正直に吐露することは、決して恥ずべき事ではなく、イエス・キリストも行っている、生きる苦しみを経ていれば必然的に出てくる行為なのである。
だから、「死にたい」と人に話すことは、とても重要なことだとさえいえる。イエスであってさえ、苦しみの前には神に向かって弱音を吐いたし、苦しまなければ、人を救う事はできない。大業を成し遂げる強さを得られないのである。自らの使命を全うするためには、人間として考えられうる、最大級の苦しみを受けて死ぬ、ということである。
では、そのイエスが享けた最大級の苦しみとは何か?それは、神羅万象すべての創造主である我が父、神に見捨てられて死ぬ、ということである。ご存知の通りイエスは十字架につけられ、わき腹をやりで刺されて絶命する。十字架刑は古代ローマ帝国では特殊な重罪人に課せられる残虐刑であった。したがって死に至る過程も長く、苦しみが多い。先ほど、イエス・キリストのゲッセマネでの祈りを紹介しておいた。神の子であるが、人の子として受肉している。人間と同じように、イエス・キリストも狂おしいほどの不安を覚えるのである。
その際の最期の言葉が各福音書によって違っているのは、まことに興味深い。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイの福音書 27:46、マルコの福音書 15:34)。
「イエスは酸いぶどう酒を受けると、『完了した』と言われた。頭を垂れて霊をお渡しになった」(ヨハネの福音書 19:30)。
その後、イエスが三日目に復活し、弟子たちの前に姿を現すのは周知のとおりである。この、「苦しみを享けること」がなければイエスの使命、すなわち、人間が犯した罪を贖い、神と人間をとりなすということは成就しないのである。イエスは弱さを体現する。決してパリサイ人やローマ兵に逆らうことがない。最も弱い家畜である子羊のように従容として、十字架につき、苦しみぬいて、わが父である造物主に砕かれて死ぬ。あらゆる苦しみがあれども、必ずイエス・キリストが自分の苦しみを理解し、肩代わりしてくれるとキリスト者が信仰するのはこのためである。