歌人鳥居の苦難と愛
私は、歌人としての鳥居を高く評価している。興味深い歌人であり、秀逸な歌を詠む。そもそも私には、現代短歌に興味がなかった。万葉集とか伊勢物語のほうがずっと面白いんじゃないかな、と思っていたが、鳥居のおかげで考え方が変わった。私が短歌づくりを始めたのは彼女の影響による。
彼女の生い立ちについては、岩岡千景著『セーラー服の歌人 鳥居』KADOKAWA/アスキー・メディアワークス刊、にある通りだ。この本を読んで「おや?」と思うのは、周りの大人、行政が、徹底的に彼女を助けない、虐待するという事である。福祉職によるハラスメントは私も受けることがあるが、彼女が受けたそれは常軌を逸している。
鳥居が2歳の時、鳥居の母が離婚し、精神を病んだ彼女と生活する。新宿の児童相談所に一時保護ののち、三重県の養護施設へと入所するがそれぞれで悲惨な虐待やいじめを受ける。その際に児童福祉職が見回りに来たりするのだが、彼らは鳥居の悲惨な境遇を見過ごす。結果、中学はほとんど不登校のまま卒業。その後叔父からのDVによってDVシェルターに移るが、そこでもいじめにあい、里親に引き取られる。里親も鳥居を使用人として使うことしか考えていないような者で、里親のもとを逃げ出してホームレス生活を送ったのち、格安物件で暮らす。
日本は地獄である。
誰も困窮するものを助けない。助けないどころか、ここぞとばかりに打ち据える。鳥居はその狂える地獄の中にある、常人=凡下なら見過ごすものに命、美、死、憐れみ、不安、などを見出す。まことに稀有な歌人であり、現代短歌に興味のない私でも、彼女の作は別ものとみる。
干からびた みみずの痛み想像し 私の喉は締め付けられる
(鳥居『キリンの子 鳥居歌集』47頁)
私は田舎で生まれ育った、路上のアスファルトの上で、干からびて死んでいるみみずを幾度となく見てきた。だが、そこに、みみずの死に至るまでの苦痛を想像したことはなかった。みみずも生きているのだから苦しみもあるだろう。干からびるまでに水分を喪失して死にゆく過程の苦痛は、想像に余りある。こうして常人なら何気なく見過ごしてしまう苦痛への感受性は、鳥居自身の過酷な経験から得られたものであろうと推測される。
全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る (同 33頁)
剥き出しの生肉のまま這う我を蛇のようだと笑う者おり (同 33頁)
これは鳥居が、児童福祉施設で生活していた時に受けたいじめを歌ったものであるが、実に過酷である。だが、自分がいじめを受けているその真最中にそのような自分を虚心のうちに見つめる前者の歌、おそらく、無理矢理に全裸にされたのだろうか、そのような自分を、人間性を失った「剥き出しの生肉」と的確に表現する後者の歌は、いじめを短歌に歌うということ自体が稀有なうえ、いじめのリアルタイム的状況描写、その残虐性を静かに表現することで、かえって読む者に痛烈な印象を叩き込んで来る。
鳥居は、幼い頃に母の自殺を眼前で失い、のちに自身も自殺未遂を図っている。次の2首は、自らの自殺未遂後の状況を詠んだものと、解説にある(『キリンの子 鳥居歌集』には読んだ時の状況が書いていない。歌人の吉川宏志による巻末の解説からわかる)。
助けられぼんやりと見る灯台はひとりで冬の夜に立ちおり (同 8頁)
植物はみな無口なり自死できず眠ったままの専門病棟 (同 11頁)
いずれも自らの自殺という重大事を冷徹に、無機質性を思わせるほどに静かに詠んだ歌である。本人は当然助けられて生きているのだが、生の躍動と死の緊張は限りなく抑制され、すぐに想起できる、日常よく有りそうな光景の中に死を連想させる。
私に短歌の良し悪しを評価する文芸的能力はないが、これらの歌はみな秀作だと思う。重要なのは、こうした短歌が児童福祉施設での度を越したいじめや、自らの自殺未遂という苦難なしには決して生まれなかったろうということである。
先に、私は、聖書の中から、自らの死を思う者たちが義人たちばかりであることを述べた。私は、鳥居を個人的に知っている訳ではない。だが、彼女は大切なことを心得ているようだ。以下の記述は、鳥居の生い立ちに関するルポルタージュ、『セーラー服の歌人 鳥居』132頁以下を参照・引用している。
鳥居には祖母がいた。確執もあったが、鳥居は祖母の介護もし、それが独力では無理になる。すると自分では知らないうちに祖母は老人ホームへと悪質な親族によって移されてしまった。親族はたびたび鳥居を脅迫し、嫌がらせをしていたのだが、祖母を老人ホームに預けたときに、勝手に祖母の貯金を使い切り、鳥居が祖母に会うことも許さなかった。このとき鳥居は
「わが家はどこで歯車が狂ってしまったの」
「なんでこんなふうになってしまったの?」
と思ったという。鳥居は職員から祖母の元気であることを聞くと、
「これ以上求めちゃいけないんだ。無条件の愛を示さなきゃ。“愛し返してほしい”なんていう邪念があったら、伝わってしまう」
と考えた。ここにキリスト教で最も重要とされる精神である無上の愛を見ることは容易である。もとより、イエス・キリストの教えは、愛し返されることを否定してはいない。だが、キリスト教は信仰である以上に愛である(コリント人への手紙第一13:13参照)。鳥居の生涯にキリスト教との接点はとくにはなかったようだが、まことにもって、凡百のキリスト者以上にイエス・キリストの徒らしい精神の持ち主であるとは言える。