狂える時代
生きる人間の苦しみは、果てしがない。人生はすべて苦である。歓びはかりそめ。その歓びすら、苦しみの引き金に過ぎない。人は愚かにも、不細工なやり方で、その苦しみを覆い隠そうとして、すこぶるまずいものを必死で飲み下した後に無理矢理笑顔を見せているがごときである。ある程度の間生きてきて「死のう」と思ったことがない人間はいない。「そんなことはない」などというウソは要らない。
世はどれほどに残虐であるか。試みに「死にたい」と言ってみるがいい。「死ねば」「そういうことを言うやつは死なない」などと言われるだけだ。人間は全て残虐だ。愚かにも「強くなれ」「頑張れ」「しっかりしろ」「甘えるな」などのカラ文句で場をとり繕おうとする者も多い。その愚かしさの故にそういう言葉が死を思うまでに苦しむ者をかえって打擲していることに気づけもしない。
死を思う者は絶望しているが、それを取り囲む社会も絶望的である。私がうつ病に罹患したのは1999年だから、もう自殺者3万人時代を迎えていた。それから19年。減ったとはいえ、自殺者は2万人台をキープ。数十万人が自らに手を下すことに成功して果て、のべ数百万人が死なんとした。たいした実績だ。もう10年も待てばクメール・ルージュや文化大革命に並ぶか。どの日本人に北朝鮮を嗤う資格がある。地獄に居ながら、己がどこに居るのかも分かっていないだけではないか。畜群はただ、屠り場に引かれ行くのみ。
私は、今年2017年2月以来、うつ病を長期にわたって発症し、本格的には仕事をしていない。ニートか、と言われればそれに近い。その間に、私の知る限り、4名の過労死が問題になった。特段問題になった人だけで4人なのであって、もっといることは論を俟たない。2017年2月より約1年間だけを数えた。他にも多くの方が過労自殺していることは報道の通りである。ただ、キリがない。狂える日本人。これがわかれば十分だ。
まず、国立競技場の建設にあたっていた作業員の方が1か月にわたり190時間の残業のすえ自殺した。労基署が労災認定している以上、これを純然たる自殺を見るには無理がある。労務管理の失敗による、限りなく過失致死あるいは殺人に近い死とみてよいだろう。それにしても国立競技場はオリンピックというスポーツの祭典のために改築するのである。お祭りをやる施設を作るために死ぬ。狂っていないか?
電通新人社員の高橋さん(当時24)が2015年12月に過労自殺した問題も労災認定された。残業が100時間を超えていたというが、新入社員が即自殺するというのも、うすら寒い。入って即座に虐待の上、殺される。奇怪な組織だ。
NHK社員の佐渡さん(当時31歳)の死が労災であることが労基署から認定された。NHKからは遺族が連絡するまで謝罪もなかったという。そして誰も処分されていない。殺してもかまわないと考えているのだろう。NHKは報道番組を作成するぐらいなら、与党議員や首相の発言を垂れ流していたほうが作業量も減って過労死もなくなるだろうに。あ、もうそうしてるか。なら、その尋常ではない作業量は何だ?
新潟県教育委員会は2018年1月9日、高等学校教育課の40歳代の女性職員が勤務中に倒れ、8日に死亡していたことを明らかにした。このニュースはあまり大きくは取り上げられなかった。過労死という事態が常態化しているから。
過労死?よくあること。生きるために働くのが本来の姿なのに、働いたがために死ぬ。それが当たり前なのだ。
哲学者のハンナ・アレントは、著書『人間の条件』で、現代社会の特徴を「労働する動物の勝利」と形容した。現代人は賃金労働をし、得た賃金を消費に回して、生命を維持する、そしてまた働く、ただ、それだけの存在だというのだ。だが、現代日本はそれ以下だ。「労働する動物の処刑人の勝利」だ。
皮肉なことだ。19年間「死のう」と思ってきた人間がまだ生きていて、必死に「生きよう」と思って働いていた人間が死んだ。何が違うのかといえば、「死のう」と思っていた人間はうつ病を患っていて、ぐうたらと家におとなしくしているので、社会の中に強く組み込まれていなかった。「死んだ」人間はしっかりと、あまりにも強く社会に結び付けられていたという点だ。「社会がおかしい」と私は断言するが、何か反論はあるか。
狂える社会を生き抜くにはどうしたいいか考えてみよう。『聖書』という本から自殺を考えてみたいと思う。そしてこの狂える時代を生き抜く作法を提供できたらと思う。